きっと、遠い光
正直、驚いた。
自分が旨いと感じたからだ。
煮込んである野菜はくたくたで、汁は少なく、味は濃く、その味もまた、強烈に食欲を刺激するものの塩分過多のうえに調味料の味が勝ちすぎていた。
ラーメンが嫌いというわけではないが、これは相当の好きものでないと歓迎できない、最低ラインのラーメンだと思った。
けれど、旨かった。
舌は激しく拒否反応を起こしているのに、野菜は柔らかく、汁は温かく、濃い味は疲れた身体に沁むようにおもえた。
まだ口をつけていないから、と言い訳しながらイルカが分けてくれた、欠けた丼の中身。
丼もこの古ぼけた宿直室にひとつしかない丼で、ちょうどいいような古ぼけ方をしていて、ラーメンにもちょうどいい大きさだった。
野菜は春キャベツをいれてあるのだろう、透きとおる緑色を食むと柔らかい。芯まで入れてあるのだが、よく煮てあるからかそれまでも柔らかい。
夢中で食べた。
向かいの席でイルカが同じように、半分になったラーメンを手鍋から啜っていると知りつつも、無言で食いつづけるほど夢中だった。
自分がそんなに腹が減っていたのかと驚くほど、あっというまに食べてしまい、けれど疲れて尻も声も上げられずにいると、イルカがさっさとお代わりを作ってくれた。
インスタントラーメンというのは、すぐにできるからインスタントラーメンというのだったなと、コンロに向かうイルカの背中をみながら、ぼんやりしていた。
できあがったラーメンは手鍋のなかでふわりと白い湯気と匂いを発し、イルカはまた麺をすするカカシを見ていたようだった。
その繰り返しで、五袋。
ちょっと食べ過ぎた。
翌々日まで胃がもたれたほどだ。
けれど、驚くほど旨いと感じたラーメンを見つけたくて、カカシは塩味ラーメンを見ては買っていった。
始めに買ったメーカーのものは外れで、なぜか一口で食欲を無くすほど美味しくなかった。
ふたつめのは匂いで食べるのを止めた。
みっつめにして当たりにたどり着いたが、どうしたことが三口でもういいと箸を置いた。覚えている味のとおりなのに、旨いと感じなかった。
やはりあれは『空腹は最大の調味料』という何某かの言葉が正しいと証明されたにすぎなかったのだろうか。
がっかりしながらも、カカシは五袋入りを買って、にぎり飯も作った。
ラーメンだけが晩飯、というのはやはり寂しいだろうとおもったからだったが、作りながらやはりお節介かもしれないと、何度も手が止まりそうになった。
だがしかし、と自分で自分を宥めて、宿直室を訪ねた二回目。
またラーメンを食べることになった。
本当ならこんな夜中に、そんな塩分の高いものを食べるなど、よほどでなければ辞退するところだったが、いまのカカシには謎がある。
どうしてあれほど旨かったのか、だ。
手鍋を見つめるイルカは真剣な顔つきのようで、ちゃぶ台についているカカシからは背中しかみえないが、背中はぴんと伸ばされて真剣な気持ちが伝わってくる。
ラーメンひとつにそんなにも、と可笑しくなるほどだ。
カカシはしばらくイルカの背中から視線を外して、部屋のなかを眺める。
前回は眺める余裕もなかったが、いまこうして眺めていると、この部屋がそうとう古ぼけているとわかる。
アカデミーの一番古い部屋よりも古いかもしれない。
なにせ、よくみれば部屋の隅の畳は、古くなりすぎたのか表面が毛羽立ち、高じて手がつけられなくなったのだろう、一部が硬いビニールが被せられてピンでとめてある。
応急処置だったのだろうが、ビニールの端が黒ずんでいるのをみると、応急がさて、いったい何年前のことだったのだろうと推理したくなる。
これという実質の管理者が居ないうえに、利用者が変わっていく部屋だからだろう、手入れも中途半端にされている。
その部屋で、イルカのラーメンを食べること。
考えてみれば奇妙だ。
イルカと出会ったのは一年か二年ほど前。
適度に世間話をし、ときどきで意見の食い違いをみせ、それなりの距離をもってカカシの対人関係図のなかに居た。
