愛について3








 ではこれで、と男が頭を深々と下げた。
 里へ無事帰り着き、大門をくぐったところだ。

「ああ、気をつけて」
「はい。この度は助けていただき本当にありがとうございました」

 偶然だったとはいえ、あまりに稀な偶然だ。捕まったのが今日の昼ごろだったというから、男の災難を任務所のほうでも把握していないだろう。カカシたちの任務が重なったのは本当に幸運だった。

「助けられて良かった。けど里が近いからってあんまり気を抜かないようにね」
「は、はい」

 アンコは興味がなさそうに少し離れて、先に行こうとしている。
 じゃあね、とカカシも行こうとすると男が呼び止めた。
 真剣な顔で、何をいうかと思えば、男は一人の名前を告げた。

「…何?」
「はたけ上忍が素晴らしい人だといったイルカの言葉は本当だと思いました。だから、これはイルカから聞いた体験談で、なんの規定にもかかりませんし、イルカはもちろん、はたけ上忍にもご迷惑はかかりません」
「…君には」
「私にも。もちろんはたけ上忍が黙ってくだされば、ですが」
「言わないよ」

 おそらくカカシが言いふらしたとしても、イルカからの体験談と男が前置きしているのだから、処罰には至らないだろうと思われたが、男の真剣な様子に、カカシもまた真剣に頷いた。
 そして男は手短に、受付に就いているからこそ知りえた発端をはじめイルカに伝えたこととイルカの受けた任務、その後のイルカから聞いた顛末を語った。

「すでにお聞き及びでしたら申し訳ありません、ですが内容が内容でしたので…」
「うん―――ありがとう。初めてきいたことだからとても助かりました」

 腹のなかで、いきなり重石を飲み込んだような痛さと熱さがごっちゃになっていたが、顔だけを取り繕って、微笑んだ。男の情報に、取り繕わなければいけない自分が居る。

「…きっと報告を待ってる、もう行ったほうがいいよ」
「あ、そうですね」
「ありがとうね」
「はい、助けていただいたお礼には全然足りませんが、お役にたててよかったです。それではこれで」
「―――じゃあね」

 手をひらつかせて男を見送り、カカシはじっと佇む。
 夕食時をすぎた里は、家々の明かりも多く、通りには飲食店の提灯や街灯が賑やかしい。
 イルカももう自宅で夕食をとっているかもしれない。
 きっと、カカシが扉を開けると、おかえりなさいと言ってくれて、顔を綻ばせる。カカシもただいまと言ってイルカを抱きしめる。それから今日はイルカに嬉しいことがあったと言いたくて。
 そんな想像が容易く浮かぶのに、腹のなかのモヤモヤが重くて、自分たちも早く報告に行ったほうがいいというのに、カカシは動けずにいた。

「おーい」

 アンコが早く行こうと、声をかけてくるが、答える気になれない。

「おいってば、聞いてんの?」
「……ああ」
「なに? 良い情報きけてよかったじゃん」
「………あぁ」

 それはそうだとカカシも思う。分かっている。けれどなんだろう、このズシンときたものは。なぜか苦しくてやりきれないのだが、かといってイルカに対して怒っているというわけでもない。
 アンコが戻ってきて、カカシの顔を覗き込む。

「おーい、行こうよ。ちょっとー、ほんとどしたのよ、そのきゅー降下」
「…いや、俺もよく分かんないんだけど、なんか。なんでだろ」
「なんでって…自分で分かんないの? その落ち込みっぷり」
「落ち込み…?」
「だよ。そんなショック受けてます、って顔してさ。冷静沈着ってあんたのウリじゃなかったっけ」

