愛について
「イルカさん」
まだ日も高い帰り道、声をかけられた。振り返って声の主を確認すると、仕事で疲れた顔がほっと綻んだ。蝉の声が夕刻近くてもまだまだ五月蝿い。手に持つビニール袋が汗ばんでいる。
「カカシさん、おかえりなさい」
「ただいま。イルカさんもお疲れさまです」
立ち止まってカカシを待つ。
ここ数日留守にしていたカカシは、一目みるにはどこも怪我がないようだが、歩いている様子を見る分にも大丈夫そうだった。安心する。
「いま帰りなんだ? 一緒だね」
「今日は早番だったんです」
「そっか、それ、なに?」
肩をならべてゆっくりと歩き出してから、カカシはイルカの手元をみて小首を傾げた。イルカは袋を掲げて、みせてみる。薄いビニールは透けていて、小瓶ながら酒瓶の茶色いラインがよくわかった。紙のラベルには酒の名前と大吟醸、との文字がみえる。
「同僚にもらいました。まあ残念ながら中身は大吟醸じゃないんですが」
「ふうん? …同僚さんが漬けたとか?」
「すごい、よく分かりましたね」
「なんとなくね」
しばらく、庭付きの自宅をもつ同僚の話に花を咲かせながら歩いた。それほど親しくはないが、教員同士でもあり、他愛無い話もする。そのなかで、夏のはじめに漬けた果実酒が、そろそろ試し飲みできるころあいで楽しみだ、と聞いたから羨ましがると、後日、去年つけたものだと持ってきてくれたのだった。
今年漬けた瓶も、もうすこし陽が早く落ちるようになれば、飲み頃だと嬉しげにしていた。実りの秋、というが、まだまだ残暑がつらい時期だ、実りとともに涼しさも待ち遠しかった。
じっさい、隣を歩いているカカシは、とりたてて汗をかいているとか手扇をしているわけではないが、暑そうだ。
そんなことを思っていると、まるで心を読んだかのようにカカシがいった。
「ほんと毎日暑いよねえ」
「…カカシさんは人一倍暑いでしょうね。取らないんですか?」
「これ?」
いってカカシは自分の口元を指差した。
暑いときののそれは見ているほうも温度が上がりそうなしろものだ。
当人が涼しげな顔をしているから、声高にだれも言わないが、近しいものなら一度は考えて当然だ。
「家の中じゃ取ってるじゃない」
「それはそうですが」
「外でですか? うーん」
あらためて訊いたことはなかったが、カカシは外で素顔を晒したくないのだろうか。
なんとなく、屋内の人目がない場所ではさして抵抗なく口布を取っているのに、外にでるときはいつのまにか口布をしている気がする。
「やっぱり隠しているんですか?」
「隠してるってわけじゃないんだけど、小さいころからの癖もあるし…あと見たいっていわれると隠したくなるんだよね」
悪戯をしかける子どもの顔のカカシをみて、イルカは笑った。小さいころに悪戯をして心底楽しかったことを思い出す。人の笑いを取るためでなく、純粋に自分のためだけに悪さができたのは遠い昔だ。
「その気持ちは分かります」
「そう? 嬉しいな」
だったらやっぱり隠しとこう、などとカカシはわざわざ口布の位置を確かめて引き上げたりなどとしている。なんとなくイルカもカカシの言葉が伝染したようになって、心が浮き足立つ。歩くうちにはずみで時折あたる肩口も、近しく歩いていることを実感して、足元がふわふわする。
「あ、イルカさん、あれ」
ふとカカシが商店の軒先を指差して、イルカの注意を引く。視線を向ければ、通りにむかって作られた商品棚にいくつかのガラス器や焼き物が並べられていた。
カカシに促されるままに近寄って見てみる。店じまいには中にしまうのだろう、風にさらされて無骨な棚で、それに並べられている品々も、よくみると値札に横線がひかれ、値引きされている。
「これがどうか…」
「ほら、イルカさん、ガラスのこういうの持ってないから、どうかな」
カカシが、こういうの、と言いながら棚からとり上げたのは、無色のくもり硝子でできた銚子だった。傍らに二つ、猪口がおいてあり、セット価格、となっている。無色地にところどころ、金色の欠けらが散らしてあり、無難なデザインだったが悪くない。入日に染まる通りのせいだろうか、カカシの手のなかで夕空色にみえるそれは、とても良いものに見えた。
「酒もあるんだし、安くなってるし、ちょうど良くない?」
良い思いつきだというようなカカシの口ぶりに、それもいいかと思いかけたイルカだったが、よくよく値札を見てみると、赤い横線の下の数字が、見慣れているより一つは多い。
「…」
「ね?」
イルカの沈黙をどうとったのか、カカシは「じゃあ」といいながら店内に向かおうとするから、思わずイルカは引きとめた。
