愛について3







 ―――思わず、足を踏み出していた。

 うっすらと森にかかる朝もやのなか、テントから出てきた黒髪の人影はすぐにイルカだと分かった。
 もやと木立のせいでよくは見えなかったが忍服のベストやアンダー姿でなく、いつものように髪も結っておらず、しかも後姿しか見えなかったが、見間違えることはない。
 動きがすこしぎこちないのは寝起きだからだろうと、ホッと安心した。

 なんだ、無事じゃないか。
 安心と疲労が一気にカカシへと圧し掛かってきて、乾いた笑いを喉の奥で鳴らした。どうにも足が限界を訴えて休憩するたびに、イルカの倒れ血を流している様子が思い浮かび、夜を徹して駆けて来た。
 そんな焦った自分が馬鹿みたいだと思った瞬間、イルカの後から出てきた、たおやかな人影に体が強張った。
 どうみても女だった。

 まさかと足が踏み出ていた。
 草の踏み分ける音。
 しまったと思う余裕もなく、イルカを見つめた。
 視線が一直線にイルカへと向かい、振り向いたイルカをみて、カカシは言葉を失った。
 足が竦み、呆然と突っ立った。

 嘘だ、とイルカが囁いた言葉が聞こえた。
 なにかをいうべきだとは分かっているのに、何もいうことができない。
 痛々しい手当てのあとが、はっきりとこの目に見えて、恐ろしさに凍り付いていた。
 体も目を凝らせば、包帯が幾重にもまいてある。
 自分が傷つくよりも、イルカが傷つく方がずっと痛い。
 その痛みに、どうするべきか分からず、カカシはただイルカをみていた。

 最初に動いたのは女。

「―――どうしたの、カカシ。こんなところに居るなんて」

 カカシの方へと歩み寄ってくる姿。イルカが、ふいと視線を逸らして、背中を見せた。そのまま、足を軽く引きずりながら向こうの木立のほうへと行こうとしている。
 思考の止まった体が、とっさに追いかけようとした。誰かに腕を掴まれた。視線を動かすと、女がカカシのすぐ傍らまできていて、止めていた。いたずら気に目が光っていた。

「男同士の連れションっていただけないわよ」
「…………」
「久しぶりね、私のこと覚えてる?」

 覚えているでしょうと言いたげなのに、どこか気弱にみえる鳶色の目と赤毛、カカシは頷いた。
 女は、顔をほころばせて良かったといったが、カカシのなかでは麻痺したように懐かしさは感じなかった。
 あるのはイルカをみた瞬間に感じた痛みだけだ。
 火影に話したことなど忘れた。
 任務で負った傷であっても、憎しみは簡単に敵に向いた。

「―――あれ…、―――あれ、なに。誰がやったの。殺してやる。殺していいよね。苦しむように八つ裂きにしてやるよ。ああもう死んでるの。どこ。どこにある。灰にしてやるよ。何も残らないように。だから」

 パシッと頬に軽い衝撃を感じた。
 女の目が近くにあった。

「落ち着きなさい。あなたはそんな人じゃないでしょう」
「……」
「まさか、この任務の交代できたわけないわよね。どうして―――」

 女がカカシのベストにひっかかっていたものに気づき、指でそれを取った。
 指先にはさんで、カカシの目の前でくるりと回してみせた。

「これ、手土産?」

 目の前で回る、千切れた小枝は、いかにも森を抜ける際に枝から引っ掛けてきました、というようなものだった。実際、木々の間を力任せに突っ切ってきた。だからこそ、半日のうちに到着できたのだが。
 カカシはバツが悪く、目を伏せた。
 自分の格好が、昨夜よりも尚くたびれているのに今更気づく。カッコ悪いなと思ったが、イルカが女と出てくるところに出くわしたこの状況がなによりカッコ悪いことにも気づいた。
 居たたまれない気持ちで、さらに居たたまれないことを白状する。

「…一応、任務」
「どんな?」
「……三代目の饅頭を買いに」

 たっぷり五秒は沈黙が落ちて、女があきれ果てた口調で、本気で? といった。カカシは頷く。やれやれと女が肩をすくめた。

「まったく、三代目もカカシに子どもの使いをさせるなんて」
「や、違うよ。俺が頼んだんだ、行かせてくれって」
「? どうして」
「―――…イルカさんが心配だったから」

