愛について3







「なんだ、君は知っているだろう、猿飛や不知火さ。森野もそうだろう。驚いたよ、彼がそんな趣味があったなんて知らなかったしね。だからこそ、彼好みかと興味が湧いたんだが。不思議なもんだよ、まったく。言ってみれば、彼とおシリ合い、ってやつだ」



 ハハハ―――と甲高い軽薄な笑い声がほんの数秒だけ響き、語尾が、ヒャギャ…ッ、と悲鳴になった。

「そう、そんなくだらないことで」
「カカシさん…ッ」

 顔面に拳をめり込ませて、地面に転がした。
 鼻筋を砕いてやった。

「な、なにを…!」
「なに。いまさらイビキに取り入って元の部署に戻してもらいたくなった? それとも見せ付けたかった? ああ、まさか他の上忍の仲間にでも入れてもらおうとおもったの。ざーんねん、アンタ、半殺し決定だから」

 足で、男の腹を蹴り飛ばした。上半身を動かさずに足の動きだけで蹴ったにも関わらず、近づいてきた距離分を男の体は吹っ飛び、木に叩きつけられて止まった。 
 苦しげな呻きのあいまに、何をする等と怒鳴っている。体は痛みで動かすことができないようだが、声だけでも出せるのはやはり特別上忍ゆえということか。内臓が破裂してもかまわない力で蹴りつけたというのに、丈夫なことだ。これなら顔の形を変えているあいだも意識があって良いかもしれない。
 カカシは鼻で笑って、ホルスターからクナイを取り出した。
 くるりと人差し指で回しながら、男へとゆっくり近づいていく。

「カカシさん…ッ」
「ダメだよ、イルカさん。聞けないよ」
「クナイなんてどうするんですか…!?」
「ん? 見てればわかるよ」

 切羽詰ったイルカの声が、カカシの笑みを深くする。視線はうずくまる男へ注いだまま、歩みは止めない。このクナイで、男の手のひらを標本の虫のように、幹に縫い止めるつもりだといえば、きっとイルカはいけないと言うだろう。だから、イルカは見ているだけでいい。
 カカシが勝手にするだけのことだ。

「こんなのが居たら、おちおち任務に集中できないから、今のうちに片付けとかないと、ね?」
「カカシさん、止めて下さい…」
「どうして? どうしてやっちゃいけないの?」

 見えている景色のなかで、男が鼻血をたらしながら、うずくまったまま怯えた顔で後ずさろうとしている。イルカの、懇願するような声がカカシに届く。

「それは…、カカシさんがこの任務に関係ない人だから、です…」

 苛立ちの芽がカカシのなかで、大きくなっていく。半身だけ振り返り、イルカを見た。苦しげにしながら、イルカは立ち上がって、座らせた岩から数歩進んだところにいた。傷だらけだというのに、と舌打ちしたくなった。
 ささくれ立った気分のまま、口から出た言葉も、普段なら決して言わないようなもの。真実を知っていたはず、イルカがしたことを知っているはずなのに、止まらなかった。

「なんですか? どうしてそこまでこいつを庇うの。―――ああ、アレ? こいつがそんなに良かった? イルカさんのケツの具合が良いっていってたよね、イルカさんも、クセになった?」

 イルカの顔が歪み、傷つけたことがはっきり分かった。
 蒼白になった顔色を一瞬だけ目に映し、体を前に戻した。
 途端に胸のうちに湧いた悔恨を、カカシは痛みとして受け取る。
 平坦な声で、続けた。

「でもいいよね? ソレ、取っちゃっても。根元からブチ切って刻んで燃やしちゃっても、いいよね? 俺はそんなに心狭くないよ、でもね、こいつはダメ。イルカさんをそんな顔にするような奴、俺は認めない。そんな奴にはね、きつーいオシオキが必要だよね?」

 口端を吊り上げて笑うカカシの脳裏に、イルカと目の前の男が抱き合う想像が浮かび、鳥肌が立った。耳朶がちりちりと焦げるような熱さで、ただの想像であるのに、許せないと思った。イルカが本当はそんなことをしてないと分かっていても、その想像は受け入れがたかった。嫉妬、なのか。
 怯えに上擦った声が上がる。

