まるでバカみたいに






「カカシィ!! てめえちょっと来い!!!」

 ぅわ!?
 咄嗟にイヤホンを耳元から遠ざけた。
 オレの繊細な耳が壊れるじゃないか、もう。
 怒鳴り声はまだ続いていた。

「馬ッ鹿らしい、てめぇら俺をからかってんじゃねえだろうな!」

 しかも、かなりの音量の肉声で聞こえた。
 オレはがばっと立ち上がって、教室の窓をあけて身を乗り出した。
 居た。
 アスマが隣の教室の窓から、かなり気分を害した顔をみせて怒鳴っていた。

「そんなことしてなーいよ、失礼な」
「どっちが失礼よ、このスカタン。人を挟んで痴話喧嘩してんじゃないわよ」

 紅までアスマを押しのけるように顔を出していた。
 うわ、ちょっと間抜けな図だ。
 口にはまさか出さないけどそう思ってたら、後ろからイルカ先生の声が。

「―――え!? カカシ先生がいらっしゃるんですか!? そんな!!」

 驚きたい気持ちも分かります。
 実はけっこう最初から隣の教室に居るんじゃないかなとは思ってました。
 しかも盗み聞きしつつ、耳をすませてイルカ先生の肉声もかなり必死になって聞こうとしてたわけだから、本当に申し訳ないとしかいいようがない。
 まあアスマと紅は、オレが居るようだってわかってて隣を選んだみたいだけど。

「すいません、イルカ先生、実は聞いてて―――」
「そんなこたぁいいんだよ! お前らあとは自分でなんとかしろ!」

 そんなこと、って酷い言い草だ。自分でなんとかできてたら初めから相談なんかしないよ、とは思ったけど、ここまで怒ってるアスマを見るのも久しぶりで、素直に謝った。

「悪かったよ、ありがと」

 そう言うと、今度おごれよ! と言い返されて、しかも紅が、覚悟しときなさいよ、と言い足してきて、ちょっとどうしようかと思った。
 それから紅は、後ろのいるらしいイルカ先生にむかって何か言ったみたいだけど、イヤホンから紅の声が雑音のように聞こえてきたから分かっただけで、いったい何を言ったのかまではオレでも聞き取れなかった。

 オレは一旦、頭を引っ込めて、目元をこすってから隣へ向かった。
 泣きそうだったから、目元が赤くなっていたら嫌だった。
 これでも格好をつけたい年頃なんだ。

「カカシ、先生」

 教室の窓際で、イルカ先生が立っていた。夕暮れ時の暗い光が表情を分からなくさせていたけど、彼が困っているのは分かった。オレはいつだって彼を見ていたから、たいていのことは推測できる。―――さすがにオレのことを好きだっていうのはわからなかったけど。
 アスマと紅は、オレが移動する一瞬で居なくなっていた。
 馬鹿らしくて付き合いきれない、とでも言いたげな即行の去り方だ。
 まあ、確かにオレだって、恋愛相談されて親切にも訊きに行ったのに相手も「好きです」とか言い出したら、もれなく「やってられるか」という気分になるだろう。勝手にやってろ、というやつだ。
 ただし、今のオレはアスマの立場じゃなく、当事者だ。
 目の前にはイルカ先生が居る。

「―――あの…イルカ先生、すいませんでした」
「…何がですか」
「勝手に…話してるの聞いていたことです」
「……」

 沈黙が怖い。
 オレは教室の入り口付近に突っ立っていたから、恐る恐る足を踏み出して、教室の中に入った。イルカ先生は逃げるわけでもなく、ただ黙っていたから、オレはさらにゆっくりと近づいて窓際までたどり着いた。手を伸ばしてもちょっと届かないぐらいの距離をあけて立つ。
 時間は大丈夫だろうか、とふと思った。
 十分といって出てきたんだから、もうとっくに過ぎてしまっている。
 でもここでイルカ先生が帰ってしまったら、オレが一番困る。
 だから卑怯だけどそれには目を瞑ることにした。
 ごめんなさい、イルカ先生。
 もう少しだけオレのために時間を下さい。