 今度こそ、あきれ果てた目で見られた。俺っていま最高にカッコ悪いと心底カカシは思った。

「お、俺のことはいいの。どうでも。それよりあのイルカさんの顔、酷くやられてる。歩いてたけど大丈夫なの。敵はそんなに手ごわいわけ」
「ちょっとちょっと、そんなに一度に質問しないで。イルカだけど、命に別状ないわ。ただ…ちょっと、怪我人が多くて顔の治療まで手が回らなかったの。私のチャクラが回復したら治すつもり。痛んでるでしょうけど我慢してもらってるの」
「…あんた、医療班なの?」
「そうよ。お陰さまで」

 なぜお陰さまといわれるのか分からず小首を傾げたが、女は説明しなかった。かわりに、ふと眉をひそめた。

「ねえ…さっきの言葉、本気じゃないわよね?」
「…さっきのって、なに」
「イルカの傷、やった奴を殺すって」

 本気ならば言わないと言外に告げていた。けれど、カカシの胸のうちでは治まりきらない憤りが渦巻いていて、これを晴らす相手がいるなら願ってもなかった。敵ならば、任務内容に準じるにしても相応のことをさせてもらう。生きているほうが苦しいとまでいわせる気はないが。
 女の目はカカシをじっと見ていて、嘘はいえず、ため息をつく。

「……殺すのはやめとくよ。顔の形が無くなるぐらいに殴るんだったらいいよね」

 本音は、顔だけでなく手足もついでに折って間接を外したうえで一昼夜ぐらい生きたまま放置してもいいのではないかと思ったが、女の顔色を見る限りでは、本音はいえそうにない。

「本当に?」
「…多分」
「頼むわよ、殺さないでよ」

 言い渋る様子に、まさかと思い始める。
 女を見つめて、名前をいえと促した。逸らされた視線と横顔は、古い記憶を呼ぶようなものだったがカカシはそれを無視した。イルカと寄り添っていたかもしれないという疑いが渦巻くまえに、目の前の今に意識を集中する。
 吐き捨てる強さで女は言った。
 その名を。

「…同じ里の忍びを殺しちゃ、あんな奴でも罪になるのが嫌ね」
「そうか…やっぱり、な…」

 あまりに不安な予測が当たっていて笑いたいほどだ。
 汗ばんできた掌を、ぎゅっと握った。名前を聞いた瞬間、可笑しさを感じると同時に肌が粟立った。不安が的中したことより、イルカが以前に受けた迷惑を加算して、返してやれることに血が滾った。

「ここじゃ副長してるわ、一応。なあに、あいつ、って知ってるの」
「いや、噂だけ。なんでも別名タライマワシだってさ」

 フッと女の目が和んだ。

「上手いわね、ソレ。言えてる、任務から任務へタライマワシ」
「俺が言ったんじゃないけどね」

 ひとしきり女は喉で笑った。

「―――ここ、そんなにてこずってるの」
「まさか」

 女は肩を竦めた。

「確かに最初こそ人数が多かったから、それだけはてこずってたようね。でもアタマをとってからは烏合の衆よ。もう残ってるのは十人もいないわ。それも怪我人とか老人とか。…イルカは捕まえて依頼主に引き渡すつもりのようだけど」

 任務の詳細はわからないが、指示が殲滅でないかぎり妥当な選択だ。盗賊などは、頭目を抑えれば戦意はなくなる。実行犯はたいてい処刑されるが、団のなかにはいわくある人間もいるもので、いろいろに利用することもある。たとえそうでなくても、無駄に人死にを出さないというのは、木の葉の基本姿勢に通じる。イルカがいうのは、多分そういうことだ。

「そっか…」

 彼らしいな、とおもった。
 知らずに頬が緩んでいたかもしれない。女がやや呆れたように、細い指先をイルカの消えた方へと向けた。

「…そろそろ、いいんじゃない? あの方向は水場があるほうよ。散歩は適当にして戻って休みなさいって伝言して」
「…あぁ」
「この任務は上手くすれば今日明日にでも終わるわ。あなたも任務、行きなさいな」
「殴ってからね」
「足腰は立つようにしておいて。引きずって帰るのは面倒だわ」

 放って帰ればいいじゃない、と呟いて、カカシは足を動かした。少し前まで張り付いたようだった両足は、意外と滑らかに進んでくれた。イルカを追いかけるために。
 背中に、イルカも怪我人だから手加減しなさいね、と声が飛んできて、カカシは手のひらをひらりとさせて言葉のない返事にした。




2007.04.14