カカシは自覚しているが、人付き合いは巧くない。
人並みにできているとは思うが、一歩踏み込んだ付き合いは難しい。
四捨五入すれば三十路になるほどに年を重ねれば、人付き合いというのは自分だけでなく、自分から伸びた先の人や立場にまで影響するものだと気づく。
その影響を無視すれば、下手をすれば自分が痛く、上手くしても誰かが痛いおもいをする。
煩わしいものだ。
それでいて、捨てきれないものだ。
どこまでも追ってくる太陽や月のように、暖かくもあれば、忌まわしいと感じても、どこにでも着いてくる。どこまでも。
追い払うことは難しく、完全に追い払うには、光も風もない場所にいくほかない。
誰も居ない、闇の中に。
それは恐ろしく深い闇だろう。
ならば仲良く、腰をすえて向かい合えればいいのだが、カカシはこの相手と仲良く手を携えることができている人間をみたことが、あまりない。
自分も含めて。
カカシはその原因を、やはり自分の人間関係にみる。
上手くない自分であるから、上手くない人が多く、また見つけることができないのではないだろうか、と。
世には多くの物事や見方、人が居て、思惑が渦巻いているのであって、ときには上手く手を取り合っている太陽と人も居るだろう。
居てくれないと困る、とさえおもう。
太陽が東に居れば東に、西に向けば西に、素直に顔を動かす花のような人が。
誰からも、まあ素敵ねと思われる存在が。
ときには素直さが愚直だという風が吹くかもしれないが、素直さでもって真っ当に生きられるのであれば、それはどんなにか素晴らしい生き様だろうか。
自分には真似のできない人生。
太陽はどんなにか暖かいだろう。
繋ぎあう手は、どういう言葉を語るだろう。
その指先はいったい、どこまで届くのだろうか。
「カカシ先生!」
は、と我に返った。
真剣な様子のイルカの背中をみながら、いつしか自分もぼんやりと考えこんでいたようだった。
「さ、お待たせしました、丼、出してくださいね!」
振り返ったイルカの顔が、得意満面にみえて、カカシは目を瞬いた。
そんなに得意満面になれるほど上手くラーメンができたのだろうかとおもいながら腰をあげ、流しの棚上に伏せておいてある丼を取り出した。
布が被せてあったものの、流しで洗ってからイルカの手元に置いた。
気を散じていたあいだに、手鍋からは良い匂いが漂ってきていた。
そのとたん、意識もしていなかったのに、小腹が空いていたことに気づいた。
夕飯をとってから時間もたっているから可笑しくはない。
「腹、減りました」
ラーメンを半分にうつしているイルカの手をみながら、ついぽろりと、心中がこぼれた。
イルカが「俺もです」というから、安心する。
「イルカ先生はいつもこの時間に食べてるんですか?」
「まあだいたいは。食い終わってから二回目の見回りに行きます」
「交代までに何回行くんですか?」
「人によりますけどね、平均1時間に1回ほどじゃないですか?」
イルカが可笑しそうにカカシをみた。
「他にも防犯対策はしていますから、抜き打ちで真夜中の防犯訓練とか勘弁してくださいね」
カカシが夜中のアカデミーに忍び込む算段でもしているのかと、からかいを含んだ言い様で、カカシはすこし焦って首を振った。
「そんなこと、しませんよ」
「お願いしますね」
「はあ」
生返事をしたが、よく考えるとカカシも真夜中の不法侵入者の一人に違いない。
防犯対策は大丈夫なのかと改めて考えたが、カカシの件を含めての言だろうからと自分を納得させた。
それよりもカカシの視線はラーメンに釘付けだ。
前回より少し多めのキャベツや人参、ゆで卵が入っただけの煮ラーメンなのだが、匂いと湯気が腹を刺激する。
どうしてだろう、自分で作ったときにはさほど美味しそうだとも思わなかったのに、イルカが作ったラーメンはとても美味そうにみえる。
「おかしいなあ」
またぽろりとこぼれた。
鍋と丼をちゃぶ台においていたイルカが、なにがですかと訊ねる。
「いや…その、イルカ先生が作るラーメンは美味そうだなとおもって」
