愛について







 酷い痛みを訴える身体を無視して、どれくらい走っただろうか。
 藪を突っ切り、岩にぶつかり転げつつ走るうちに髪を結んでいた結い紐が外れてどこかへいった。
 邪魔な髪がさらに伸びている枝や葉に引っかかり、息は切れ、次第に痛みごとに瞼の裏に赤い色まで見え始める。

 痛みで判断力を鈍らせてはまずい。
 だから意識だけははっきりと保たなければと考え、しかし目の端に迫ってきた枝をとっさによけきれずに、こめかみを掠らせて、痛みを逃すために息を大きくつけば、果たしていまの状況で自分がまともな判断を下せているのかなど、自分では分からないのだとうっすら悟った。
 肺のあたりが熱く、喉からでる音も既におかしい。
 骨にひびでも入ったか、折れているのだろうが、肺に刺さらなければいいとだけ思う。

 追いかけてくる声を避けて走るうち、月を見失った。
 どうして同里の人間からこんなにも必死に逃げているのだろうと、上がった息で考えて、理由はこの痛む全身と熱い腹で充分じゃないか、と唇を歪める。
 テントへと行き着ける可能性は、月を見失った時点で、限りなく低くなった。
 三人に減ったとはいえ、その包囲網を抜けて逃げなければいけない。

 ああ、と残念におもう。
 自分の不器用さと力の無さを。
 最初から、自分が身体を差し出して要領よく立ち回れば、こんなことにはなっていなかっただろう。
 こうなったのは、ただカカシでないと嫌だと我を張った自分の責任だ。
 横暴な上官などはいて捨てるほどいるのだから、割り切ってしまえばよかったのかもしれない。

 ああ残念だ、と心底おもう。
 割り切れるほどの器用さも能力もなかった自分を。

 そうして、背後からきこえてくる足音や怒声がもう、ほんの後ろに迫ったとき、ふいに前方が開け、夜空の中に大きく高い影とその傍らに月の光。
 鼻をついたのは水の香りだった。
 テントとは全く逆の方向にきたことを一瞬で悟り、絶望が胸に広がったイルカの目に、人影がひとつ映った。

 木の影の下でよくは見えなかったが、不自然な光が人影の手元を照らしていて、それがチャクラの発する治療の光であることは、あとで思い出したときにわかった。
 そのときはただ、人が居たことよりも、後ろから近づいてくる気配をどうするかということのほうが重要で、イルカはとっさに後ろを振り返り、そして想像通りに来た拳を、うまく動かない両腕で受け止めた。
 もちろん力を受けきれるわけはなく、イルカは吹き飛ばされ、下草を散らして寝転がった先が、その光の傍だった。
 目をうっすらと開けると、暗がりで、驚いたような息をのむ気配がした。
 もうろうとしながら、薄目をあけても誰かは分からず、逃げろ、といいたくても口が動かない。
 だから、その気配がすっと立ち上がり、声をきいたときはイルカのほうが驚いた。

「何をしているの!」

 テントに居ると思っていた女だった。
 どうして、と問いたくても声がでず、目を必死であける。
 木の影からでた女の姿が、月明かりの下にでて、イルカの目にぼんやりとみえた。

「何といわれても、ちょっとした罰を与えていたんだよ」
「罰ですって」
「そうさ、上官の命令に従わない不届き者にお仕置をしていたんだよ」

 自分の荒い呼吸が邪魔だとおもった。
 声がよく聞こえない。
 心臓の音もうるさい。
 世界が暗くなる。
 夜だから当たり前だと自分を笑う。

「お仕置? 半死半生が?」
「そうさ、でないとお仕置にならないだろう?」

 にやけた声を、痛みでぼやける意識が拾う。
 苛立った気配が傍らから立ちのぼる。

「どうしてここまでするのか根拠を聞きたいものね」
「なにをそんなに突っかかる。どうでもいいじゃないか」

 チッ、と盛大な舌打ちが聞こえた。

「もういい、自分のテントに戻りなさい。これ以上は私が許さないわ」
「―――ほう? 随分と偉くなったんだな?」
「あら、あなたも偉くなったものね」

 ひやりと空気が硬くなったが、女は揺らがなかった。

「どれくらい偉くなったのか、これから里に帰って確かめてみる? そうね、自分が可愛いならそちらをお勧めするわ」
「……どういう意味だ」
「あなたの我侭の期限はもう終わってるのよ、辺境回りの地方組み。分かってるでしょう」
「貴様…」
「それでもこの子たちを痛めつけるっていうのなら、私が相手になってあげるわ。あなたも私も上忍、さあどちらが勝つかしらね」

 ひゅーひゅーと鳴る喉を押さえながら、強気な女の態度に密かに驚いた。
 そしてさらに驚いたことに、周囲が静まり返り、畏怖するような気配が漂ったことだった。

「さあ、ムダ話はもういいわ。そこをどいて。この二人を手当てするわ、仲間同士でリンチなんて馬鹿馬鹿しいこと、金輪際しないで」

 強い言に押されたように、周囲にあった怒気をはらんだ気配が消えた。
 イルカの肩の力がドッと抜けた。
 途端に激痛が全身を覆う。
 歩ける? と訊いてきた女の声に、なんとか頷き、肩を貸してもらい導かれるままにテントにたどり着いた。
 寝ていてと女が背を向けたとき、震える指先で首もとの指輪を引き抜いてベストのポケットに突っ込み、そしてついにイルカの意識は途切れた。






