愛について3
「ただいま」
イルカの部屋の扉をあけると、食卓に座っていたイルカが顔をあげた。一瞬、嬉しげに顔が綻び、カカシも嬉しくなる。イルカの生活の迷惑にならないように、と願うのはカカシのなかで当たり前のことになっていた。
「おかえりなさい、お疲れ様です」
「イルカさんもお疲れ様。仕事してたの? ごめんね」
「いえ、仕事っていうわけじゃないんです」
イルカが座っていたところには、巻物や書類が広がっていた。来春から担任になるから、今から基礎の確認をしたいのだと先日言っていたことを思い出す。
サンダルを脱ぎながら、額宛も外した。夜は湿気が多くなってきて、成長する緑の匂いとともに息が詰まるようで、口布を下ろして大きく息を吐く。なんとなく気も緩んで、帰ってきたという安心感を味わう。腹のなかの重石はいまだ消えてはいなかったが、気分はずっとマシになっていた。
少なくともイルカの顔をみて、勝手に頬が緩むぐらいには。
「カカシさん、メシ、食べました? 良かったら食べます?」
「いいの? おなかペコペコだよ」
「良かった。カレーですけど」
「んー…、甘口?」
訊くと、可笑しそうに「中辛ですよ」とイルカが答えた。以前、同じようにイルカの作ったカレーを食べたとき、ルーが甘いとつい言ってしまった。そのとき、イルカはそうですか? と首を傾げただけだったのに、今日のカレーは中辛らしい。
カカシは鍋のまえに立ったイルカに近寄っていって、一度だけぎゅっと抱きしめる。
「ぅ、わ! いきなりどうしたんですか」
「んー、なんとなく。イルカさんを抱きしめたくなったの」
「…いいですけど、別に」
顔を真っ赤にしてイルカがそっぽを向く。
「イルカさん、顔赤いよ」
「も、もともとです」
「うんうん」
棘のない減らず口に、カカシの頬は柔らかくなる一方だ。喉の奥で笑いながら、帰る途中で買った麦酒のパックを冷蔵庫に入れていると「笑わないでください」と注文が付けられる。
カチンとコンロの火がついた音がした。
六本入りのパックの銘柄はイルカの好きなもの。そのうち、一本だけを取って冷蔵庫を閉めた。
「イルカさんが俺を笑わせるからしょうがないじゃない」
「俺は笑わせようとしてません」
「そう? そうかなあ」
「そうですよ」
そうかなあ、と呟きながら、カカシはイルカが書類を広げている向かいに麦酒を置いて、次に皿を棚から出す。
数時間前までイルカのことで気分が上から下へ大忙しだった。半時間前など、気分が塞いで仕方がなかったのに、イルカが傍に居ると気分が軽くなる。どんな小さなことでもつい笑ってしまうから、やっぱりイルカのせいだと思うのだが、口にだすのはやめておいた。
「広げてるのって、演習のスケジュール?」
「ええ、去年のしおりを貸してもらって、ちょっとおさらいしておこうかと」
「ふーん」
どれどれと、皿に飯を盛りながら横目で覗くと、意外と高度な術まで項目に入っている。春あたりは基礎体力の向上が目的となっているが、夏秋ごろから変化の術の基礎の習熟が目的に書かれ、冬には火遁の術名が書かれてある。
自分の思い出したくもない幼い頃を考えると、たしかに出来てもおかしくないと思うが。
「これ、豪火球の名前もありますね。全員達成目標、ってわけないですよね」
「もちろん。そこに書いてある目標、出来る子なんてクラスに一人居れば凄いらしいですよ」
「へえ…」
出来ていた自分の幼少期は黙っていたほうがいいかも、と適当に飯を盛った皿をイルカに渡した。イルカは受け取りながら、ちらりとカカシを見て、
「カカシさんにはそんな目標設定、低いんじゃないですか」
「え、いや、どうかな」
少し焦って誤魔化すと、イルカが口元を緩めた。ふわりと湯気を立ち昇らせるルーが、飯の上にかけられる。美味そうな匂いが部屋に広がった。
はい、と皿がテーブルに置かれた。
「カカシさんならきっと出来てたでしょうね、見たかったなあ。お手本みたいに綺麗だったでしょうね」
「どう、かな。きっと自分流にしちゃってデタラメでしたよ」