「怒ってますか…?」
「ええ」

 ぅ。

「…すいません」
「―――怒ってますけど、それ以上に、とんでもなく恥ずかしいんですけど」
「ぇ」
「最悪ですよ、恥ずかしくて死にそうです! 言わなきゃ良かった!」
「イ、イルカ先生?」
「だいたいどうして聞いてるんですかっ」
「それは、あの…聞きたかったから…」

 もごもごと言い訳したけど、我ながらあんまり情けない言い訳に、オレの頭は項垂れる一方だ。
 盗聴したいからって盗聴してちゃ、世の中犯罪だらけだ。当たり前だ。
 ふぅ、と彼の大きなため息が、教室に響いた。オレはビクッとなって、思わずさらにみっともない言い訳をしようとした。

「あ、あの、でもアスマにお願いしたのもホントで」
「…分かりました、もういいです」
「でも」
「いいです、本当に」

 オレは項垂れて、死刑宣告のように彼の声を聞く。

「―――ごめんなさい」
「いいですって、もう。だから。それにどうしてそんなに謝ってばかりなんですか」

 言われた言葉にオレは驚いて顔を上げる。相変わらずよく表情は見えなかったけど、怒っているばかりじゃないんだろうか。

「それは…勝手に盗み聞きしてたから…」
「それだけですか?」
「だけ…というか…、だって、普通謝るとこですよ…」
「だから、それはもういいです。分かりました、納得しました。で、カカシ先生から他になにか?」

 ツンツンした彼の声。やっぱり怒っている、ような気がする。絶対、怒ってる。オレはまごまごと、

「あと、えぇと、―――あんなときにあんなこと言ってすいませんでした」

 と言った。
 本当に自分の至らなさを確認できて情けない。
 彼にとって三代目がどんな存在だったか。
 人の死に対峙している彼に向かって、焦りと衝動で想いを押し付けてしまったことが、どんなに身勝手なことだったか思い至って、オレは謝るしかないとおもったのだ。
 けれど。
 オレがそう言った瞬間、彼はギッと気配をきつくしたかと思うと、ずかずかとオレに歩み寄ってきた。
 自分から歩み寄るなんて勇気のなかったオレは、彼が躊躇うことなく近づいてきた様子に、反対に身を引いたけど、それもイルカ先生は一歩、踏み出して、オレの胸をドンと叩いた。

「―――謝るんですか」

 オレは声もなく、近づいてきた彼の顔をまじまじと見た。
 真っ赤に染まった顔。
 絶対に夕暮れのせいじゃなく、もう藍色に近い薄暗い光のなか、首まで赤くなっていることが分かるということは、よほどのことだ。
 驚いて言葉もないオレの胸を、彼はもう一度、ドンと叩く。
 オレはよろめいて、窓枠にもたれかかった。窓が背中にあたる。

「謝るぐらいなら、最初から言わなけりゃよかったじゃないですか…!」
「イ、ルカ先生…」
「俺だって言いたいけど黙ってたんです。あなたは絶対に、俺より先に逝っちまう人だと思ったから…! 好きになって、高望みだとか、男だとかいう前に、それが辛かった! それさえなきゃ、俺はとっくにあなたに告ってフられてましたよ。当たって砕けてましたよ。オレは! あなたが忍びでなけりゃホレたかも分からねえのに、忍びだから、言えねえと思ってた! あなたが、あなただから…!」

 ドン、と三度目に叩かれて、オレは、泣きそうな声で言いつのるイルカ先生の背中へ、遠慮がちに手を伸ばした。
 肩口に額を押しつけているイルカ先生の声は震えていて、ぐぐもって聞こえる。

「本当は一生言うつもりなんか無かったんだ。いつかあなたの子どもがアカデミーに入ってきたら、絶対エコ贔屓なんかしないって心に決めてたのに」
「そう―――なんだ。それは…ごめんなさい」
「また謝るっ」

 はは、とオレは情けない笑い声を漏らした。オレの子ども、ってずいぶん具体的な未来図を描いてたんだな、イルカ先生は。それぐらい、彼にとってはオレと付き合う未来ってのは、幻想だったってことだ。
 オレの笑いも力無くなろうってものだ。

