愛について
陽が空にあるあいだ、イルカは精力的に動いた。
一刻も早く里に帰るためだ。
まず、山賊の生き残りの居場所を探し当てた。
両手で数えられるほどの人の姿が、疲れた様子で岩壁にできた自然の横穴に、ひとかたまりになって蹲っていた。
気づかれないように離れた木の中から眺めて、これならば眠らせて捕縛することも不可能でないと判断する。
だが、捕縛したとしてさすがに一人では山の下まで運べない。
協力してくれる人間は、と考えて、あの赤毛の落ち着いた女の顔が浮かんだ。
あなたの本当のお相手を知っているの、と懐かしげにいわれたとき、色んな言葉がイルカのなかに浮かんできて、そのなかには問い詰めるような言葉もあったのだが、しばらくの沈黙のあと、イルカは愚にもつかない相槌を打っただけでその話しは終わった。
体裁を捨てるなら、訊きたかった。
カカシと関係をもったことがあるのかと、臆面も無く、恥も捨てるなら訊いてみたかった。
だが、訊いてみたところで、あるといわれたからといってイルカに出来ることなどなにもないと、言葉につまった沈黙のあいだに気づいた。
だから、馬鹿みたいな相槌で終わった。
だってそうだろう。
敵意を抱くのはお門違いというやつだ。
見るからに様子の良い女で、雰囲気も落ち着き、上忍らしく、性格も全く悪くない。
少々年が離れているが、イルカと同年代の男なら、舞い上がってもいいほどの女だ。
イルカだって、舞い上がってもいい。
なのに、反対に胸が塞ぐ。
情緒不安定になっている。
イルカは、細くため息をついて、視線を遠くへ戻した。
人影がふたつ、動いているのがみえた。
いくどかよろめいて、一人がもう一人を支えながら、岩場を降りようとしている。
用足しか、水場か。
判断はつかないが、二人だけの別行動というチャンスを見逃す手はない。
どうやら小便だったようで、岩をすこし下って裏手に回りこんだ場所で、イルカは二人を気絶させた。
二人だけ、しかも疲れ果てたけが人と老人ということで、すんなりと崩れ落ちた身体を、手足を縛ってからイルカは肩へ担ぎ上げる。そのまま野営地へ運んだ。意識の無い人間二人を担いで岩山を下るのは、忍びでも骨が折れて、下についたのはもう夜も遅かった。
途中で気づきそうになった肩の荷物には、薬をかがせて、朝まで眠ってもらうことにした。
とりあえず、あの女のテントを訪ねた。
「…すいません、少々よろしいでしょうか」
テントの影に二人を隠し、あたりをうかがいながら声をかけた。すぐに応えがあり、なかに素早く入ると、女は武器の手入れをしていた。薄暗いテントのなか、ランプ一つの灯りが女のしなやかな指先を照らしていた。
「どうしたの?」
まったく女らしいとしかいいようのない容に、嫉妬だけでもなく、羨望だけでも、恋情だけでもない重苦しいものが一瞬、言葉を詰まらせた。
一言ではいえない。
いろんな感情が混ざって、イルカにもよくわからなかった。
どれか一つだけの感情に支配されるのなら、どんなにか楽だろうと思う。
「…捕虜として二人、捕獲しました。依頼主は街の有力者でしょう、警備隊に引き渡せると思い連れてきました」
女は目を少し驚いたように開いて、しばらく考えていた。イルカは灯りのゆらめきにあわせて揺れる、女の柔らかな影を見るともなしに見る。やがて女が口を開いた。
「その二人はいま、どこに?」
「このテントの影に隠してあります。朝まで眠るように薬をかがせてありますが」
「そう。具合はどう」
訊かれて、つかのま考え、片方の男は手足とわき腹に傷を追っていることと、二人とも疲れ心身ともに衰弱していることを伝えた。もしこう着状態のままおかれていれば、三日のうちに命がなくなっていただろう。
女は頷き、今から治療のために二人を運ぼうとイルカを促した。