「なに、なにを言っている! そんなことをすればカカシ、お前は懲罰もんだ! ひゃはははあ!」
「―――聞き苦しいね」
「お前か、お前だったのか、カカシ。こんなパッとしない中忍に入れ込んでる馬鹿がいると聞いたときには信じてなかったが、そうか、お前なら分かるぞ、森野隊長や猿飛の態度もな! 上忍連中は馬鹿ぞろいだな!」
「……」
「こんな中忍に顔色変えやがって。中忍と上忍じゃ、生きてる価値が違うんだよ! 里だってそうなんだよ、中忍が死にそうになってんのと、俺が死にそうになったんじゃ、俺の方がマズイんだ、カカシィ、解かってるんだろう? イルカなんかより俺と仲良くやろうぜ、上忍は上忍同士だ、なあ?」

 神経が、焼切れるかと思った。
 手のクナイを、男の頭髪が散る近さに、幹へと投げた。息を飲んだ悲鳴。冷めた目で男を見ながら、二本目のクナイを取り出す。左手に移し、三本目を取り出した。手をまず縫いとめるつもりだったが気が変わった。その口をまず閉じることが、この切れそうな程の苛立ちに必要だった。
 両手のクナイを同時に投げ、身を竦ませる男の首筋、皮が切れるように、挟むように刺した。
 一歩ずつ近づき、男の前に立った。

「ヒ、ヒ…ッ」
「あんたさ、上忍、馬鹿にしてんの?」
「やめ、止めろ…ッ」
「自分に都合の良い情報しか集められないなんて、あんた、忍びの恥だよ」
「カカシさん…!」
「上忍てのはね―――威張るためになるもんじゃないんだよ…ッ」

 大きく振りあげた拳を、クナイに挟まれ逃げようのない男の顔面へとめり込ませた。
 聞くに耐えないような悲鳴があがり、カカシは眉を顰める。手甲についた男の血が厭らしく、あとで捨てることに決めた。

「カカシさん、もう…!」
「まだ」

 短く答え、再度、振りかぶった拳を男の右顎へ掬い上げるようにぶち当てた。続けざまに、左にも同じようにしてやる。殴るたびに悲鳴が上がり、止めてくれと頼む男のうわ言。カカシはそれを鼻で笑い飛ばす。

「痛い? ああそう、イルカさんも、他の奴も、もっと痛かったよ」

 眼窩を形作る骨を砕く勢いで、拳を振るった。首の両側にかかるクナイが、皮膚を削り、男は頚動脈が切れることに怯えてか、必死にずり上がろうとしている。それを遮るように、殴った反対の眼窩へと、さらに拳を振り下ろした。
 脳震盪でも起こしたのか、悲鳴が途切れた。クナイは皮膚だけを削いでいた。すこし残念に思いながら、ふっと息を吐き、カカシは血の付いた拳を払って体を起こした。

「…カカシさん」

 思ったよりも近い背後から、声をかけられた。振り返ると、五歩ほどのあいだを残して、イルカがカカシをみていた。顔を隠すことを止め、まっすぐに向けられているその眼差しは、非難に満ちている。カカシは肩を竦めた。

「…いいよ、別に」
「……なにがですか」
「これ」

 言って、親指を肩越しの背後へと向けた。その先には鼻血を垂らしている男が、木の幹にもたれかかり座り込んだまま、気絶している。殴った直後だから、顔の形は残念ながら変わっていないが、色は赤紫へと所々が変じている。いい気味だ。

「任務中に邪魔したって報告しても。俺は、こいつが俺を侮辱したっていうから。イルカさんは気にしないで、見たままを報告してくれたらいいよ」

 誤算がひとつ。
 殴っても、苛立ちは全て晴れてはくれなかった。
 カカシは棘を出さないようにとしつつも、平坦な口調のなかに、険が滲み出た。

「大したことじゃないよ、こんなこと。…あぁ、でもイッコ、忘れてた」

 わざと明るい声を出して、クナイをもう一本取り出した。指で回してもてあそび、可笑しくて口端が吊りあがるに任せる。本当に、可笑しくて仕方がない。

「イルカさんのお気に入り、ちょん切って置かなくちゃ…、ね?」
「…カカシ、さん…どうして」

「どうして? それは俺が訊きたいよ。どうしてそんなにイルカさんはこんなヤツ庇うわけ? 俺がこの任務に関わってないから? 任務の邪魔だから? それとも、ほんとに、お気に入りなわけ?」

