愛について
次の日、里を出発した。
カカシがなぜか大門まで見送りにきてくれた。その足で受付に行くといっていたから、カカシも任務で呼ばれたのかもしれない。
見送りに手をふってから、任務地まで丸一日かかった。
昼まえに着いたそこは、険しい山岳地帯ふもとに広がる森の中だった。
きりたった山の斜面を壁にするようにして、十を数えるテントが点在していた。
テントの前にはすぐに背の高い木々がしげっていて、テントの布を山から隠していて、山賊相手にみつからないようにしているのであれば上手くしているようだ。
だが、同時に首を捻る。
一ヶ月を越えた長丁場だというのに、人の寄り集まるような場所がまるで見当たらない。
受付所できいた、現場が殺伐としているという話も嘘ではなかったようだ。
食事の煮炊きをどこでしているのかはしらないが、森の中、テントが居住まいをみせるだけで、人の気配はもちろん、生活の痕跡もみせていない野営地など、不気味に感じられた。
忍びであれば当然で、むしろ褒められてしかるべきことなのだろうが。
背中に荷物を背負ったまま、ただテントの群れを見つめていると、ふいにそのうちの一つの入り口にかかる布がめくり上げられた。中からでてきたのは中年程度の男だった。
気配はなかったけれど、やはり人はいたのだ。
ほっとしたようなおもいで声をかけようと近づいた。
イルカが声をかける直前、相手もイルカに気づいたようだ。
「…よぉ、なんだあんた」
「うみのイルカといいます。里から交代として参りました」
「ああ…そうだ、今日だったな…そうか、あんたが」
「よろしくお願いします。それで到着の挨拶をしたいのですが、隊長は…」
イルカは言葉を途切れさせた。男の視線が、無遠慮にイルカの頭から足まで上下したあげく、顔で止まってにやにやと見つめられたからだ。
「…なにか」
少なからず不快に感じて、声が尖った。
すると男は、意外にも快活に笑っていった。
「わりい、人の好みは十人十色だ。俺の知ったこっちゃねえ」
「…」
「俺としちゃ、あんたがきてくれたおかげで帰れる。やっとウチで母ちゃんと寝れんだ、あんたに文句なんかこれっぽっちもねえさ」
あー暑ぃ、と男は伸びをして、背中をみせて木立のなかへといってしまった。けっきょく、隊長のテントというのは聞けなかったし、所在も知らないままだ。
だが追いかけて訊くのもなにやら腹がたつ。
イルカは胸のモヤっとしたものを深呼吸で追いだして、重い荷物を手近な木の根元へとおき、腰をおろした。
目を閉じて、汗ばんだ背中を木に預ける。真夏の日差しが木々に遮られ、眩しさの欠けらが木漏れ日となって、瞼まで届く。
耳をすませても刀の擦れる音や、怒声は聞こえない。ただ鳥の羽ばたきや囀り、木々の揺れる音ばかりだ。人の声もいまはない。
もっと鋭敏に感じてみれば、先ほどの男の足音も聞き取れるのだろうが、そこまではしなかった。
休憩もかねて、そのまま静かに座していると、ふと草を踏み分ける音が近くでした。
「あら、だれ?」
目をあけて、声のほうをみる。木の葉の額宛をした女が、木立のなかから出てきた。緑のうっそうとした色と、木漏れ日の光にてらされた女の赤毛との対比が、目に映る。
「…里より交代として来ました、うみのイルカです」
尻をはたいて立ち上がる。近くまで歩いてきた女の身のこなしは滑るようで、上忍だとイルカは判じた。
女は考えるような目で、イルカを上から下まで眺めてきた。とび色の瞳が無遠慮にイルカの表面をなでる。先ほどの男と同じことをされ、吐き出したはずの苛立ちが再燃しそうだったが、努めて飲み込んだ。
「…よろしく、お願いします」
「ええ、よろしく。…ねえ、イルカ、だったわね」
「はい」
「…もしかして、あなた、アカデ―――」
言いさした女の言葉が途中で途切れた。立ち上がったイルカの背後に、女の視線が移っている。イルカも振り返り、視線の先を確認すれば、並ぶテントのひとつから、疲れた様子の男がでてくる姿がみえた。
テントから出てきた男は、すぐに女とイルカに気づいた。
「どうした―――、あぁ、里からか」
大またで近づいてきてから、一人合点した男は、急に相好を崩すとイルカの肩を掴んだ。
「や、あんたが来てくれて助かるよ。ほんと、これでアイツらも大人しくなってくれると良いんだが」