「衰弱しているのは仕方がないわ、朝にでも一度起こして栄養を取らせましょう。ただ怪我のほうは放っておくと眠りから覚めない可能性もあるわ、今のうちに処置しておかないと」
「どこに運びましょうか」
「救護用のテントがあるの。まあ今回はまったく役に立ってないから、奪った武器とか火薬とか放り込んでて、もう倉庫みたいになっているんだけれどね。そこにとりあえず運び入れましょう。ああ、灯りは消していきましょう」
「はい」
イルカは女についてテントをでた。捕虜たちを寝かせてある暗がりを指さすと、もう夜の森のなか、灯りもないというのに危なげない足取りで、女は二人の男へと近寄っていった。
屈んで、しばらくあちこちを診断したあと、女はイルカへと振り返った。
「やっぱり治療は必要ね。悪いけど、ほら、あそこに見える大岩のむこうに大き目のテントがあるの。そこに二人を運んで。私は塗り薬を用意するわ。あなたは運んだあとに水を汲んできておいて」
「水場はどこにありますか」
「ああ―――、まだ教えてなかったわね。少し分かりにくいんだけど…」
言葉を切って、女は夜空を仰いだ。木々の間から、月が覗く。
「ここからだったら、あの月の方向に行けばいいわ。その下に背の高い影がみえるでしょう」
じっと目をこらすと、星影が一部途切れている部分があって、それが夜空を隠す影だとわかった。
「あの木の根元に浅い川が流れてるのよ。少し離れてるから遠く感じるかもね。夜だからよけいに分かりにくいと思うわ。無理だとおもったら引き返してきて。私が行くわ」
「分かりました」
夜の見知らぬ森は、それだけで危険だ。
忍びであっても、多少危険なことは変わりない。
迷って崖から落ちることも有り得る。イルカは神妙な顔で頷いて、二人を担いだ。
幸いなことに、二人を運び入れるテントは、暗がりのなかでもすぐに分かり、手早く二人をテントのなかの奥まった場所に寝かせることができた。
テント内は、暗くて中身はよく見えなかったが、皮袋や木箱などの荷物が乱雑に詰まれていて、その影に寝かせれば、一日ぐらいはみつからずにすみそうだった。
問題は水場のほうで、イルカはひとまず月とその下の影に目をこらして、歩いてみた。
夏の枝葉がしげった木は厄介で、月の光を閉ざしてしまう。
人の歩いた道が、細くともあるはずなのにイルカの歩く場所はいつまでも歩きづらく、藪に突っ込んでしまってから引き返したり、倒木を乗り越えたりしているうちに、月の位置は以前みた位置よりずれている。
夏の熱気は、夜になっても下草から立ちのぼってくるようで、息苦しくさえあった。
イルカは一息をついて、腰の水筒から水を一口飲んだ。
残りは少なく、日も変わることだし、水場で入れ替えなくてはと考えて腰へと戻したとき、ふいに後方から声をかけられた。
「おや、こんなところで何をしてるんだ」
振り返らなくてもわかる。
出来れば、未来永劫金輪際、会わなくてすむならとおもう相手だ。
内心、辟易しつつも警戒しながら振り向けば、暗がりにほぼ溶け込んで、男の姿があった。
「…水場に、行こうかと」
「そうか。ならこっちでは道から逸れている。案内してやろう」
「いえ…お時間をいただくのも申し訳ないので…副隊長こそ、こちらでなにを…?」
警戒していると、どうしても声が低くなる。夏の夜の、むっとするほどの草いきれのなかではなおさらだった。
男の姿が、影のなかで動き、草を踏む音とともに、輪郭がイルカへ近づく。
「ああ、私は可愛い鼠どもの様子を見にいっていたんだよ。夜のうちに弱ってダメになってしまったらいけないからね」
「ねずみ…」
「昼間はイルカが邪魔をしてくれたから、一匹しか始末できなかった、可愛いヤツラのことだよ」
微笑をたたえているかのように優しげな声音に、イルカの背筋が波たった。
やはりダメだ、と直感的におもう。
上忍としての能力は備えているのだろう。
能力だけをみれば尊敬も、もしかすればできるのかもしれない。