 カカシは自分の右頬を撫でてみた。
 鏡をみているわけではないから、よく分からない。
 ぼんやりしていると、ドンと後ろから小突かれてカカシは一歩踏み出した。

「ほらあ歩く歩く! 腹減ってんだから、早く報告して解散させてよね!」
「あ、あぁ」

 ようやく歩きだしながら、首を傾げる。
 確かに、落ち込んでいるのかもしれない、この腹の重石を飲み込んだような苦しさを言い表すなら確かにそうだろうと思うのだが、カカシは首を傾げる。

「アンコ…、俺、なんで落ち込んでんだろうね」
「はあ?」
「なんでだろ…」

 真剣にカカシは呟いた。考えようにも、なぜか思考が停止していて、なんでだろう、から進まない。

「イルカさんに手ぇ出したヤツの名前を教えてもらって、イルカさんも危ないとこだったけど何とかなったらしいし、イルカさんの話もきけたし、いいことだらけだよね」
「まあねー」
「じゃあなんでこんな、なんか、なんていうか…」
「なんていうか、なに」
「…なんでだろ」
「さぁ〜ねぇ〜」

 どこまでも他人なアンコだった。
 けれどいまさら怒ることでもなく、カカシがとぼとぼと歩きながら、進まない独り質疑応答を繰り返していると、アンコがあっさりと言った。

「あのさあ、イルカじゃないヤツから聞いたからじゃないの」
「―――は?」
「だからあ。あんた一時期、イルカが自分に隠し事してんじゃないかって言ってたときあったじゃん。つーか、イルカが話してくれないからあたしらに訊いたりしてんでしょ?」
「う、うん…」
「今回もそれだったから進歩ねーって怒ってんじゃないの?」
「いや、怒ってはない、かな…?」
「んじゃ落ち込んでる」
「うん…、落ち込んでるみたいなんだけど…」

 イルカが話してくれなかったから、落ち込んでいる。
 どうも、少し違うような気がしてやっぱり首を捻ってしまう。
 合っているんだけれど、合っていない気もする。

「じゃあなによ。その暗い顔やめてよね」
「うん…」

 怒ってはいない、とおもう。落ち込んではいるとおもう。
 原因は、確かにイルカが話してくれなかったから、ということのように思えるのだが、ちょっと違う。だが何が違うのか、はっきりと掴めない。
 なんなのだろうか。
 うまく言葉にできないもどかしさと、重苦しさがカカシの歩を遅くする。
 アンコはじれったそうに、すこし先を歩いている。

「もー! なによ、迅速な任務達成となんたらは木の葉の信用でしょ!」
「んー、あぁ…」

 煮え切らないカカシに業を煮やしたか、アンコは腰に手をあてて

「鬱陶しいなあ。じゃあアタシは先にイビキんとこ行って、場所言ってくるよ。そのほうが早いっしょ」
「うん…そう、だな」
「しっかりしなよ、ったく」

 瞬身でアンコが消える瞬間、このイルカマニアが、と言われた気がした。

 苦笑する。
 言われてもムキになって打ち消そうとする気が起きないから、苦笑してしまうのだ。
 実際、今の状況の流れからいうと言われても可笑しくはないと思う心もある。

 報告所へむけて通りを一人でゆっくりと歩く。
 先ほど聞いた、イルカの任務のことを考える。
 イルカを強姦したいという男にたいして、呆れるほかない。
 同時に怒りも感じる。
 イルカの人格を無視した欲望を、イルカへ押し付けたことに。

 真っ直ぐで自分を持っている男だ、イルカは。人当たりは良いが、芯があって、こうと決めたら頑固。人の気持ちを思いやることができる能力と道義心を持ち、周囲を心地よくすることができる人だ。
 間違っても強姦などという手段で、気持ちを通じ合うことのできる人ではない。
 自分たちの始まりを思いだせば、よくイルカが自分を受け入れてくれたとおもう。いずこに在るとも知れない神とやらに感謝したいほどだ。
 そのイルカを強姦。
 名前は記憶したから、今度見たときはそれ相応の仕打ちをしてやらねばならない。