 次に目が覚めたとき、イルカの目に入ってきたのは、テントの低い布天井だった。
 思わず起き上がろうとして、痛みで呻いた。
 けれどなんとか起き上がることができ、痛みを堪えながらあたりを見回すと、狭いテントの端に見慣れたイルカの荷物が置いてあった。ホッと息をつく。

 テントのなかは灯りが付いていないにもかかわらず、ぼんやりと明るく、夜が明けているようだった。
 たっぷりと寝ていた感覚はなく、ほんの数時間、気を失っていたようだ。
 女の姿はない。
 改めて自分の姿をみてみると、胴と腕を包帯が覆い、感覚のない顔には分厚いガーゼが貼り付けてあるようだった。
 動く右腕で顔を触ってみると、ずいぶんでこぼこしていて、思わず苦笑するとピリリと口端が痛んだ。邪魔な髪をかきあげて、ため息をつく。動きのひとつひとつで、酷い痛みがイルカに走る。
 毛布をどけて、足を動かしてみる。やはり酷く痛んだ。ズボンはそのままで、治療の様子はみられなかったが、叩きつけられたあたりの部分がとくに疼いた。

 きっと治療は大変だったろう。
 一晩に四人を治療したのだ。
 うち二人は任務上のこととはいえ、自分ともう一人は完全に私事だ。
 情けなさに思考が溺れそうだったが、ため息でそれを追い出して、イルカはなんとか立ち上がってみる。
 意外と足は折れていなかったようで、痛みを堪えれば動けそうだった。
 テントのなかに女の姿はなく、イルカは探しにいこうかと思案していれば、ふとテントの外で草を踏む音が聞こえた。
 ほどなくして女がテントに水をもって入ってきて、イルカをみて眉を盛大にひそめた。

「何をしているの、寝ていなさい」
「すいませんでした、ご迷惑をおかけしました」
「私は医療忍者としてきているのよ、あたりまえの仕事をしただけだわ」

 女はイルカの肩を押して、薄い寝袋の敷いてある寝床へとイルカを戻した。意外とその力は強く、イルカは逆らえずにしりもちをつくように座り込んでしまった。
 座ってから、一気に痛みが襲ってきて、身を丸めてやり過ごす。
 しばらくして顔を上げると、女が薬と水の入った椀を差し出していた。

「痛み止めと化膿止めよ」

 大人しく寝ていられるほど、ここは安全ではないと昨日、身に沁みてわかった。
 ありがたく受け取り、飲み下す。
 水が美味かった。

「あなた、左腕が折れていたし、あちこち酷いものだったわ。ある程度は治して動けるようにはしてあるけど、顔や小さい傷は手が回らなかったの。悪いわね」
「いえ、充分です。ありがとうございました」
「ずいぶんやられたものね。以前から?」
「いえ…ここまでされるとは…自分でも思っていませんでした」

 同じ里の忍びだという事実が、気持ちを落ち込ませる。
 長引いた戦場や野営地では鬱憤が溜まっていることは多々あるし、そのなかで通常では考えられないような暴力がふるわれることもある。
 けれど、妙に手馴れていた彼らにうけた暴力は、イルカだけに向けたものでなく、普段から任務に向けていたものが自分に向かっただけのように思えた。現に、仲間であった男に向かってでさえ、手加減をみせていなかった。

「…あの、…彼らは…?」
「今のところ何もしかけてきていないわね。やりたい放題が今になって怖くなったのかしら」

 昨日のぼんやりとした記憶を呼び起こす。
 女の言葉に苛立った様子とあっさりとした引き際。
 あのとき感じた驚きが疑問になって、女の顔をみていると、苦笑された。

「こうみえて私、強いのよ。―――…ある任務で怪我をしてからね、医療忍術を始めたのよ。そしたらそれを応用できるようになってね、やろうと思えば触るだけで腕を壊すこともできるわ。してみせましょうか」
「い、いえ、けっこうです」
「ふふ、してほしくなったらいつでも言って」

 からかう言葉に、イルカは顔が赤くなり俯く。
 女がぽつりと呟く。

「本当に、馬鹿馬鹿しいって放っておいた自分が情けないわ。たったあれだけで大人しくなるなんて…」

 イルカの頭のなかで、昨日聞いた、生きた人間が地面と衝突して潰れる音が蘇る。
 思い出しても、身の竦む音だ。

「―――この任務は、木の葉の責任です」
「…そうね。今からでも遅くはないのかもね」

 無用な殺人を止め、任務を終わらせること。

「そういえば…あのもう一人はどうでしたか? 酷い怪我をしていたと思うんですが…」
「ああ、アイツ? あんなのあなたに比べればかすり傷だったわ。向こうのテントに転がしてあるわよ。眠り草をたっぷり嗅がせてやったから二三日寝こけてるわよ」
「そうですか」

