愛について2








 それからはとりたてて言うほどのことでもなかった。
 査問部へと親告書類を提出し、人目につかぬように召集されて口上を述べ、切ったワイヤーを物的証拠として提出した。
 イルカがしたのはそれで全てで、あとはイルカの知らぬところで事が済んだらしい。
 らしい、ということは、数日がたってもまだ、イルカの身が里のなかに居て、無事であるということで、証明されていた。イルカの望むように、罪人を集め強制労働を強いる監獄に入っているのか、または里に戻りようも無い場所へ配置されたのかは分からなかったが、一週間以上を過ぎて顔をみないということは、一抹の不安を残しながらも、イルカに安堵を与えた。


 さて、どうしようか。
 アカデミーからの帰り、イルカは大通りからすこし離れた不動産紹介店の前にいた。みているのは当然のように賃貸の手ごろな物件のはり紙。シャッターの下りることのない窓ガラス越しに、イルカは熱心に文字を追う。
 問題は値段と場所。それから間取り。
 あくまで独身用につくられた住居にするか、もうひとり増えてもおかしくないだろう部屋数に余裕のある住居にするか。
 住む場所などそうそう変えるわけでもなし、年中懐が暖かくて困っているというわけでもないイルカには、余人がみれば独身用が身の丈にあっているというだろう。きっと、いまから店のなかにはいって、物慣れたふうの店主に「部屋を探している」といえば、なにもいわずに独身用の空き部屋をすすめてくるだろうと想像できるほどに、当たり前のことだ。
 イルカとしても、心のなかで天秤がふらついている。
 後ろ向きに考えて、独りになっても耐えられる広さの部屋にするか。
 崖から飛び降りる気持ちで、カカシに現状を説明し、一緒に部屋を探すか。

「でも、無理だろ」

 自分で考えたとたんに否定した。
 だって、無理だ。
 カカシに説明することじたいがまず高いハードルであるのに、さらに一緒に部屋を探すなどと、夢をみすぎだ。カカシに期待しすぎている。
 カカシがイルカの意思を汲んで、ともに行動してくれる、などとおもえるような確約された関係ではないのだから、自分たちは。
 相手に手を差しだすには、乗り越えなければならない不透明な障害が多すぎる。
 はあ、とため息がもれた。
 今の状況から動けないことをあらためて確認するのは、疲れるものだ。
 いつまでも掲示をにらんでいるわけにもいかない、とイルカが踵を返したとき、横手から声がかかった。顔をむけるといつもの楊枝をくわえた立ち姿。

「おはようございます、ゲンマさん」
「よお、おはようさん。どうしたんだ、難しい顔して。湯気立ってたぜ」
「まさか」

 おもわず笑いがもれた。

「ずいぶんたくさんあるものだと眺めていただけですよ」
「そうかい。穴が開くほど見てるもんだとおもったがな」

 まあ確かに土筆の数ほどもあるわなあと、ゲンマが店の掲示をしげしげと眺めた。

「なんだ、今までの住み家じゃさすがに手狭か」

 たいして詮索する口調でもなく独りごちるような言葉は、しかしイルカに向けての質問だった。イルカは答えるものかどうか困って、控えめに苦笑した。さすが、という何気ない言葉に、カカシとの仲がもはや当たり前だという意味を感じる。けれど、実際は違う。
 ゲンマはカカシとの仲を知っているし、悪意をもって接してくるというわけでもない。むしろきわめて好意的だといえるし、信頼できる男だ。
 けれどカカシとの微妙な問題は言いにくい。
 さらに、大家から退去願いにちかい要請をうけているとも言いにくい。

「まあ…その、長いあいだ住んでますのでそろそろ引っ越そうかと」
「イルカには放浪癖があったのか」
「違いますよ。放浪癖なんて」
「引越しにゃ金もかかるし、手続きも不便さなあ」
「…それはそうですけど」
「それをおしてまで引越しか、なかなか気張るねえ」

 すくなからずムッとしてイルカは隣にたつゲンマを見た。

「まだそうと決めたわけではないんです、ですから」
「よけいな詮索だったかい」
「…いえ、その」

 はっきりと言いにくいことを言われては、はいそうですとも頷けない。
 ゲンマは口元をおかしげにちょっと上げていて、イルカが不快気にしているようすを楽しんでいるようにみえ、それがさらに頷きにくくする。
 ゲンマはすいと顎を流して、イルカの歩を促した。
 通りへと歩き始める。

「まあ野次馬根性も入ってるからなあ」
「は?」
「お前さんとカカシさんのことだよ」

 横に並ぶと、ゲンマは楽しそうに目を細めていた。
 野次馬根性などと意地悪い言葉から、およそ反対にあるような、それは好意的な笑みで、イルカは肩の力が抜ける。
 言葉の裏を読め、といっているようにも思えた。

「お前さんにゃ不本意だろうが、俺たちは、や、俺はお前さんとカカシさんが気になってるわけだ」
「……」
「面白おかしく話のネタにしようってわけじゃねえが、なにかと耳に入ってくるもんでな」

 どういった話がゲンマの耳に入っているのかは分からないが、イルカはため息を堪えるために唇を合わせた。

「忍びたるもの裏の裏を読め、ってのはアカデミーでも教えてるはずだな」
「…ええ」
「けど裏の裏ってのは表じゃねえかって考えるやつもいる」
「…」
「そのまた裏を読めってことかと勘繰るやつもいるわな。そういう面倒くさいのをひっくるめて、俺らでどうにかなるもんならと、まあ…年寄りの老婆心、ってやつかねえ」

 楊枝をゆらして苦笑するゲンマに、イルカもまた苦い笑いを漏らした。年寄り、というほどの年ではないことは知っている。
 考えてみれば、以前カカシからきいたようにカカシの周囲から「気にされている」ことは知っていたし、承知しておくべきことだった。
 現在のイルカにとって、周囲の目が快であろうが不快であろうが、承知しておくべきことは、カカシを含めてイルカへ手を差し伸べてくれる人間が、居るということ。そして、それを頼るかどうかは、イルカの判断の内にあるだろうということだ。
 そして五歩を数えたところで、口を開いた。

「ゲンマさんをはじめ色んな方々にはお世話になっていますし、ありがたいとおもっています。でも、これは俺の問題ですので、カカシさんとは関係がありません」

 正確には、未だ、という注意書きがついていそうな具合だったが、イルカはあえて言わずに、ゲンマをしっかりと見た。視線に、周りに広めて欲しくないという意味をこめたつもりで、周りのなかにはもちろん、カカシも入っている。
 自力で堪えられる問題は、自分ひとりで解決したい。
 それがカカシに関わっていたとしても。
 ゲンマは鈍くない。
 イルカもまた裏に込めた、言外の意味を汲み取ってくれるだろうとおもった。
 そしてそれは裏切られることはなく、ゲンマは苦笑して軽く肩を竦めてみせた。

「まあお前さんがそういうならそうなんだろうな」
「すいません」
「いいさ、悪かったな」
「いいえ…俺のほうこそ色々とすいません。ありがとうございます」

 いろいろと、というのがイルカ自身数え上げられるものではなく、たんにゲンマがイルカの預かりしらない部分でなにか事情を了解していそうであると感じて、言った言葉だった。
 ゲンマは、可笑しそうに楊枝を揺らして、それから言った。

「まあ仲良きことは美しい、てな」
「は?」
「がんばんな、ってことだよ」

 いくつか年上のゲンマは、最後にそういって、年輩者らしくアドバイスらしきものを残してどこかへ行ってしまった。




2006.12.19