「…は?」
初対面の相手に、イルカとしては法外に無礼な返答をしてしまった。
それほどに、この無精ひげを生やしたくたびれた男の言葉は嬉しげで、不可解だった。あらためて見ると、木の葉の額宛こそしているものの、ベストは着けておらず、支給されているはずのアンダーなどの服は着ていない。身に着けているのは、里人のような薄手の服だ。およそ、戦闘地にいる忍びのいでたちとは思えない。身のこなしだけは、忍びの、それも上忍でもおかしくないようなものだが。
「あの…いったいなんの」
「いいさ、大体は聞いてる。交代っていっても、ようは手に負えねーって隊長が帰るかわりに、お目付け役が…」
男は、ニヤリと笑ってイルカをおどけるように小突いた。
「つか、女房がきて慰めてくれるっつー話しなんだろ? お前さんも大変だよなあ、副長はアレだし、周りのやつらは副長万歳だ。体、もつかあ?」
はっはっは、と笑う男を、唖然と見る。
男のいう話しとイルカの聞いている話しはまったく違う。
「あの…俺はうみのイルカで、里から交代要員ってことで任務うけて来たんですが」
「あー、そりゃ里だって、副長と隊長がソリ合わんから、隊長返して、ご機嫌とりに女房派遣します、とは任務書に書けんだろ? な? 建前あわせなくてもいいって」
いかにもといった訳知り顔で、同意を促されても、当たり前だが頷けなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください、全然話が分からないんですが…じゃあ、さっき会った人が隊長だっていうんですか」
「だからいいって。って、会ったのか? 帰るとかいってたか?」
「ええ、俺が来たから帰れるって…」
「じゃあそうだろ。もうあの人、やる気まったくないからさ、この任務に。まあ分かるけど。俺も帰りたいしな」
そこで男は初めて気づいたように、イルカの傍らに立っていた女に目をやった。
「よお、上はどうだった」
「全然ダメね。もう場所を変える余裕もないみたい。あいつらもそれ分かってるから、イライラしてるわ。馬鹿みたい」
「そうか…もうほんと、帰りてえなー」
「誰だってそうよ」
「まったくどっちが悪党かわからねえよ、あいつらだって…」
男は、そこでイルカの顔を見、媚びるように顔を引きつらせた。
「…って俺がいってたのは、副長には黙っといてくれよ。まあ、どうせ殴られるのは一緒だけどな」
「殴られる…」
「あんたもそうだろ? みたところマトモそうだし、どんな事情があるのかしらないが、上忍相手も大変だ」
ちょっと、と女が咎めるように男へいい、男は喉に何かがつかえたような声をだして、口を閉じた。
イルカの背を嫌な予感がじわりと這い上がってくる。
「ちょっと…本当に分からないんですが…俺が里から聞いたのは、戦闘が長丁場だから交代だって話しだけで、そんな上忍の相手だとか、にょ、女房だとか、いわれる心当たりはまったくありませんし、心外です」
カカシ相手ならどうとでも言われてもいいと思うが、その他の人間ならまったく御免こうむりたい。
だいいち、カカシにとって自分が女房だなどという言葉で呼ばれることは絶対ない。
世話をやく人間という意味であれ、伴侶という意味であれ。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
腹立たしい気持ちも手伝って、頭に血が上りそうになりながら言うと、目の前の二人は顔を見合わせて、そして女がいった。
「…いろいろと誤解があるようね。いいわ、私から現状説明をします」
え、でも、と男はためらうそぶりをみせたが、そのとき木立のなかから誰かを呼ぶ声がした。
それに男は返事をして、イルカと女をみる。
「いいわよ、隊長でしょう。行きなさいな。私はイルカの着任手続きをしておくわ」
女の言葉にイルカは内心ホッとした。
着任手続きは難しいものではないが、日付や場所で、任務についた忍びの行動証明ともなる。いままの任務をふくめ、野営地についてから、こんなにもたついたことは無い。
「じゃあ、こっちに来なさい。私のテントで話しましょう」
これから先の顛末を予想できそうな着任で、イルカは木陰の荷物を持ち上げながら、暗澹とした表情を隠すことができなかった。
2006.12.31