あのころ、色々あったから随分ひねくれた子どもだった。イルカに出会わなくてよかったと、今なら心底思う。出会っていたら苛めて苛めて、嫌われていたかもしれない。
椅子に座って、いただきます、と手を合わせた。
イルカも茶を手にして、向かいに座る。
「ビール、買ってきてくれたんですね、ありがとうございます」
「ううん、俺が飲んじゃってるから、ごめんね」
「気にしないでいいんですよ」
「うん」
カレーも麦酒も美味かった。
イルカが作る料理をまずいと思ったことはあまりないが、気づいたことがひとつ。シチュー料理が多い。単純に好みかなと思っていたら、他の料理のときも余分に作ってあったりする。もしかして、と思いつつ、おこがましい気がして訊けていない。
その代わり、出来る限りの範囲で食材や酒を補充しておく。
気にしないでいいんですよ、と言うイルカが気遣わないために考えだした、いかにも気を使ってますと暴露している方法だ。
たとえ忍術がスケジュール以上に出来ていても他が上手くない人間だと、しみじみ自覚する。
「カレー、美味いです」
「中辛って久しぶりに食べたら美味いですよね」
カレー味の飯粒を飲み下して、カカシは湯のみを傾けているイルカを見る。キスしたいなあ、と思う。イルカから嫌われていないと感じるたびに、こうして抱きしめたりキスしたくなるのだが、今はやめておこうと自制した。
イルカの唇から視線を無理やり外して、イルカの手元をみる。
「―――…あれ、それなに?」
書類にかからないようにテーブルの端のほうにある、チラシ紙でつくられたような箱。イルカが手を伸ばして、カカシの前に置いた。中を覗くと小さな羊羹や飴やチョコレートの欠片、クッキーまである。
チョコレート片をつまみあげて、イルカはぱくりと食べた。
「もらったんです。同僚や受付で」
「ふぅん…」
「最近、なんでか良くもらうんです。申し訳ないって俺も飴もっていったりするんですが、そしたら余計にもらうようになっちゃって」
苦笑するイルカをみながら、カカシは先日のことを思い出していた。あれから大家がなにも言ってこないので、すっかり忘れていた。
「良いじゃないですか、くれるんだからもらっておけば。それって上忍連中?」
「え、いえまさか。同じ中忍同士です。アカデミーの教務員室とか、報告のついでとか」
「へぇ」
カレーを平らげて、ごちそうさまと手を合わせる。
「お粗末様でした。そういえば思い出したんですが」
「ん? なに?」
「隣に部屋の人、知ってますか? このあいだ、教務室でどうぞって饅頭もってきたんです」
内心、吹き出したくなったが我慢して、麦酒を飲んだ。
「それも何十個も入ってる箱で持ってきて、俺がどうしたんだってきいたら、なんでもないっていうんですけど」
「けど?」
「顔、赤くしながら、はたけ上忍によろしく伝えてくれ、って俺にいうんです」
イルカの目がじっとカカシを見る。カカシも可笑しいのを我慢しながら、イルカの視線を受け止めて堪能する。黒目が疑わしそうに見ている。
「いきなりそんなこというから吃驚して、理由を聞いたら、なんか最近、カカシさんのお陰で命拾いしたとか言うんです。だからそのお礼だって」
つい、ぶはっと吹き出してしまった。
「カカシさんっ」
「あ、ごめんごめん。違うよ、イルカさんに笑ったんじゃなくて」
「おかしくないですか? カカシさんにお礼ならカカシさんにすればいいのに、俺宛って。しかもみんなの分まで用意して」
カカシには隣人の怯える小動物的思考が分かる気がしたが、イルカにはもちろん不可解だろう。
笑って、イルカには悪いとおもいつつ、誤魔化した。
「このあいだ、偶然ね。あんまりビクビクしてるから、じゃあイルカさんにお礼してくれたら良いって言ったんだ」
「え、そんなこと言ったんですかっ? …確かにアイツ、ビクビクしてましたけど…」
「うん。律儀な人だよねえ」
「そうですか…そんなことが」
納得したようで腑に落ちない様子のイルカが可笑しくて顔が勝手に笑ってしまう。真実をしればきっとイルカは顔を真っ赤にして怒る。だから本当のところは言えないけれど、はっきりと嘘はついていないから、カカシの中では万事問題なしだ。
