まるでバカみたいに
ザザ、と回線の混じる音のあとに、ざわめきが聞こえた。
察するところ受付所だろう。
オレはアカデミーの空いている教室の窓際まで行き、気配を消してぼんやりとそれを聞く。
授業の終わった教室はとても静かで、一人になるにはもってこいだ。
しばらく待っていると、耳にあてたゴム製の玉から紅の声がはっきりきこえた。
「ごめんなさいね、呼び出したりして」
「いえ、かまいません。なにか問題でも…?」
フッと顔に血が上った。無条件でオレの心拍数を上げた声は、ちょっとぼやけて聞こえて残念だ。
「いやそうじゃねえんだ、悪ぃな。ちょいと手っ取り早く聞きたいことがあるんだけどよ、あそこじゃ言い難い話でな」
「いま時間いいの? ダメだったら出直すわ」
「なにか生徒のことで問題でしょうか? 俺で分かることでしたらなんでも…っ」
あ〜いやいや、と困ったようなアスマのぼやけた声。それでもイルカ先生より聞き取りやすいのは、アスマが紅の近くにいるからだろう。
「お前さんの都合が悪けりゃ出直すっていってんだろ。そういう話だ。で、都合はどうだ。十分ほど抜けれるか」
なにい十分で済ますつもりかアスマ、とちょっと憤慨したけど、穏便な話のもっていきかたに、やっぱり感謝した。そういえばイルカ先生は押すよりちょっと下手にでて引くほうが誘いやすかったことを思い出す。
「十分ならさっき言ってきたので今からでも抜けれますが…あの、いったい何のお話で…」
「まあ付いて来いよ。手荒なことしようってんじゃねえから安心しな」
「まさか」
ちょっと笑った彼の声。雑音もまじったものなのに足元が浮き立つ心地がした。
「アスマさんも紅さんもそんな方じゃないでしょうに」
「あら光栄ね」
「まったくだ」
以前から生徒を通じて交流があったから、彼の軽口も他の上忍たちと比べて柔らかい。オレもそうとう彼と仲良くなってるつもりだけど、やっぱり羨ましくなって、一人の教室でそれをじっと聞いてる自分が情けなくなった。
三人はしばらく歩いたあと、周囲の雑音が消えたころにアスマの声がした。
「最初にいっとかなきゃならんが、これは興味本位で聞くわけじゃねえってことと、お前さんの答えは全部カカシに伝わるってことを承知してもらいてえんだ、―――いいか?」
声だけのオレからしてみると、いきなりの切り出し方に、イヤホンの向こう側は少しのあいだ静かになった。
しばらくして彼の声がした。
「えぇと…間違っていたらすいません。つまり、カカシ先生に全部言うということは、カカシ先生がオレに質問したいことがあるっていうことですよね?」
「そうだな」
「カカシ先生は…」
「怖いから逃げてるわ」
紅さん、ホントのことを言わないでほしかったよオレは。イヤホン片手に、オレは項垂れる。彼がなんて思ったのかが不安で仕方が無かったが、飛んでいって弁解するわけにもいかない。だって怖いのは本当のことだ。
彼のオレへの拒絶を目の当たりにするのが怖い。
いまも気配を消して、こっそりこんな盗み聞きしているぐらい、臆病者だ。
「そう…ですか」
「だから代わりに訊いてくれって頼まれてね」
「…どんなことでしょう」
しばらくの間をおいて、アスマの声がイヤホン越しに聞こえた。
「お前さん、カカシと付き合う気はねえのか」
「付き合う…ですか」
「ちょっとした流れだけ聞かせてもらったんだけどよ、いやそんな逐一聞いたわけじゃねえから安心しろよ。でよ、聞いてる分にはカカシとはもう会いたくもねぇってワケじゃねんだろ? 飲みにいったりもしたらしいじゃねえか」
「それは…」
「まあ、ダメだ嫌だの一点張りじゃヤツも納得できねえだろうさ。なんでダメかを訊いてくれって頼まれてんだよ、引導渡してやってくれよ」
オレはイヤホンをもったまま、ずるずると教室の窓の下に座り込んだ。酷いよアスマ。おりしも夕暮れにさしかかる教室はいかにも物寂しげで、視界的にも心情的にもオレは黄昏てしまった。
引導って…もしそんなものを渡されたら、オレどうしよう。
一生、顔を見せないでくださいとか、男同士でありえませんとか、そういう拒絶の言葉を想像して、刺されたわけでもない胸の辺りがガツンと痛んだ。オレは壁を背にして膝を抱える。頼むから、お願いだから、オレの努力できる答えを言ってイルカ先生。
