愛について3
それからしばらく経ったころ。
前夜に、思う存分イルカを堪能したあと、朝になって部屋の外にでれば随分と爽やかな青空だった。これで雨がたくさん降れば、夏の空がやってくるのだろう。
部屋のなかではまだイルカが寝ていて、朝飯でも買いに行こうかと、玄関扉の前でサンダルをきちんと履いていると廊下に見たことのある顔が居た。
右隣の部屋の住人だ。
カカシは先日のアンコたちとの会話を思い出しながら、にっこりと顔を作った。
「おはよう」
外だから顔布はしているが、これでも人当たりは悪くないと思っている。まさか心臓が止まるとは思わないが、印象をよくして損はないはずとせいぜい良い笑顔を作ったつもりだった。
だが、カカシと目のあった瞬間、隣の男は自分の部屋へと逆戻りしてしまった。
しかもかなりの勢いで。
一瞬で開けて閉められたバタン! で風がカカシの前髪を揺らした。
イルカには悪いが安普請の扉が心配になったほどだ。
ついでに、ガチャリと鍵の音までした。
里人なら気づかないほどの小さな音だったが、カカシの耳にはしっかり聞こえた。
カカシの額がひくりと動く。
人がせっかく感じ良くしたというのに、イイ度胸だ。
どうしてやろうかと、一歩踏み出したとき、強烈な視線を感じた。
廊下の降りた先、正確にいうなら階下の大家自宅部屋の前からだ。
カカシも見たことがある、イルカのアパートの大家である年輩の女が、目を丸くして一連のやりとりを見ていたようだった。アパート前の掃除らしく、ホウキを持っている。
あちゃ〜、と頭を抱えたくなった。
このままイルカの部屋に自分も戻ろうか、と思ったが、その前に大家の方が早かった。
「ちょっと、そこのうみのさんトコの人!」
名指しではないが、ご指名を受けてカカシは階段を音を立てないように降りる。一種、感動ものの呼び名だなあと思いつつ。
「あ〜、おはようございます」
「あら、おはようございます。いいお天気ねえ」
「ええ本当に。じゃ、これで―――」
「ああ、ちょっと待って。さっきの見てたんだけどねえ」
先手必勝で颯爽と去ろうとしたのに失敗した。
「あ〜…、その心配いりませんよ。ちょっと彼は忘れ物があったみたいで」
「そう? そうは見えなかったけどねえ」
「いやそうだったんですよ〜。じゃあそういうことで―――」
「あらあら、それでね、お隣さんのことなんですけどね、うみのさんから聞いてると思うんだけど、お部屋のことでねえ」
再び颯爽と去ろうとしたカカシの足が止まる。
「お部屋…」
「そうそう、それでねえ、うみのさんには悪いんだけど、ほら、さっきの見たでしょう? いえね、うみのさんトコが悪いっていうんじゃないと思うのよ? でもほら、やっぱり忍びの社会って上下関係が厳しいんでしょう? うみのさんは人柄がいいから、ねえ、ほら、上忍の方ともやっぱりお付き合いできてると思うのよ? 上忍の方が悪いっていうんじゃないのよ? でもほら、ウチは中忍の方が多いでしょう? だから恐る恐るっていうんじゃないですけどねえ」
「あー…はあ」
「うみのさんにもお話はしたんだけど、まあうみのさんも言っちゃなんだけど中忍ですし、やっぱり上の人には言いにくいこともあるみたいで、どうもお話が進まなくてねえ。私もねえ、ほら、言いにくいでしょう? こういうことはやっぱり。あんまりはっきり言うのもなんだし、うみのさんのせいじゃないしねえ? だから、ねえ、ここは大家として義務を果たすべきだと思うのよ? まあアタシはあれだからね、この里にお世話になってて忍びの方ももちろん尊敬してますしね、店子の人たちもほとんど忍びの方だけど、店賃でアタシひとりの口をまかなってますからね、言いたい事をいえるのよね。ああ、そうそれでねえ」
「はあ、はい」
「お隣さんもやっぱり気後れっていうの? しちゃってるみたいでねえ、見ててお気の毒だし、言うのも悪いとおもったんだけど、やっぱり店子さんには気持ちよく過ごしてもらいたいでしょう。だからできればお部屋をね、ああ、もううみのさんとは長いから、こっちも勝手な都合だしね、同じお家賃でいいから角部屋にね、移ってもらえたらいいと思うのよう」
長かった。
最後の結論にたどり着くまでに、同意を求められた回数分相槌を打っていたが、数えるのが馬鹿らしくなるぐらい、首を縦に振った気がする。こんな姿、イルカに見られなくて良かった。
つまり、この大家の言い分は、隣だか両隣だか知らないが、中忍がイルカの部屋に入り浸っている上忍が怖いから、出て行けとは言わないが部屋を角部屋に移れということらしい。
ゲンマが言っていたのはこれだったのか。
イルカのことだから、部屋を移れと言われたら、即転居といいそうだ。真面目で、意外と考え込む人だ。理由も理由だからカカシには言い出せなかっただろう。
もしかすると、ゲンマはイルカが不動産情報を眺めているところへ出くわしたのかもしれない。