 そこまで考えて、やっぱりカカシは首を傾げてしまう。
 どうもこの腹の重石は、勘違いの不埒者への怒りで重くなっているわけではなさそうだ。
 頭のなかで勘違い野郎を思う存分、血みどろ状態にしてみても、気分はまったく晴れない。

 むしろ問題はイルカにあるのかもしれない。
 イルカのことを考えると、気持ちが沈む。
 ただ怒っている…わけではないと思う。
 イルカは自分の危険を自分で回避できたわけだから、わざわざそれをカカシに言う必要はない。もしカカシであれば、自分の尻に無理やりあらぬモノを突っ込みたがる輩がいる、などと人に言いたくはない。たとえ解決したとしてもだ。
 だから何も言わなかったイルカは悪くない。
 同じ男として、褒めてもいいとおもう。
 だのになぜ、こうもイルカに対して恨みがましい気持ちになるのだろう。

「なんでだろ…」

 ため息と一緒に、情けない台詞がこぼれ出た。
 落ち込む前までは、イルカが褒めてくれていたと知って浮かれてさえいたのに。
 顔を上げると、視線のずいぶんさきに報告所の扉がみえていた。いつのまにか随分と歩いてきていたらしい。扉の前に大きな人影があり、傍らに比べれば小さいものがひとつ。イビキとアンコだろう。
 ふと、イビキが言っていた言葉を思い出した。
 飲み薬を融通してもらったときだ。
 イルカがカカシをどう思っているかを評してくれ、カカシはそれを嬉しくおもった。
 信用している、と言っていた。

「……」

 見つけられなかったパズルのピースが、不意にぱちりとはまった。
 そうか、と小さく呟く。
 身に起きた嫌な出来事をプライドで話す話さない、ではなく、話してもらえないほど信頼されていないんじゃないかと寂しかったのだ。

 やっと見つかった答えに、カカシはいたく満足した。
 イルカが黙っていたことを責めるつもりはないのに、恨みがましく思ったのは、寂しかったからだ。
 友人が親しい人へと、なんでもない日常のことを語りかけたり愚痴をいったりするように、イルカもカカシへとそうしてくれれば良いと願っているのに、現実はまったく違うから、落ち込んだ。しかも、何か困ったことがあれば頼ってね、といってあるにも関わらず、だ。
 自分自身への不甲斐なさまで加わった重しならば、それは重いだろうと納得だ。

 腹のなかはまったく晴れがましくないが、頭のなかはすっきりと、カカシは報告所の前まできた。
 よぉ、とイビキが声をかけてきたから、カカシも手をあげて答える。
 そして今さら不思議になった。

「捕まえてある場所、アンコも知ってるでしょ」
「ん。もう言ったよ」
「じゃあなんで―――」

 アンコに言おうとした先を、イビキが手をかざして止めた。なんだろうとイビキを見ると、なにやら真面目な顔だ。

「…どうしたの、イビキ」
「さっきさ、聞いた名前、あったでしょ」

 アンコが横から言った。

「さっき、ってイルカさんの?」
「そそ。あれ、なーんか聞き覚えあるなーって思ってさ。でも思い出せなかったから、あんた待ってる間、イビキと話してたんだけどさ」
「俺には馴染みの名前でな」

 イビキが言葉を継いだ。すこし苦笑ぎみだ。

「昔、ウチにいたのさ。だがここでは物足りんと出て行ったんだが…」

 ウチ、というのはおそらく尋問部のことだろう。イビキの手短に語った話は、まるでおかしな任務遍歴だった。カカシ自身、暗部に所属していたこともあり、忍びとして里の担うべき暗闇は承知している。だが、イビキの語る男は、あるときは潜伏任務、あるときは戦地での残党処理、またあるときは討伐任務や調達・配達任務と、バラバラだ。
 尋問部出身で、仮にも特別上忍だというからには、それなりの任務が割り当てられるはずだ。
 しかもそれらの任務経歴は若いころのものでなく最近のものだという。

