愛について3
受付に入って一直線に、目を丸くしている火影のもとへと向かう。受付で処理待ちの忍びたちが何事かと見るが、気にする余裕はなかった。走っている間も邪魔だった肉を、ドンと机に置いた。
しばし沈黙した火影が、ぷかりと煙管から煙を吐き出した。
「なんじゃ、くれるのか」
「ええまあそんなことは別に考えちゃいなかったんですがご所望ならどうぞ」
「ふむ」
金と食うものには困っていないだろうに、火影はわざわざ中身を確認して、なかなか美味そうじゃな、などと呟いている。
それで、とカカシは切り出した。
「任務、下さい」
「―――随分仕事熱心じゃのう。じゃがお主は疲れとる。休むのが肝心じゃな」
「疲れてません」
「何を言うか、あちこちくたびれて、男振りが下がっとるわい」
「下がってませんよ、活き活きして上がってます」
「屁理屈にもなっとらん。疲れとる証拠じゃ。―――どうした、お主ともあろうものが」
鋭い視線が、冑の鍔口からカカシを射貫いた。
ひるみそうになったが、ぐっと堪えた。
思い出すのは、資料室で見た過去の任務書だ。気になって、空いている時間を使って、情報だけは集めていたのだが、出てきたのは噂では収まらない事実だった。
イルカのことに留まらず、木の葉の上忍として見逃しておくにはどうかと思われる事実が多く、初めはちょっとのつもりで眺めていたのに知らず読み込んでいた。
そのうちに、気づいた共通項があった。イビキが一般人を殺せる任務を選ぶといっていたのは間違いではなく、里の忍びも死亡例がちらほらとある。
問題は、その死亡時期だ。
一般人は任務の初期に、里の忍びは任務の収束直前に多い。
理由は疲労や諍い、人為的ミスなどもっともらしいが、データを見れば一目瞭然だ。
いくつかの事例を取り上げるなら、潜入先の任務での使用人の殺戮中に負った怪我により忍びの死亡例、捕縛とされた任務では一人を残して起爆符での殺害、帰還直前に忍びが符による誤爆事故により死亡。
つまり、任務中に血を見た余韻が抜けきらない状態の刃を、見境なく味方へと向けている。
推測でしかないが、今までの暗い経験からそう判断した。
そして、いまイルカの状況を改めて考える。
カカシは声を潜めた。
疲れなど、吹き飛んだ。
「詳しくは今は言えません。でもお願いします、東に行く任務なら何でもいいです」
「ほう。なんぞ用事か」
「ええ大したことじゃないんですが。緊急で。ちょっと気になって」
「ちょっと気になって、という顔をしとらんのは己で分かっておるのかの」
煙管の先が、ちょんと上がってカカシの顎のあたりでふらふらと揺らめく。三代目が少しでも指を動かせば、カカシの顎が吹っ飛ぶだろう。目の端で、置いてきた中忍が追いつき、はらはらと様子をうかがっているのがみえた。
「…確かに、少し頭に血が上っているかもしれません」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
「でも、行きたいんです。このままだと、休むこともできません」
「何故じゃ。そこまで何が気がかりになっておる。話してみるがいい」
「それは…」
カカシが抱える不安は、結局のところ、推測でしかないのは承知している。
まして、内容が同胞殺しだ。
迂闊には言えないことだった。
迷って迷って、俯いて絞るように口からでたのは、我ながら頭を抱えたくなるような台詞。
「とある…人が心配で。怪我をしてないかと見に行きたいんです」
ぽかんと火影が呆れたのが、見るまでもなくはっきりわかった。
本当は怪我だけでなく、命の危険さえあるといいたかったが、いえなかった。
「だから―――」
煙草の匂いが鼻先にぷんと匂った。顔を上げると、煙管の先が目の前にあった。
「それは忍びかの」
「…えぇ、はい」
「請け負うておらん任務への手出しは許されん、というのはもちろん承知じゃろうの」
「はい」
「同時に、そのようなことをされれば相手がどのように思うかも、考えておるかの?」
「……」
いいたいことは分かる。
もしカカシがイルカの立場であれば、なにをしに来たと詰るかもしれない。