そうすればオレはどんな努力もするよ。
「引導といわれても…」
「遠慮なんかすることないわよ? イルカ先生」
「あおるなよ、紅。イルカ、どんな答えだって構わねえぜ、はっきりいってやれ。考えたこともありません、ってな。おお、この際だ、お前の身の安全を俺が保証してやるよ」
「そうねえ、逆上したカカシがもし、って考えると大変ね。ならそのときは私も―――」
「―――あの」
ちょっと困ったような彼の声。顔まで想像できて切ない。
さらに切ないのがアスマと紅の、イルカ先生を思いやってるんだかオレを貶めてるんだか分からない台詞だ。
オレはそんなことをすると思われてるのか。
確かにしかねないぐらい彼のことを好きだけれど、分別ぐらいはあると自覚している…たぶん。
もしかしてイルカ先生もアスマや紅と同じ見解なのか、とさらにどんよりとしたオレの耳に、彼の戸惑った声。ちょっと聞き取りづらくてオレは耳をすませた。
「カカシ先生とは確かにお付き合いできませんと返事はしましたけど、俺、カカシ先生のこと、あの、嫌いだとか、別に」
「嫌いじゃなくてもダメってことはダメなんだろうがよ。はっきりしろよ」
「はっきりですか…それなら…あの、好き、ですが」
「おいおい、馬鹿いうなよ。お前さんのとカカシのは違うんだからよ、そういうのはよそうぜ」
呆れたアスマの声。
そう…だなあ。
「嫌いじゃない」と「好き」の間はかなり離れてるけど、きっとイルカ先生の「好き」とオレの「好き」も、天と地ほどにも離れてる。
イルカ先生は残酷だ。
お友だちでいましょう、と言われる男の気持ちが身に沁みる。
膝のあいだに落とした頭を抱えて、どうしようもない気持ちになった。
ちょっとでも好きなら頑張る、頑張るけど。
じわり、と目のあたりが熱くなる。
泣きそう。
情けなく感傷に浸りそうになった俺の耳に、イルカ先生の声が。
「―――いえ、同じですよ」
「は?」
「え?」
あっさり、彼の声がいった言葉に、オレも固まった。
涙が引っ込む。
幻聴? と一瞬、オレは自分の耳を疑った。
でも続きが聞こえた。
「俺も、カカシ先生が、あの、好きです。あ、あの、これはカカシ先生には言わないで下さい、お願いします。どうしてダメかっていう理由には関係ないんですし」
え、なにそれ。
「ちょ、ちょっと待てよ、おいおい、じゃあなんでダメなんだよ、面倒くせぇやつらだな!」
「えぇと、その、なんでって、あえて言えば…タイミング…なんでしょうか」
「タイミング? まさかイルカ先生、豪華ディナーに給料三ヶ月分とか言わないでしょうね」
「いえいえ」
彼の発作的に吹き出したような笑い声が聞こえた。
それから、笑いがちょっと仕方ないなあ、という風に変わって。
「あの人、オレにその、言ったのが…三代目の葬儀のあとだったんですよ。お聞きでした?」
ごめんなさい、さすがにそこまでは言ってません。
心の中でアスマと紅のかわりに返事をしておく。
「俺にはカカシ先生の言葉が、俺を置いていくことを前提にしている言葉にしか聞こえませんでした。いつまで生きれるかわからないんだから、とまでは言われませんでしたけど、カカシ先生の顔みてると、そう言われた気がして…だから、あのときの俺には嬉しいより、辛さのほうが大きくて」
そんな。
確かに衝動的に告白はしたけれど、いまは言うべきときじゃ無いんじゃない、って気もしたけれど、そんな。
じゃあ、さ。
もし、オレが然るべきときに、例えば、イルカ先生が幸せいっぱいで未来への不安もなくてオレと一緒にいることへの疑問を感じないぐらい満ち足りてるときに好きだといえば、オレのこの想いは報われていたの?
彼を巧く騙せていれば、オレは彼と幸せになれたのだろうか?
違う。
それでもきっと、イルカ先生はオレの言葉の後ろにあるものに気づいただろう。
いつか来るだろう未来を予想して。
「だから―――」
イルカ先生の声が、最終宣告をいおうとしたとき、イヤホン越しでも鼓膜が破れるかと思うような怒声が響いた。
2007.02.25