「…なにか、理由でも?」

 カカシが聞けば、珍しくイビキが嫌悪感を表して眉間を寄せた。

「選り好みするんだよ。一般人を殺せる任務を」
「……」
「最初のうちは誰も気づかなかったんだがな、任務の傾向もバラバラ、任務地もバラバラ、けどアイツの就いた任務じゃどうしてか、現地の一般人や仲間が事故や敵襲で死ぬ。まあ気づいたのも最近だからな、上はまだその見方に懐疑的だ。任務も一応、こなしているわけだしな。問題ないというわけだ。ただ、主張してるのは殺されかけたウチの里の忍びだ」
「それ、確かな話なの」
「それがさー」

 横からの声。アンコが笑いながら言った。

「確かめようにも現物は任務任務で里に居ないでしょ、手ぇ出してんのは忍びだと中忍以下、それも殺りやすそうな、うっかり死んじゃいそうなの狙うの。つまりややこしそうな上忍には手をださないわけ。賢いよね。で、命拾いしたやつらから体験談はたっぷり集まるわけだけど、上忍連中はいまいち分かんないわけだ。ホントかどうか」
「けど、いくら中忍だからって、嘘つくわけないじゃない。自分が殺されかけたんでしょ?」
「それがな、俺も上手くやっていると思うんだが、事故にみえないこともないんだ。爆発に巻き込まれたが、中忍だから逃げようとしたが間に合わなかった、とかな」
「で、まあそういう噂のあるヤツなわけだ。さっきの中忍君がいってたヤツは」
「…いま、どこにいるの、そいつ」

 アハハとアンコが声にだして笑った。

「まだ続きがあんのよ、この話。でさ、ソイツ、上手くやってるにしたって限界ってあるじゃない。結局、今、上から煙たがられててさ、どーでもいいような任務から任務へタライマワシされてるらしいよ。別名、タライマワシ君!」

 可笑しそうに言うアンコを、こら、とイビキがたしなめた。

「…とはいえ、昔ウチにいただけあって、いろんな裏を知っているらしくてな…。受付にも手が回ってるって話だ。だからまあ、上もそう気軽に処分できない、というところらしいな」
「そう…」
「今は、さあ、どこに飛ばされてるのやら。里にいないことは分かっているんだがな」
「まあ我侭いって、また誰かいたぶれるようなトコにいるに決まってるよ。絶対、ガキんときはアリんコ潰して笑ってたやつだよ絶対!」

 そうアンコが鼻息荒く主張するから、じゃあお前はどうなんだと思わず胡乱な目つきをしたカカシだったが、それを察したかアンコが、

「あたしは水攻めよ!」

 と胸を張って言った。

「―――どっちもどっちだろ」

 げんなりとカカシは指摘した。五十歩と百歩の違いもない。

「大違いよ! だいたい、一般人とか格下狙うとこがやらしいよね! やだやだ、みみっちい」
「格上相手ならいいわけ?」
「アタシは負ける勝負はしない主義よ!」
「…あ、そ」

 カカシはイビキに向き直った。

「ともかく、ありがとう。助かるよ。…イルカさん、全然、話してくれないしさ」
「イルカにも事情があるだろう。そうしょげるな」
「そーそー。あたふたしてるあんたって面白いしね!」

 どこまでも余計な一言が多いアンコへ、鋭い視線を向けると、口笛を吹きながらアンコは報告所のなかへ入っていった。

「じゃあ俺も仕事に戻るか」
「ああ、悪いな。わざわざ」
「気にするな。アンコじゃないが、最近のお前さんは面白いよ。だから、イルカには頑張ってほしいのさ」

 分かるような分からないような理屈だが、よりによってイビキに面白いといわれては苦笑するしかない。軽く手をあげて別れ、カカシもまた報告書をだすために建物のなかへ入っていったのだった。




2007.04.08