心配で見に来たなどと、侮るのもいい加減にしろというかもしれない。
「―――それでも、落ち着かないんです。見るだけで、けっして手出しはしませんから。無事な様子を確認したいだけなんです」
頭の隅で、イルカの姿が傷つけられ打ち倒される想像が、血の色も鮮やかにちらつき、指の先が震えそうだった。自分でも可笑しいと思う。だが、自分の集めた情報と、イルカの様子。守ると決めたこと。全てが危険だと告げていた。自分の勘を疑うのは、不安が破られたときでいい。
到底、このまま帰って安らかに眠れるなど思えなかった。
お願いします、と泥を吐くように呟いた。
「…ふん、そこまでいうか」
カツンと音がして、目を上げると火影が煙管を煙草盆においていた。そして、手近な筆を取った。
「これ、誰ぞ最近の任務書と白紙の任務書をくれんか」
「…三代目…っ」
「ちょうど向こう街の饅頭が食いたいと思うておったところだ。どれ、使いを頼もうかの」
「三代目…っ」
「ええい、うるさいわい。ちと黙っておれ」
いち早く動いたのは、はらはらと見守っていたらしいあの男で、ササッと一抱えある書類と巻物の束、そして恭しく白紙の任務書が差し出された。火影の皺だらけの手が、達筆でさらさらと紙面に何事かを書き付けていく。
巻物を解き広げ、書類の束をめくりながら書きつけていく様子を、足踏みしたい気持ちで見守る。
ふと火影が口を開いた。
「仲良くやっとるのか」
一瞬、どういう意味で尋ねられたのかわからなかった。よほど頭が空転している自分に驚きつつ、一昨日の夜のことを思い出しながら、頷いた。
「そうか、いつからじゃ」
「えー…えぇと…最初からだと七年ぐらい…でしょうか」
「ほう。長いの。お主にそんな相手がおったとはな」
「はあ、まあ、いつも迷惑かけてます」
「そうかそうか、ふむ、亭主のしつけもよう出来とるの」
書きつつ火影は好々爺の顔で笑っている。予想に反して火影はイルカのことは知らないようだと気づいたが、いまはそんなことは瑣事にすぎなかった。
「あの、火影様、それはいいんで、早く―――」
「ばかもん、いいことがあるか。それで、まだまとまらんのか、相手が渋っとるのか」
「え? 渋るとか渋らないとかじゃないんですけど…」
「なんじゃ、しっかりせんか。お主がそんな弱腰じゃからまとまらんのじゃろう」
「さあ…どうでしょう…?」
首を捻った。イルカと自分の普段の様子を思い出すと、そういう問題ではないような気がする。だが、時として第三者の客観的な声というのは、当事者からは分からない真実を見抜くというし、なによりこの老人はプロフェッサーと呼ばれた忍びなのだ。そうかもしれないなあ、と思い直した。
「はっきりせんの、宝の持ち腐れというやつじゃな、お主のその顔は」
「はあ…」
「まあよい。ともあれ、はっきりけじめをつけるがいい。なんにせよお主が家を持ち家庭を持つのは良いことじゃからな」
「はあ、それで、早く、火影様」
もはや見合い話を持ち込む爺の縁側話になっている。カカシは火影の手元をじっと見ていたが、先ほど書きあがっているはずだ。あとはハンコを押すだけだ。
「判を―――」
「わかっておるわ、急かすな」
「急いでるんですって」
こんなところで時間を潰している場合ではないのだ。火影は知らないからのんびり構えているが、カカシには焦る事情は山ほどある。火影の手によって、仰々しい角印が押された瞬間、カカシの手がおもわず延びていたが、さすが火影、皺だらけの手のほうが早かった。
カカシの手は空を切り、火影がにやりと笑う。
「饅頭代は立替でな。あと―――」
「…まだ何か」
「戻ってきた折には、二人揃って挨拶にくるがええ。書でも一筆進ぜよう」
ほれ、と出された墨蹟も鮮やかな任務書を、残像を出す勢いで奪い取り、
「無事に戻ってこれたら、ですけどね」
じらされた腹いせに言い返して、カカシは受付を全速力で後にした。火影は、しばらくそれを見送ってから、手元の任務履歴書に「饅頭購入任務・Dランク」と書き足したのだった。
2007.04.13