 なんとなく安堵してほっと息をつくと、それを女に見咎められた。

「どうしてあんなやつの心配をするのかしら、あなたを痛めつけた連中の一人よ?」
「ですが…実際に手を出されたわけではありませんでしたし…。彼がいないと俺も逃げられませんでした」
「偶然よ。あなたが気にする必要なんてないのよ」

 呆れたように言われて、すこし眉が下がる。
 そうだとしても気になるものは気になるのだ。
 女がイルカに対して親切であることと同様に。

「―――俺を助けて、ご迷惑では…」
「なにを言っているのあなたは―――」

 言いかけた言葉が止まり、視線を感じて顔をあげると、女がイルカをまじまじと見ていた。
 心のなかの、下らない嫉妬まで見抜かれそうな目に、後ろめたくなってまた俯く。
 女が硬い声で言った。

「もしかしてカカシのことがあるからあなたを助けたと思っているの?」
「それは…」

 その通りじゃないのか。
 返答に詰まったことが返答になり、イルカは視線を泳がせた。
 だって、でなければこんな一介の中忍を、部隊の副隊長に逆らってまで助けないだろう、とおもった。
 この任務もしでかしていることは酷いが、言ってしまえば黙っていれば後はどうあれ「終わる」のだ。女があえてイルカを助ける要因を、カカシだと考えるのはごく自然だ。
 それに、痛めつけられたときに聞いた、あの嘘としか思えない話。
 カカシが他の上忍を脅したという話だ。
 彼がそんなことをするわけがないと信じているが…。
 だから黙っていれば、ため息をつかれた。

「あなたね、あまり上忍を見くびらないで」
「…ですが―――はたけ上忍が何か仰ったという話は」
「カカシが? …だから?」

 本気で苛立ったような気配にイルカは顔をあげた。女の目が、きりりと上がってイルカを睨んでいた。最初に感じた気弱げな眼差しはどこにもない。

「カカシに恩を売れるから助けたとでも? それは確かに魅力的かもね。だけど、あなたに助ける価値がなければ、だれが助けるものですか」

 イルカの頭のなかでは、カカシと並べるなら自分は金魚の糞ぐらいだろうと考えていて、女の言っていることがいまいち掴めなかった。
 女が背中をみせてテントを出て行こうとする。

「守る価値のある、同じ里の仲間だと思うから、守るのよ。馬鹿にしないで」
「待って、下さい」

 慌ててよろめきながら立ち上がった。
 女にとても失礼なことを言ってしまったと気づいた。
 痛み止めが効いてきたのか、先ほどよりは苦労せず立つことはできたが、一歩踏み出すと同時に足がもつれてバランスを崩してしまう。
 それを女が受け止めてくれた。
 ばつが悪くて顔が赤らんだ。

「す、すいません」
「…もうすこし薬を取ってくるだけよ。休んでいなさい。私も休むわ。チャクラが戻ったら、足のほうももう少し治してあげる」
「いえ、もう充分です」

 さっきは咄嗟のことだったから油断したが、気を張り詰めていれば普通に歩けるだろう。ただの打撲だ。

「それは私が決めることよ、あなたが決めることじゃないわ」

 休んでいなさい、と再度言われ、イルカは首を横に振った。

「俺がここで休んでいれば、あなたが休めません。しばらく、…俺はあちらの物置で見張りでもしながら休んでいます」
「イルカ、それは休んでいることにならないわ。いいからここで寝ていなさい。あなたの身体は打撲が酷いのよ。いまも痛みはあるはずよ、歩けるような気分になっているのは薬のおかげ」

 確かに痛みはあり、薬の効果を差し引けば、歩くことも呻きながらだっただろう。
 けれど、イルカが寝ていれば女はどこかへ行かねばならず、それはあまりにも厚かましかった。

「その…ちょっと用足しにも行きたいので外に行きたいんです」

 だからそう言い出してみた。昨日からの緊張の連続のせいか、尿意よりも喉の渇きがあったが、どちらも必然のことだ。
 女はまだ眉をひそめていたが、しょうがないと頷いてくれた。
 テントの入り口の布を上げて、外にでるときに、一歩よろめいてしまい、女が支えてくれた。

「やっぱりまだ寝ていなさい」

 顰めつらしくいわれる言葉に、イルカはすいませんと謝る。

「でも少しだけ、外を歩かせてください」
「…無茶は駄目よ」
「はい」
「しばらくしたら戻ってきなさい、倒れないうちにね」

 厳しいなりに労わりの言葉がほのかに嬉しく、頷いたとき、なんとなく気が木立のほうへと向いた。
 視線が勝手に、馴染んだ気配へと向かう。
 濃い緑の木立のなか、朝霧の薄い幕の向こうに、イルカのよく知った姿がみえた。
 嘘だ、と唇だけが動いた。


 カカシが、女とイルカを見ていた。






2007.03.24