「オレは、あなたこそ嫁さんもらって、休みの日には子どもの特訓に付き合ってあげる良い父親になるだろうって思ってました。だから…言わないといけない気がしたんです。あのとき、オレが言わなけりゃ、あなたはオレの気持ちなんか知らないままだったでしょ?」

 抱きしめられたまま抵抗もしないイルカ先生の体温。
 オレの心拍数が勝手にぐんぐん上がっていっているわけだが、きっとイルカ先生は考えてもしてないんだろうな。
 腕に力を込めて、オレはイルカ先生をぎゅっと抱きしめた。

「言わなきゃ、今だって、イルカ先生の気持ちなんて気づかないままだった」
「あなたは何でもお見通しだって顔してるくせに、肝心なとこで鈍感なんですよ」
「ごめんなさい」

 言えば、バカヤロウ、と悪態をつかれた。
 オレはもうしょうがないと笑うしかない。
 謝ってしまうのは、惚れた弱みというやつだ。

「イルカ先生、好きですよ」

 うるさい、とくぐもった声で言い返される。
 ズビ、なんて鼻をすする音も聞こえたりして、もしかしてホントに泣いてるのかな。
 オレはそろそろと手を動かして、肩口のあたりにもっていく。
 首も少しだけ動かして、イルカ先生の頭を、よしよしと撫でた。

「―――オレは確かにあなたより先に死ぬかもしれません。けど、だからって何も断ることないじゃないですか」
「だって」
「いつ死ぬかなんて、誰にもわかんないですよ」
「でも」
「それに怯えて、幸せ逃がすなんての、嫌です。オレはイルカ先生の悲観主義に付き合う気はありませんよ」

 うぅ、と唸るイルカ先生。
 オレはゆっくりと黒い髪を撫でる。
 好きだ。
 イルカ先生が好き。
 抱きしめて、こうして穏やかに彼の髪を撫でることができる幸せを、他の誰かに渡すなんて考えつかない。
 悪いことを考えて幸せになりたいイルカ先生を慰める役を、オレ以外がするなんて。

「あんなときに告白しちゃったことは本当にごめんなさい。でも、気持ちは変わりません。…ね、イルカ先生、お願いだから、不幸せ込みでオレを幸せにしてください」

 イルカ先生からの返事はない。
 ただ、オレの背中に回された彼の手のひらが、ベストをぎゅっと掴んで、俺は嬉しくなった。
 返事ももらってないのに幸せな気持ちで撫でていたら、イルカ先生がその手を離して、オレの胸を押した。無理に抱きしめていたわけじゃないから、自然とイルカ先生とオレの間がすこしだけ空く。

「イルカ先生?」

 温もりが無くなって寂しくて呼びかけると、俯いていたイルカ先生が、ぽつりと零した。

「紅先生が」
「え?」
「―――紅先生が、いったんです。カカシさんと同じことを」

 オレと同じこと?
 なんだろう、と言葉を待つと、イルカ先生は寂しそうに呟いた。

「いつかくる悲しさのために、今の幸せを逃すんじゃない、って」

 ああ、とオレは思い出した。
 紅が去る前に、イルカ先生に向かってなにか言っていたことを、オレはすっかり忘れていた。
 てっきり当てこすりでも言ったのかなと思っていた。
 そんな神妙なことをいっていたんだ。
 オレは紅のことを少し見直した。気が強いばかりかと思っていた。

「そう…紅がそんなこと、言ってたんですね」
「俺…、紅先生に叱られたように思いました。幸せボケしてるんじゃないかって。俺は―――恥ずかしくて」

 あー…、なるほどね。
 上忍になった紅は、厳しい場数ならイルカ先生よりも踏んでるはずだ。
 その紅から言われたからこそ、余計に堪えたんだろうな。
 オレは、イルカ先生の頭を、慰めたいとおもってよしよしと撫でる。
 自分でいった言葉もまた、イルカ先生を恥じ入らせたんだろうと想像して、でもオレの言葉も紅の言葉も本当のことだから訂正できなくて、ただ撫でた。