小さな謎が解けて、カカシはにっこりと女受けが良いと自覚している笑顔で、大家に言った。
「じゃあ俺の責任ですから、ちょっと待っててもらえますか? 大家さんのお手を煩わせて申し訳ありません、俺が彼らと話をしてみます」
「でもねえ、それだとねえ」
「いや、大家さんが思われてるほど、上下関係なんてないですよ。ちょっと俺の風体が怪しいから誤解してるんですよ、ね?」
親しげな微笑を見せると、自分で言っておいてなんだが、怪しい風体にも関わらず大家はポッと頬を赤らめた。
「そう? そうねえ、じゃあお任せしちゃおうかしらねえ」
「ええ、大家さんにはご迷惑をおかけしまして」
「いいんですよ、これも大家の務めですからねえ」
「はい。じゃあ俺はこれで…」
「ええ、いってらっしゃい」
「行ってきます」
去り際まで爽やかに笑顔を保ちつつ、くるりと背を向けたとたん、カカシは真顔に戻った。
さて、どうしよう。
ひとまず大家からは見えないところまで道を進み、壁に背を預けた。
イイ態度だコノヤロウと脅すのは簡単だが、それをするとさらに窮鼠猫を咬むの例にあるような事態になってしまうかもしれない。第一、イルカの隣人を脅すというのも、きっとイルカが知れば眉をひそめることだ。
もともと、カカシが撒いたタネなのだから、カカシが刈り取るのがスジだ。
タネを育てたのは恐怖心なわけだから。
うんうん、と朝から頭をかしげていると、目当ての気配がそろりそろりと安全地帯から出てくる気配がした。
すかさず壁から離れ、電柱の影にかくれて気配を消す。
そうとも知らずに、可哀想な鼠は、まだ掃除をしていた大家にそそくさと挨拶をして、逃げるようにアパートから離れ、さあこれで安全だ―――と足を踏み出した眼前に、カカシが立っていた。
「二度目だけど、おはよう」
「ひ、ひぃ!」
「うわ、挨拶は人間関係の基本でしょ? はい、おはよう」
「おおおおおおはようございます!」
「んー、まあオが多いけど良いことにするか。それでね?」
早くも逃げ腰の男に向かって、カカシはがっしりと肩を組んだ。男と密着するなんて任務かイルカでなければご遠慮願いたいところだが、今は仕方がない。
怯えた男は、またもや「ひぃぃ!」と叫んでうるさい。
「まあちょっとイイ話があるんだよ、聞いていきなよ」
にっこりと笑いかける。自覚しているが、目はたぶん笑っていない。男の顔が、赤から青色にサーッと変わっていく。
「君、大家さんにとあるお願い事、してるらしいね?」
硬直しているらしい男は無言のままで、カカシは目を覗き込んで、再度「ね?」と訊いた。男の首が、がくがくと上下運動する。
「でねえ、なんだか君が誤解してるみたいだから、その誤解を解いとかなくちゃと思ってね」
「へ!? ごご誤解!?」
「そう、誤解。俺としても善良な同じ里の人が困ってるのを見逃せないしねえ」
ふふふ、と笑うと、さらに男の顔色が青色から緑色に変わる。まあまあ、とカカシは男の背を軽く叩いた。
「いーい? 俺は里思いの男だよ? イルカさん思いの男だよ? それは知ってるよねえ?」
がくがくと再び上下運動。
そう、とカカシは目を細める。
「それは良かった。じゃあ、俺の標的になるようなのって、ナニか知ってる?」
「―――…ヒィィ!」
「おっと、ちょっと待った」
問答無用で逃げようとした男の首根っこを掴んで、引きずり止める。じたばたと逃げようとするから、しょうがなくカカシは男の耳元に囁いた。
「俺は敵には容赦しないけど、味方にはとっても優しい男だーよ?」
パッと手を離すと、男は勢い余ってその場に尻餅をついた。男が呆然とカカシを見上げる。笑顔の大放出のように、にっこりと笑う。男は呆然としたままの顔で立ち上がり、それからそろりそろりと後退り、充分な間合いを取ったあとで、サッと背中をみせて走り去った。
小動物のような逃げ方に、苦笑がもれる。
背中に、
「ひとつ向こうのお隣さんにもよろしくー」
と声をかけて、カカシは目的のパン屋に行くことにした。
さてあれで効いてくれるか不明だが、結果はすぐには分からない。とりあえずしばらく様子見かな、と判断する。イルカの味方になってくれればよし、なってくれなければ、そのときだ。
食パンを買って、イルカの部屋に戻ると、イルカはベッドの上で一応起きていたが、ぼんやりとしているようだ。たぶん眠いのを我慢しつつ、カカシが起きているから起きようとしているのだろう。
「おはようイルカさん、まだ寝てて良いよ」
「…おあよう…ございます。いえ…おきます」
言いながら身体は動いていない。その寝ぼけっぷりに、昨夜のことを思い出してニマニマしていると、イルカがぼんやりとした声で、
「…なにか、外で…?」
と訊いてきたから、カカシはにこやかに答えた。
「ん? 大家さんとおはようございます、って。それだけでーすよ!」
2007.04.04