 酷い言葉で傷つけた。
 痛々しい顔が、さらに苦しげに歪んだ。
 だが、イルカを言葉で傷つけていることを分かっていても、止まらない。
 怒りと悔しさが入り混じり、持て余すような癇癪に酷似した何かが、腹の内で暴れまわっている。
 いまさらになって、その指にも首元にも、イルカが何もつけていないことに気づいた。
 タグさえ付けていない首元は、包帯に覆われている。
 仕方がないという心を、どうして、と詰る気持ちが塗り潰した。
 噛み締めるようにイルカが言う。

「違い、ます…俺は…、ただ、ただあなたがそうする理由が無いと思っただけで…」

 憤りが、カカシの喉の辺りまでを熱くした。
 抑えようとするささやかな努力など空しく、声が苛立った。

「理由? そんなもの、あなたのその顔を体を見れば充分でしょう!」
「それは理由になっていません」
「なるよ! あなたが痛いなら俺も痛いんだ! それをやり返して何が悪いんです!」
「子どもの理屈です、それは!」

 真っ当な意見だった。
 いかにもイルカらしい正論で、カカシの苛立ちはさらに増した。
 そんなことを言っているんじゃない。
 一足す一は二になるというような、足し算でカカシの心は成り立っているわけじゃない。
 頭に血が上っていることを冷静に判断できないほど、カカシは腹立っていた。
 こんなに腹が立ったのは、生涯初めてかもしれないというほど。
 イルカを怒鳴りつけていることも初めてで、周りが全く見えていなかった。
 先ほどからの悲鳴を聞きつけて、こちらへ向かってきている気配があることを、カカシとイルカは、迂闊にも全く気に留めていなかった。
 大事なのは、目の前の相手だけだった。

「じゃあイルカさんは、俺にやり返すなっていうんですか!」
「そんなことは言ってません。でも今、カカシさんは何もされてないじゃないですか」
「されたよ、充分痛いよ! なんでイルカさんがそんなこと言うの、痛かったんじゃないんですか、どうして俺を責めるの? あなたの代わりに俺がしたんじゃないか…!」

 吐き出すように怒りをぶつければ、イルカもまた、叫んだ。

「俺の傷は俺のものです! あなたのものではありません!」
「―――……なに、それ」
「俺の代わりに、あなたが暴力を振るう理由は、ないんです。俺が傷ついていたことでご心配をおかけして申し訳ないと思っています。だから、見て欲しくなかった。俺がヘマをしたところを、見て欲しくなかったんです。俺が弱いから、あなたに迷惑をかけるなんて、冗談じゃないです、やめてください…!」

 なにそれ、と呆然とまた呟いた。
 あまりにイルカと自分の考えていることがかけ離れていて、立ち尽くした。
 言葉が頭のなかで何度も響く。
 イルカは自分の失敗と言った。カカシはイルカが心配だった。
 心配だったから、イルカが傷ついていて、逆上した。
 なのに。
 イルカにとっては、カカシに隠しておくべきミスでしかない。
 どこにもカカシが入り込む余地の無い言い分に、立ち竦むしかなかった。
 血の気が引いて、指からクナイが滑り落ちる。思考の止まった頭にふと、三代目の警告のような台詞が蘇った。任務中にそのようなことをすれば相手がどう思うかと、あの老人は問うた。カカシは分かったつもりだった。イルカが少なからず気分を害すだろうとは思っていた。けれど。
 最初から、イルカはカカシなど必要としてなかった。
 信頼などどこにも、無く。
 涙も出ない悲しさに蹲りそうになりながら、カカシは突っ立っていた。
 音の遠ざかった世界で、ハッとイルカが顔を上げたのはその時。
 真剣な眼差しはカカシを通り過ぎ、その背後へと向けられていた。
 一瞬で引き締まったイルカの気配に、カカシもまた反応して、振り返ろうとした。
 反射的に澄ませた五感に、火薬の臭い。

「やった、やったぞぉぉぉ…!」

 哄笑に近い、聞いたことのない声が途切れ。
 いまさら異常事態に気づいて。
 半身を捩った、瞬間。


「―――カカシさん……ッ!」


 引かれた腕に視界が回り、イルカの掌の熱さを感じたのは瞬く間。
 次の瞬間にカカシが見たものは、自分をかばうように立っているイルカの背中と、白い爆風と熱。
 そして轟音が耳を塞ぎ、辺りを薙ぎ倒した。
 残されたのは、死に向かおうとするイルカを抱えて、呆然とするカカシだった。




2007.04.28