「―――どうして撫でてるんですか、慰めてるつもりですか」
「うん、そう出来れば」
「俺がバカみたいじゃないですか」
「うん、そうだね」

 オレは同意してしまってから、ちょっと苦笑いをした。
 だって、バカみたいでも、そんな彼が好きだと思って慰めている自分も、充分バカだと思ったから。

「好きだよ、イルカ先生」

 言うと、イルカ先生はずびっと鼻を啜って、目元を腕でごしごし擦った。
 顔を上げた彼の目元は、夜の光のなかでも真っ赤になっていて、思わずキスしたいぐらいだった。

「―――…俺だって好きです」

 あはは。
 拗ねた感じでいうイルカ先生を俺は抱きしめた。

「付き合おうよ、死ぬまで」
「…白髪になるまでだったら」
「あはは」

 本当に強情で、愛しい。

「―――うん、分かった。約束する。イルカ先生が死ぬまで、オレは死なない。それでいい?」
「…守れない約束はいりません」
「守れるかもしれない」

 白髪になるまでじゃない、イルカ先生が死ぬまでだから。
 イルカ先生がオレの死に耐えられないっていうんだったら、オレがイルカ先生の死に耐えよう。
 そして一時の激痛を抱えて、オレも後を追おう。
 それなら問題ないでしょう?

「どうしてもオレが先に死んじゃうときは、諦めてもらうしかないけど」
「…なら、俺が後を追います」
「それはダメだよ。オレが死んだらあなたは可愛い嫁さんもらって子ども作って、孫に囲まれて死なないと」
「なんですかそれ、どうしてそんな酷いこと言うんですか」

 ぐりぐりとイルカ先生の頭が、肩口で駄々をこねる。
 こそばゆい。

「俺はもう、大事な人が死ぬ痛さが辛くて、なかでも特にあなたは大きくて、これ以上大きくなったら、もう、俺はどうしていいか分からないんです。あなたが先に逝ってしまったら、俺はきっとどうしていいか分からなくなる。後を追うななんて言わないで下さい」
「イルカ先生、オレが居なくても生きてけるでしょう?」
「―――俺はそんなに強くないです」

 オレはイルカ先生を抱きしめて、泣きそうなじんわりとした気持ちが彼から伝染してくるのを感じる。
 幸せだけど、悲しくもあり、でも確実に、幸せになれる道がオレたちの間にはあるんだ。
 明日かもしれない悲しさの壁をまえに立ち竦んでるのは彼で、オレはその向こうに居る。
 二人で手を繋ぐためには、オレもまた、これまで感じることのできなかった多くの悲しさの壁を、共有することが必要だった。
 正直、辛い。
 面倒くさいとも思う。
 でもそれが、一緒に生きる、っていうことだ。
 一緒に生きたいと思う相手と、一緒に生を歩むってことだ。

「オレも強くないよ」
「嘘だ」
「ホントです。一緒に強くなりましょうよ。それで、一緒に生きて、オレと」
「でも…」
「あなたと一緒に生きていきたい」

 身体をすこし離して、目を覗き込んだ。
 窓の外からの暗い光が、イルカ先生の顔をぼんやりと見せていて、苦しげな目元にキスをした。

「イルカ先生、好きです。オレと付き合ってください」

 頷いて、とオレは願った。
 目を見つめて、どうかこの想いが臆病なイルカ先生に伝わるようにと願った。
 オレたち以外に誰もいない暗い教室で、物音も立てることもできずに彼の返事を待つ。
 そして、しばらく見詰め合った後に、オレは彼を抱きしめた。

 ぎゅぅっと力いっぱい抱きしめて、顔を真っ赤にしたイルカ先生は「痛い」と文句をいったが、幸せいっぱいのオレはそんなこと聞いちゃいなかった。
 真剣な表情で、声もなく頷いてくれたイルカ先生に、オレは幸せのキスを降らせて、そしてまた抱きしめた。
 彼と共に生きれること。
 悲しさも嬉しさも分け合えること。
 ただ、彼を抱きしめてキスできる幸せを、オレは噛み締めた。

「イルカ先生、大好きです」
「俺だって…好きです」

 キスは幸せで蕩けそうな気がした。
 そのあと、あんまり長くキスをしていたら、仕事を思い出したイルカ先生にボカリとやられたけど、それも嬉しくてへらへら笑っていたら、オレはイルカ先生に気持ち悪がられたのだった。




2007.02.25 20万ヒット、ありがとうございました!