「あれ、嫌? 他のが良いならそれにするけど」
「そうじゃなくて…そんな良いのを買わなくてもいいんじゃないかと思って…」
「うーん…俺が買いたいんだけどダメかなあ…」
カカシの語尾はあきらかにイルカに譲っているようで、イルカもきつく言いにくくなった。
遠慮が言葉の裏にあるのだとはわかる。
きっと、イルカの家に自分のものを置くことは迷惑なことだ、と考えているのだろうとは想像に難くない。
そしてイルカもそれを分かっていて、洗うときに緊張するじゃないですか、といってしまうにはカカシの遠慮をこえた言葉が嬉しくもある。
けっきょく、イルカは頷いて、カカシは嬉しげに目を細めて勘定を済ませたのだった。
毎日々暑くて、忍びだからといって汗がでないわけでもなく、いい加減にクーラーという文明の利器に頼ろうかと迷うころ。
イルカに任務書が回ってきた。
火の国辺境への、交代要員としての任務。
もともとの任務内容は辺境の山に出没する盗賊団の退治および治安の回復、というものだったらしいが、任務開始日から一ヶ月を経過し、長期に及んだため、交代することにしたそうだ。
そこまでを受付所で聞かされてから、イルカは不思議におもった。
わざわざ教員として配置されている自分がいくには不向きだ。
戦闘能力が要るようであるから、その点が考慮されているのかと思わないこともないが、イルカの戦闘能力や経験は並だ。自覚しているからこそ、腑に落ちない。
任務書を渡してくれた年輩の受付員に、そのあたりを切り出してみた。
人手が足りないんですか、と。
すると、朗らかに否定された。
「いやいや、そういうわけじゃないんだがね」
「じゃあ」
「ただ長丁場でね、向こうの様子が酷いらしいんだよ」
「酷い…?」
「みんなピリピリしてるらしくてね。だから気の短いヤツはダメだし、気の弱いヤツもダメ。注文が多くてね。だからイルカ先生、あんたに決まったのさ」
「はあ…」
「あんたなら余計な揉め事は起こさんだろう?」
いわれて、イルカは「はあ」とまた気の抜けた返事をした。
そんな風に見られているのか、と内心首を捻る。
「でも、任務経歴みてもらったらお分かりかと思いますけど、俺、そんなに使える方でもないですし…長丁場なんだったら、もっと経験豊富な人のほうがいいんじゃないでしょうか」
いくらなんでも、人柄だけで派遣されるのは如何なものだろう。
そんな思いでいったのだが、受付員は手元の任務書控えをみて苦笑した。
「まあそりゃあそうなんだが、そう自分を過小評価せんでもいいだろう。それに、あんたに指名なんだよこれは。腕も評価されとるんじゃないかね」
「指名…っ?」
「なんだ、そんなに驚いて。まあ、向こうにあんたを評価してくれる奴がいるってことだ。あんたなら上手くやれるだろうってな。しっかりやってきなさい」
年長者らしい諭し方で、受付員はイルカに任務書を渡した。
腑に落ちない、心地の悪さがさらに強まって、イルカは生返事でそれを受け取る。
そのまま話しを終えようとする受付員に、食い下がって質問をした。
「あの、あいつ、居ますか?受付にいると思うんですけど」
「ん? 誰だね」
イルカは数ヶ月前に情報をくれた同僚の名を言った。
彼がいれば、もっと詳しく確かなことを教えてくれるとおもったのだ。
受け取った任務書には任務地や依頼人の名前、それに部隊長と副長あたりの名前は書いてあるが、それにはあの忌まわしい名前はない。もしあの人物が関係しているのなら、なにか知っている可能性があるのだが…。
だが、返事は否だった。
「ああ、彼なら研修とかで他の街にいってるよ。そうだなあ、帰ってくるのは早くて明後日だろうな。なんだい、用事かい」
「あ、いえ…」
「その任務、大至急ってわけじゃないから、出立は明日でもいいが、さすがに明後日は」
「ああ、いえ、その…そういうわけじゃないんです。すいません、じゃあこれで…」
眉をひそめた受付員のまえからそそくさと引き下がって、受付所をでて息をついた。
一緒に肩も下がる。
里からの任務を疑うなど、情けなかった。
あの人物は里が処断してくれているのだから、以前と似た状況であっても、関わっているはずがない、と思うのだが、実際どんな処断が下されたのかはイルカは知らない。だからこそ不安にかられるのだが、それが里への疑いのように感じられて、情けないのだ。
とはいえ、任務は任務。
どんな危険があるかもしれないのは、いつもと変わりないだろう。
準備を入念にしておいて、間違いはないはずだった。
2006.12.28