愛について







「イルカさん、おかえり」
「ただいま帰りました」

 扉をあけてくれたカカシに、イルカは頬をほころばせた。カカシもまた表情を柔らかくして、イルカを迎えてくれた。
 前回の任務は週をまたいで、カカシの顔を見ていない寂しさがつのる頃にカカシは帰ってきた。出立するまえの、些細な口争いなど無かったかのように、イルカへと「ただいま」と目を細めた。
 それから数日たつ今は、里でのんびりしているようで、毎晩イルカ宅で夜を過ごしている。
 イルカといえば昨夜はアカデミーの宿直当番で、帰ってきたのはいつもなら出勤する朝の時刻を回ったところだ。引継ぎをして、あくびをかみ殺しながら昼前の大通りを歩いていると、なんとものどかだとしみじみ感じるときがある。
 まるで里の人々全員が善人ばかりのように思える。

「カカシさん、任務に行かれるんですか?」

 朝飯ができてるから座って、といわれた。ざらついた顔をさっぱりとしてから、台所の椅子に座りながら訊いてみる。
 カカシが朝方に起きているなら、そういう理由だろうと思ったのだが、カカシは苦笑する。

「俺も朝にはちゃんと起きてますよ」
「じゃあたまにずっと寝てるのは疲れてるからですね」
「まあそうかな。イルカさんが居るから寝てて良いって気分になるんだよね」

 はい、とイルカの目の前に油揚げと豆腐の味噌汁が置かれる。良い匂いだ。

「俺、飯よそいます」
「うん、お願い」

 いつしか二つあることが見慣れたものとなった飯碗を、棚からだす。
 味噌汁の木椀も、いまでは二つ。玉子焼きがおかれた皿はひとつだけれど、小皿はふたつ。

「イルカさん、湯のみ、取ってくれる?」
「はい」

 湯のみも、いままで適当に増えてきたものばかりだったなかに、カカシのすこし出来の良い湯のみが増え、カップも増えた。生活していると感じる、というには大げさだろうが、いぜんとは違う食器棚だと感じるたびに、こそばゆいものだ。
 時の流れは目にみえることはないが、目の前のものは時間によって変わっていく。

「そういえば卵、これで無くなりました、ごめんね」
「いえ、また買ってきます」
「うん」

 これ、というのは玉子焼きを指していて、ごめんね、というのはカカシの遠慮。
 思い出すのは、いつのまにか冷蔵庫などで増えている食材のこと。
 食卓につきながらイルカはカカシをちらりと見る。
 きっと、ごめんねと言葉に出す以上の気遣いをしているに違いないこの男は、何を得ているのだろうとイルカは不思議になる。  もう幾度、考えたかもわからないし、これという答えが出たためしがない。
 けれど考えてしまう。
 目に見える気遣いと口に出せないほどの気遣いをしておきながら、どうしてイルカと共に居るのだろうか。
 その価値があるのか、と自問してしまう。
 イルカはその問いに、不明か、もしくは曖昧な否定の結論しかだせないでいる。
 だからこそ、いざ転居を考えるにあたって、足踏みもするのだ。
 カカシのくれた言葉を量るわけではないが…。

「じゃあ、いただきます」
「いただきます」

 茶を入れて飯をよそい、それから揃って手を合わせた。
 味噌汁を一口啜り、玉子焼きを一口食べてみた。出汁のきいた味付けで卵の旨味が舌の上でほろりとほどける。

「美味いです、俺が作るよりずっと」
「そう」

 素っ気ないように聞こえる返答だったが、カカシは目を細めて嬉しげだった。  



 季節がひとつ過ぎ、夏も本番かというころにはイルカも嫌な出来事を、上手く記憶の引き出しにしまいこむことができるようになっていた。
 ときおり、ぼんやりとしていると思い出しそうになるが、眉を顰めるていどで済むようになった。それまでは、周囲にどうしたのだろうと伺われるほどに険しい表情になっていたのを取り繕う必要があったことをおもえば、やはり上手くなったのだといえる。
 すこしだけ心配していたことに、カカシの耳に入りはしないかということがあったが、どうやら里の事務方もその他の関係者も、そんなつまらない不祥事など噂話にもしないようで、カカシから何か訊かれるということはなかった。
 もちろんそれは、イルカの耳にも何も入ってこない、ということでもあるわけで、イルカはしばらくたったころに情報をくれた男を訪ねたことがあった。男は受付の奥に居たが、わざわざカウンターまで出てきてくれ、近況を伝えあった。
 ただ、男のほうもその後の進展はよく知らないのだという。
 当分のあいだ里には戻れない場所に居る、程度なのだそうだ。
 他の仕事に忙殺されているということもあるが、と眉をさげた男に、イルカは礼を言った。
 邪魔をしたと分かれたあとに、アカデミーの教員室へと向かいながら、じんわりと安堵が滲んだ。
 ふう、と苦笑まじりのため息をつくと、急に肩が重くなった。
 あの図書室での一件以来、以前にくらべてはるかに背後に気を配り、迂闊に行動しないようにとしていた。それも人に気づかれないようにと、普段どおりを下手ながら装っていたつもりだったから、やはり気疲れしていたのだろう。
 その気疲れが、情報をくれた男でさえ知らないという事の顛末に、気を張り詰めすぎたかという自嘲も手伝って、季節がひとつ過ぎるころになって実感を伴ってどっときた。
 やれやれと肩を自分の掌でほぐしつつ、よかったと呟いた。
 あれは春の終わり。


2006.12.22