愛について







 イルカが軋む首をあげたとほぼ同時に、軽い声が聞こえた。

「ありゃあ、荒れてますね。どうかしたんスか」
「何かと思って見に来ましたよ」
「なかなか帰ってこないし、なにか面白いもんでも?」

 三人がそれぞれに喋り、イルカの体が強張る。どう聞いても、イルカを助けてはくれそうにない。
 情けないが、今のイルカには上忍に加えて忍び三人を相手に自分を守りきれる自信はない。この時点で、取れる最善策は、テントのある場所まで逃げることになった。
 情けないと思わないでもないが、そんな意地は自分の無力を恥じてからだ。
 いま、自分の身の安全を己で確保できないことはわかる。
 ならば少しでも安全な場所へ向かうことが、イルカにできる最善策だった。

「ああ、ちょっと言うことのきかない悪い子をおしおきしてたのさ」
「悪い子? あ〜、もしかしてそこの?」
「暗くてよく見えねえけど、もしかしてウチの里のヤツですか」
「あれ? 男? そいつ…」
「しばらくしたらイイ玩具が来るといっていただろう。そいつさ。まあいい、予定は早いが、お前たちも加えてやろう。こいつに躾というものを教えてやれ」

 ゾクッとした。今まで、嫌な思いもしてきたが、この寒気はまた一味違う。
 同じ言葉を話していても、言葉の通じない相手が居ることを、こんなところで実感したくはなかった。
 ハハハと明るい笑い声が森に響いた。

「なんだ、先に一人でお楽しみだったわけですね」
「名前、なんていいましたか」
「イルカ、だよ」
「ああ、そう、そうでした。思い出しました。おい、イルカ、んなとこにいつまでも転がってないで…」
「―――イルカ…?」

 声が交錯しているなかに、イルカへと向かってくる足音。ガンガンと痛む頭を抱え、目をすがめて暗がりを見つめる。月灯りが木の葉の忍びの姿をぼんやりと照らした。
 危険だ、と思ったが咄嗟に体が動かなかった。背中と腹が痛みで軋み、動かそうとすると息が苦しくなる。躊躇った一瞬の差で、イルカは結わえた髪をつかまれ、引きずられた。

「痛…ッ」
「なにボーっとしてんだよ、こっちにきて、躾けて下さいってお願いしなきゃダメだろ?」
「駄犬だな、イルカは」
「まあ可愛がってやってくれ、せいぜい殺さないようにな」

 引きずられた拍子に、ガンッと岩とこめかみが激突した。きっと血がでたと思われたが、引きずる手は気にした様子もない。腹に蹴りが食い込み、イルカは咳き込んだ。
 咳き込むたび、髪が引きちぎれそうだった。
 ぶち、とこめかみで音がして、たまらずにイルカはもがき、右手を振り上げたが、顔をしたたかに殴られた。

「おっと、反抗的だ」

 朗らかな声が聞こえる。

「任せといてください」
「この任務で随分、馴れましたよ」
「ほら、ご主人様に逆らってごめんなさいはどうした?」

 これが、同じ里の人間が吐く言葉かと、失望と怒りで目の前が真っ赤になったとき、ふいに焦ったような声が騒ぎ出した。

「ちょ、ちょっと待てよ、そいつ、イルカ? もしかして」
「はあ? だからイルカだろ、中忍だっけか」
「確かこの間、中忍のくせに上忍連中の間でちやほやされてるって話してた…」
「そういやそんな話もあったな。そうそう、そいつらの間で貸し借りしてんじゃねえかって話だったよな」

 髪が引き攣れ、腕を突っ張って顔面の痛みを和らげる。
 なぜか左腕が痺れたように痛みを感じなかった。

「手を出すなという奴も居たが、つまりはケツで取り入っているだけのことだ。現に、私にも尻を差し出したわけだし、噂は正しかったということだ」

 どんな噂だと罵りたかったが口を開けば、引き攣れている痛みのせいで、うめき声がでそうだった。プライドが唇をかみ締めさせた。
 うろたえた声が続ける。

「そ、それは尻で取り入ってたんじゃなくて、手を出したら承知しねえってみせびらかしてたんスよ…!」
「おい? なに言ってンだ?」
「俺、俺きいたことあるんだ。上忍のやつら集めて、脅してたって…! てっぺんのやつが凄え奴で、そいつのモンだから手ぇ出すなっつって、誰も逆らわねえし、逆らえねえような面子だったって…!」

 しん、と空気が冷えた。
 ふいにイルカの髪を掴んでいた手が外れ、イルカは草の繁る地面に転がった。
 イルカを掴んでいた男の足が、うろたえる声のほうへと踏み出した。

「おい、なに馬鹿な与太話してやがる?」
「そうだぜ。こいつをみてみろよ、そんなツラか? せいぜい穴が使えるぐらいだろ」
「まったくだな。一体どこからそんな馬鹿な話を仕入れたんだ」
「けど…! ―――俺は…嫌だ、あいつらが怖ぇ…、悪いんスが、俺はイチ抜けさせてもらいます…! 俺はこんなことであン人たちの恨みを買いたくないんです」
「なに? いまさら何いって」
「あんたたちも止めといたほうがいい、あれは噂とかじゃなかった、実際、マジな話だった、そいつに手ぇ出したら、絶対にやり返される…!」
「てめえ、一人だけ逃げようって話かよ」
「ここにきてイイ子ちゃんぶってどうすんだよ」
「イルカの前に、きつい仕置きが必要のようだな」
「ひ…っ、で、でも、俺は聞いたんだ! 手ぇ出したらやべぇって…ッ」

 まるで他人のことを言っているかのようにイルカは聞いた。けれど、取り乱す様子があまりにも真剣で、他人と取り違えているのでは気の毒なほどだった。
 イルカには身に覚えのない噂だが、男が信じ込んでいるのは上擦った声でありありと分かった。
 普段なら呆れてくだらないと判じるところだが、今の状況は好機だった。
 この乱れた場を見逃すほど、馬鹿ではない。
 右腕で上半身を起こして、顔を拭うと鼻血が出ていて手が闇夜に黒く染まった。
 じり、と言い争う声の隙間を狙う。

「もうそこらへんで止めといた方がいいです! 俺は何もいわねえし、漏らしたりしねえから…ッ」

 ガツッと音が響き、必死に言いつのる声が途切れた。
 殴られたようだった。

「てめえ、ぴいぴいさえずんのもいい加減にしとけよ。大体てめえは最初から弱腰だったよなあ」
「やれ止めとこうだのさっさと終わらせようだの、うるさかったなあ」

 闇夜に鈍い音と悲鳴が響く。
 辺りに目を凝らし、イルカは月と夜空の影の位置を確かめた。

「うっせぇんだよ、このチキンやろうが!」
「ビビリは寝てな!」
「全く興冷めだな、口を塞いでしまおうか」

 悲鳴がひときわ大きく聞こえたとき、イルカは地面を蹴った。
 後ろから聞こえてきた怒声をふりきり、気を失うほどの痛みを訴える全身を、必死で動かす。
 捕まれば、あの男と同じ仕打ちが自分に待っていることは確実だったから。



2007.03.21