しかし、残忍な性があまりにも表にでていて、人として、また木の葉の忍びとして自分は認められないとおもった。
「それは…―――、…いえ、では私はこれで失礼します」
言いかけた非難の言葉を飲み込み、もう手の届く距離にまで近づいてきた男から距離をとろうと、身をひいた。
「おっと、昼間もそうだが、何をそんなに急いでいるんだ。少しぐらい余裕を持たないと、人生損するぞ?」
ニヤついた声でいわれても、ありがたみはない。さらに歩を詰めてくる姿に、身をひるがえして去ろうとした。その腕を、捕られた。
夏だから当然なのだろうが、熱くじっとりとした感触に、鳥肌がたつ。
「な…」
「だから、待て、といっているだろう?」
ねとりとした言葉とともに、捕られた手首を掴んだ指が、イルカの腕の腹をゆっくりと逆撫でして這い上がる。
鳥肌が腕といわず、背中一面、首の裏まで駆け上がった。
考える間などなくイルカは手を振り払っていた。
闇の中に、驚いたような間が空き、イルカはとっさに、失礼しますと言い捨てて、背をむけて全力で走り出した。
頭に、しまったという言葉がぐるぐると回る。
確実に、不審に思っただろう。
あの夜の幻術に、あの男がなにを見たかは分からないから、これまで近づかないよう、ボロをださないようにと気を使ってきたつもりだったのに、まったく馬鹿な失態だ。
いつかは身の安全を確保するために対峙するとしても、実力では及ばないことは分かっているから、そのときまでは寄らず触らず、隙を伺おうとおもっていたのに。
頬を、木から伸びた枝が掠めて傷をつくるが、かまっていられなかった。
足に倒木がひっかかり転げそうになる。
とっさに、ぶつかるように木の幹に手をついて堪え、さらに一歩を踏み出そうとしたとき、いきなり、後方から吹っ飛ばされた。
「…―――ッ!!」
ガン! と鼓膜が震え、体がなにかに叩きつけられ息が止まった。
体が感じた衝撃は内臓が歪むと思うほどのもので、たわんだ幹の軋む音が森に響き、イルカは自分が叩きつけられたのは木であることがわかった。呼吸が、ねじれた肺が膨らんで、咳とともに身体に戻ってきた。
幹を背にして、咳き込む。
身体を丸めれば、夜と草の匂いが鼻をついた。
息苦しく顔をあげたとき、再び顎へと衝撃があり、骨のぶつかる音が耳骨に響き、イルカは殴り飛ばされていた。
「ハ…ッ、ァ…!」
頭から地面へと転がされ、草や岩、枝がイルカの顔を傷つけ撫でる。
「ぅ、く…」
「―――どうも、おかしいな? イルカ」
男の穏やかな声が、不思議なほどはっきりとイルカに聞こえた。
殴られたショックで鼓膜が震えているのに、どうしてだろうと霞む頭で考えたが、答えはすぐに分かった。逆らえない強い力で、首根を掴み上げられたからだ。乱れた呼吸が、一瞬、止まる。
「昼間から少しおかしいと思っていたんだが、どうしてそんな可愛げがないんだろな」
「…ぅッ、く、るし…!」
「私もそんなに気が長いわけじゃない。一度なら許してやるが、二度目になると、どうかな?」
男の生暖かい息が首筋にかかり、全身が泡立つ。
酸素を求めるよりも切実な欲求に従って顔を背ければ、その背けた側から頬を殴られた。
ゴリッと頭蓋に鈍い振動が走る。
「私を馬鹿にするとどうなるか知っているか? 教えてやろうか」
手加減のない力で殴られ、クラリとした頭に、そんな言葉が響く。
なにがと反復するまえに、いきなり掴まれていた首根が解放され、再び木の幹に叩きつけられた。
とっさに手を交差して身を丸めたが、酷い痛みは変わらなかった。
木が揺れ、夜の森がざわめく。
近くにいたのだろう、鳥が嘶いて羽ばたき、反対に地の虫は鳴くのを止めた。
あたりにはイルカの咳き込む声だけが響いたが、いくばくも経たないうちに、イルカの耳に草を踏む、複数人の足音が聞こえた。
2007.03.18