愛について







 イルカは結局、女の言葉に甘えることにした。
 広くはないテントの端を借り、少ない荷物を置く。
 夜には身を丸めて寝ることになるだろうが、ほかに休める場所もなかった。
 昼をすぎるころに、女の言葉どおり、隊長のテントを取りに騒がしい集団がやってきたそうだ。隊長自身は、そそくさと朝のうちに引き払って里へと一目散へ駆け帰ったらしい。

 イルカといえば、鉢合わせするのも嫌で、下見をかねて山賊がでるという山へ登っていた。
 下に広がる森と違い、急な傾斜が岩で作られた、文字通りの岩山だ。
 イルカたちがテントをはっている場所からは、崖同然の斜面を、わずかに生えた木やちょっとした足場を頼りに這い登らなければならないような山だった。
 山頂向こうはまだなだらかで、砂利と岩でできた斜面のなか、うっすらと道があるという。
 その道は、国境から山のすそをかするようにして、近くの街に続いているそうだ。

 山賊は、街へ向かう旅人を襲って金品を奪い、ときには死者がでることもあったらしい。
 情状の余地があるとは思わないが、現状を確認しておきたかった。
 けわしい斜面をチャクラを使いのぼり、頂で兵糧丸だけの昼食をとった。
 大きな岩が、申し訳程度に影をつくりだしていて、その影に腰をおろす。
 ひろびろとした眼下に山の地肌と、這うように繁る木々がみえる。
 その裾野には、真夏の森林がうっそうと広がっていた。
 山は緑が邪魔をして形がよく見えない部分もあり、きっとそのあたりが生き残りの隠れ場所になっているのだろうと検討をつけて、イルカは昼食を終えた。

 人の悲鳴のようなものが聞こえたのは、街道のほうへ下り、中腹までやってきたときだった。
 まさか、とおもい気配をけして近づく。
 切れ切れの悲鳴と哀願、それに答える緩んだ声が足元できこえ、イルカは岩影に隠れて様子を伺った。
 目の下に広がるのは、切り立った崖だ。
 はるか下方に森が広がり、落ちれば命がないのは、忍びでなければ当然といえる場所だった。

 イルカの場所から、二人の男の頭がみえた。
 上からの視認のために顔はよく見えなかったが、服装で一人が木の葉の忍び、もう一人はそうでないことが分かる。
 そして木の葉の男が、クナイをもう一方へと突きつけていた。
 クナイの切っ先の方向は、崖。
 突きつけられるままであれば、あと数歩で崖へと転落するだろう。

 声がきこえた。
 崖から落ちて楽になるか、生皮を剥されて死ぬか、選べといっている。
 クナイと崖に挟まれた男は、喉を詰まらせたような悲鳴を上げた。
 あとずさる先には崖しかなく、逃げ場はない。
 とっさにイルカが飛び降りようとしたとき、ふいに、クナイをもった腕が大きくなぎ払われ、ついで声にならない悲鳴が響き渡った。
 イルカはおもわず身を乗り出すと、男の鼻がそぎ落とされ、血が飛沫となって地面に散っていた。

「なんて、ことを…!」

 我慢できずに飛び降りた瞬間、鼻をなくした男もまた、身を宙へと踊らせていた。
 イルカが手を伸べても間に合わない距離。
 目を見開いて、助けようとした男の地面へとぶつかる音が、しばらくしてイルカの耳に届いた。

「……ッ」

 身の竦む響きに、イルカは眉根を寄せた。
 そして、二度と見たくもなかった男へと向き直る。

「どうして、あんなことをする必要があったのですか」
「なんだ、来ていたのか」

 返り血だろうか、頬についた血をそのままに、クナイの血をおもしろげに男は眺めていた。
 ニヤニヤと唇を緩ませている表情に、深刻さはない。

「既に相手は戦意を喪失していました。あなたなら無傷で捕らえることもできるはずです、無為に殺したとなれば―――」
「いいんだよ」
「は!?」
「あれで、いいんだ。死んでもらったほうが手間が省けるだろう?」

 まるでゴミの処分をいうかのような、おっとりとした言い草に、イルカは拳を握りしめた。
 これが上忍でなければ、立場と現状を考えなければ、殴ってやりたかった。

「…任務内容は、殲滅とは聞いておりませんが」
「イルカは全く真面目だな」

 名前を呼ばれて、気色悪さに鳥肌がたった。

「…真面目という問題ではありません。これでは木の葉の里にたいして無用の禍根を残すことに」
「だからさ」

 男は、地面に散った赤い色を、わざわざ足先で踏みにじっていく。
 そうしながら、ゆっくりとイルカに近づいてくる。

「どうせ全部殺すんだから、楽しいやり方でしたほうが、良いだろう?」
「…ッ、人を…ッ、人を殺すのに楽しいも何もあるか!」

 胸のなかに湧いた言葉をそのまま吐き出せば、男は可笑しそうに唇を歪めた。

「おいおい、なにお堅いこといってるんだ。分かるだろう? つまらない任務のなかに、ひとつぐらい楽しみがないと腐ってしまう」
「分かりません、分からなくてけっこう」
「綺麗ごとは、私の下では酒の肴にもならないんだが」

 にらみ合ううち、いつのまにか腕ひとつ分の間まで近づいてきた姿に、イルカは一歩後退る。
 男はそれに一瞬、不思議そうにしたが、すぐに唇をゆがめて笑った。

「私と二人のときはそんな態度も許してやるが、部下の前ではあの夜のように可愛くしていてくれよ」

 顔が引き攣った。
 いっそここまで自分の実態と違うことをいわれれば笑えるはずなのだが、おぞ気と合わさると笑えるより鳥肌のほうが勝つらしい。
 お気の毒に、というには危険が目の前にありすぎる。

「だが、そうだな…イルカが私におねだり、というなら考えないこともない。いい加減、この遊びも終わりにしようとおもっていたしね。追詰められた鼠を侮るつもりはなくてね、遊びの引き際も見極めなくては。どうだい? 今夜、私のテントにくることは聞いているだろう?」

 穏やかな話し振りのなかに、嫌らしさと狡猾さが滲む。
 イルカは背を向け、なるべく声音を抑えていった。

「…申し訳ありませんが、ここへは任務のために来ていますので、そういった話しは止めていただきたく思います」
「は」
「また、作戦行動のための指示がないようですので、私は独自の行動を取らせていただきます。あと、テントのことですがご心配なく。野宿には慣れておりますので、お邪魔することはないかと。それでは…」
「おいおい、なにをいっているんだ、イルカ? せっかく呼んだんだ、楽しもうじゃ―――」
「―――お断りします…ッ」

 内心の高ぶった気を肢にこめて、瞬身の術でその場から去った。
 幸い、後を追ってくる気配はなかった。
 けれど、いま追ってこなかったという事実に、後日がおもわれて、イルカは寒気を抑えられなかった。


2007.03.02