まるでバカみたいに






 分かれ道まで手を繋いで、その夜は帰った。
 泣きたくはあったけど、彼の温もりに触れてとても幸せだった。
 数日のあいだオレはその暖かい記憶でふわふわしていたけど、やがてそれも冷えてくるころになると、気持ちが前向きになってきた。

 イルカ先生はどうしてオレの気持ちにこたえてくれないんだろう。
 どうもオレのことを嫌いではないらしい。
 でも好きにはなれないらしい。
 かといって触るのも気持ち悪いというわけでもなく、柔らかに撫でてもくれる。
 それが子どものような扱いだって気にしない。
 彼はオレのことを嫌いではない。
 そう結論付けたオレは、ある昼下がり、馴染みの顔ぶれであり意外と面倒見のよい人たちに相談してみることにした。

「はあ?」

 オレの話をきいた髭男、もといアスマの第一声だ。
 隣に仲良く座っている黒髪の気丈夫、紅も驚いたようにオレをみている。

「それでさ、イルカ先生からちょっと聞き出してくれないかな。頼むよ」
「いやいやいや、ちょっと待てよ」
「ん、なに」
「私はじめて聞いたわよ、あんたが男好きだって」

 ずいっとアスマの前に紅の顔がせり出してきて、オレはちょっとのけぞった。

「いや…男好きって、男全部じゃないしべつにアスマに手は出さないから安心してよ」
「あっそ」

 あっさり紅はソファの背もたれに戻った。怖いなあ。

「いまも女だって好きだよ? だけどオレは紅に手を出したりしないでしょ?」
「まあ…なるほどね。それで? 告白してフられたんでしょ? 諦めれば。昔、アンタに告ってフられた女のコみたいに」
「ぅ」

 確かにオレは、むかし好きだといわれたときに、諦めて、と捨て台詞を吐いたことがある。あんまり何度も告白をしてきた女の子だったから、何度も呼び出されてうんざりしてしまって言ったんだ。
 紅はどこかでその話をきいたらしく、その当時からオレに当てこすりを言ってた。
 何度も聞いてた厭味だったけど、今いわれるとさらにキツイなあ。
 オレ、どうしてそんな酷いこと、いえたんだろう。

「…でも、オレはまだ二回しか告ってないし、望みもあるわけだし」

 ぼそぼそといい訳していると、アスマがぷかあと紫煙を吐き出した。

「まあお前が訊いてくれってんなら、面倒臭ぇが訊いてやらあ。で? 具体的に何を訊けってんだよ」

 アスマはなんだかんだと面倒見が良い。オレは遠慮なく、お願いすることにした。

「オレのどこがダメなのか」
「おま…それぐらい自分で訊けよ」
「それぐらいって言うなよ、目の前でいわれたらショックだろ?」
「厚かましいわね」

 紅からまた皮肉をいただいた。つまり、散々女のコ相手に酷いこといってきたくせに自分のこととなると保身に走るのねということだろう。まあその通りだから、オレは反論せずに受け取っておいた。

「紅、それぐらいにしとけよ。まあそれぐらいなら訊いてやるけどよ、どんな返事でも俺を恨むなよ?」
「うー…うん、たぶん」
「おいこら」

 自信ないオレの返事に、アスマが胡乱な目をよこした。いやでもなあ、オレへの全否定を伝言されたら、ちょっとオレ自信ないもんな。一瞬アスマに殺気むけちゃうかもなあ、と予想してしまう。
 イルカ先生がオレを受け入れられない理由。
 こういってはなんだが、オレは稼ぎも良いし年のわりに早く出世してるとおもう。性格も経歴にしちゃ悪くないとおもうし、彼には特別立派にみえるように振舞ってきた。

 なにが問題かって、彼が全くの異性愛者ってことだろうな。
 …それぐらいの問題は、じつはオレにも分かってはいるんだ。
 彼は女の人を嫁さんにもらって子どもを生んでもらって家族を持ちたい人。
 何度かの呑み屋の会話でも分かってる。
 オレみたいなのはお門違いってやつだ。
 彼より先に死んでしまう可能性が限りなく高い、子どもも産めない男なんて、お呼びでない。

 そんなことは、アスマに訊いてもらうまでも無いぐらい、明白なんだ。
 だけどそれだとオレの足掻く余地がないから、だから藁にもすがるおもいでアスマに逃げ道を作ってもらいたいだけだ。
 それ以外の、オレの顔だとか性格だとか考え方なら、なんとかできるから。
 だからオレの希望する答えをアスマが聞いてこなかった場合、オレは。

「てめえ、一人の世界に入ってんじゃねえよ」

 ガツンと長椅子が揺れて、一緒にオレもぐわんと揺れた。乱暴だなあ。

「本気なのかよ」
「うん、すごく」
「なんでだよ」

 目がちょっと丸くなった。いまはイルカ先生の「なんで」を聞いているんであって、オレの「なんで」ではなかった。でもアスマにしてみれば、オレの「なんで」のほうが知りたいことなんだ。
 それはそうか。そうだよな。
 オレは考えて、どの言葉がいちばん彼に相応しいかと思い浮かべたけれど、ぴったりとくる言葉を探し当てられずに、酷く身勝手な言葉で答えた。

「あの人と一緒なら怖くない」
「何が怖くないんだよ」

 オレはちょっと躊躇ったけど、素直に答えた。

「…生きてくこと」

 飯を食べたり寝たり洗濯をしたりゴミを出したり、生きていくために必要な生活の動作をすること。
 自分が絶ってきた命の代わりに、今を生きているわけじゃないのに、自分の命がなんのためにここにあるのか不安になる。
 生きていていいのか、と怯える瞬間が、日常の生活にある。
 なんでもない日常の一瞬に怖がる自分に、支えが欲しいんだ。

 アスマは笑うかと思ったけど、短くなった煙草を微かに上げただけで、そうか、と言った。ちょっと照れくさい。笑ってくれてもよかったんだけど。
 アスマがオレの言いたいことを理解したかどうかは分からなかったし、理解してほしいともあまり思わないけど、彼のことを諦めろと言わなかったことが嬉しかった。
 紅が綺麗な足を見せびらかすように組み替えて、

「じゃあ、行きましょうか」

 と唐突に言い出した。

「? 紅、なんか用事あったの。悪かったね、オレの話つき合わせて」

 言ったとたん、オレの額宛に、ぽこんと軽い音とともに何かがぶつかってきた。反射的に手のひらで受け止めてみると、小鈴ぐらいの大きさの、シリコンゴム製の丸っこいもの。
 なんだろうこれ。
 人差し指と親指ではさんで見てると、紅がアスマの腕を引っ張って立ち上がった。アスマはいきなりでちょっとよろめきつつも、文句も言わずに立った。偉いよお前。

「それ、ちょっとだけ貸してあげる。聞くかどうかはアンタの自由よ」

 聞く? てことはこれはイヤホンなのかな。試しに右耳にあててみると何にも聞こえない。
 アスマを引っぱっていく紅が、去り際に

「ばーか、電源入れてないから聞こえるわけないでしょ」

 と呆れた口調で言ってきたのが、イヤホン越しにちょっとくぐもって聞こえた。




2007.02.25