立ち上がって、流しで皿とスプーンを洗う。
もしかするとイルカが自分に話さない事柄も、今の自分のような理屈なのだろうか、とふと思った。
「カカシさん、俺、洗いますよ」
「ん〜、これぐらいはさせてよ」
「…お風呂、沸いてます」
「イルカさん、入っておいでよ。片付けとくし」
洗い終わった食器が山と積まれている水切りに、皿とスプーンを追加した。振り返ると、イルカが気難しげな顔をしていて、カカシは微笑んで念を押す。
「いいから。荷物の整理もしなきゃいけないし、まだちょっと風呂には入れないんだ。あ、もしかして一緒に入ろって誘ってる? それなら俺も考えるけど」
「……入ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
ここはイルカの家なのだから、カカシが言うのも変なのだが、イルカがたまにカカシに風呂をすすめるときに言うからうつってしまった。イルカが書類を簡単にまとめて風呂場へ消える。
カカシはそれを見送ってから、いつもの場所につってある布巾をとって、水切りの食器を片付けていく。
イルカに訊かなくても、いつのまにか食器の場所をだいたい覚えている自分に苦笑した。
この生活を壊したくない。
イルカに一緒にいようといった想いは今も変わっていない。
酒を買い足したり、風呂にいってらっしゃいという日常は、いまのカカシにとって守るべきものだ。
二人分の食器を片付け、食卓の上を台布巾で拭いた。
それから寝酒用の青いグラスを取り出して、少し考えてからやっぱり元の場所に戻した。
前だけあけていたベストを脱いで椅子の背にかける。
ポーチの中身を確認しながら、頬杖をつき大きな息を吐いた。別に使い減らしもしていない中身を確認していく。
イルカはきっと、自分がどれぐらいこの生活を維持したいと思っているか知らないんだろうな、と愚痴めいたものをおもう。
この部屋に通う道筋など、里のどこからでも道案内できるぐらいに知っているし、この部屋から報告所までの道筋は日常になっている。イルカの好きなものを頭において、任務先でみやげ物をみるときは楽しい。食事をイルカと一緒にとって、とくに重要でないことを聞いたり話したりする時間は、心安くホッとする。
―――たまに、イルカの強情さを感じて途方にくれる自分も、悪くないと思うほど。
感情や時間の移ろいさえ含めて、今が大事だ。
巻物や薬、クナイをポーチに丁寧にしまった。小さなため息が漏れる。
この生活とイルカを無くしたくないと思う。
けれど、自分がイルカを大事に思っている程度を、イルカは知らない。
言葉にしたことがなく、することが怖い。
受け入れる優しさでもってカカシと一緒に居てくれるイルカを、言葉で追詰めてしまうのではないかと怖いのだ。
だから、イルカは知らなくていい。
カカシがこそこそと仲間内で手を回したり、情報を収集したり、脅しまがいのことをしていることは、知られたくないみっともないことだ。
「……」
けどなあ、と自分のなかの一部が反覆する。
すっかり仕舞い終わったポーチを、カカシはぼんやりと頬杖をついたまま眺める。
カカシが全ての手の内を見せられないように、イルカもそうだと思いやることは簡単だ。
理解できるなら、納得もできるはず、なのに。
どうして自分の心は、イルカと全てを共有したいと欲するのだろう。
浅ましくて情けない。
そう思うのに、浅ましい心は、一緒に過ごすうちに手綱が緩む。
きっと全てをさらけだしてしまったら、上手くいかなくなることもあるのに。
「上手く、いかないもんだなあ」
障害がないようにと最大の注意をはらってきたというのに、一番の問題が、イルカと自分だなんて。
なにも問題がないようにしてきたのに、イルカに近づきたいと願う自分の心が、邪魔だなんて。
カカシはしばらく、イルカが風呂からあがってくるまでの間、ぼんやりと考え込んでいた。
2007.04.09