「そうですか? そうかなあ、普通でしょう」
イルカは首をひねっている。
「俺が作ったのより、美味そうですよ」
「カカシ先生、腹が減ってるからじゃないでしょうか」
「それだけじゃなくて」
座ってください、といわれたからカカシは前と同じ場所に座った。
イルカの向かい側だ。
小さいちゃぶ台だから必然だろうが、イルカの顔が真正面にあって、けっこう近い。
イルカが答えを探している。
小首をかしげて、困った人だなあという表情にもみえる顔が、そうですねえといった。
「好きこそものの上手なれ、っていいますからね」
いったあとで恥ずかしいように鼻傷を掻いている。
カカシは目の前におかれた丼に視線を落とした。
ふぅわりと湯気の立つ丼には、綺麗なキャベツの緑に人参の橙。
ゆで卵の白は一つまるまる入っている。
麺はつやつやとしていて、汁は少なめ。
匂いは嗅覚をくすぐり、申し分ない。
前回は、割られた卵が入っていて、緑色と橙色は少なかった。
イルカが始め驚いたように、来るかどうかわからないカカシのために、ゆで卵を二つ用意して野菜も多めに用意してくれたのだろう。
来るかどうか分からない。
そのとおりだ。
なにも真夜中のアカデミーの宿直室に、インスタントラーメンを食いに来る忍びは居ない。
カカシは前回の礼もあったから訊ねたが、ラーメンを今度も食うかどうかは分からなかっただろう。
その予想をイルカがしなかったとは思えない。
握り飯をつくるときにカカシが考えたように、イルカも同じことを考えたはずだ。
いただきますと声を合わせて、ラーメンを割り箸で啜る。
やはり美味かった。
「美味いです」
やはり心中がこぼれるように呟くと、近くのイルカの顔が、嬉しげにほころんだ。
よかった、と言う。
塩分の高いインスタント食品が喉を通り、腹をじんわりと暖めた。美味いと感じる。
イルカが竹包みをあけて、三つのうち一つをとり上げた。
それを二つにわけ、片方をカカシへと差し出す。
カカシはそれを受け取って、なにも考えずに二口ほどで食べてから、あれ?とおもった。
イルカをみれば同じようにもう食べきっていて、二つ目の半分をまた差し出された。
カカシもまた受け取って、食べる。
裏のない仕草に、まあいいかと疑問は溶けた。
三つ目もおそらく半分にわけるのだろう。
一つと半分、でなく三つを半分づつにすることが、カカシを警戒してのことだとしても、自分から言い出したことであるし気を害したりはしないが、イルカの仕草をみていると、そんな考えがあるわけでなく、たんに半分にしているだけにみえる。
好きこそ、といったイルカの言葉が正しいのかは分からないが、ふと得心する。
自分の作るラーメンが美味くないのは、ラーメンを好きでないからだ。
人付き合いが上手くないのは、人を好きでないからだ。
嫌いとまではいかなくても、人は人、己は己とする線引きが、手をとりあうはずの境界線に、小高い垣根つくってしまっている。
手をさし伸ばすにも、さし伸ばされるにも、不便な垣根を。
「カカシ先生、みっつめ」
いわれて目を上げると、イルカが三つ目の半分を差し出していた。
カカシの手にはまだ二つ目の半分が残っていて、それを口に押し込んでから受け取った。
握ってからそう時間が経っていないからか、ほのかに暖かく、受け取ったときに触れたイルカの指先も同じように暖かかった。
「カカシ先生の握り飯、旨いですね」
「そうですか?」
「塩加減がちょうどいいし、柔らかいし。中の具が甘いのも良い選択ですよね。俺がつくると、固くなるんですよ」
「力入れすぎなんですね」
「加減が難しいんですよね」
言って半分の握り飯を頬張る口元をみて、カカシも自分の握り飯を思い出す。
頬張ると、さっきまでなんとも思わなかった飯粒が、旨くなったような気がした。
言われてみれば、塩辛いラーメンと、甘いおかかはちょうどよかったかもしれない。
塩加減も控えめにする癖があるから、ちょうどよかった。
言われて気づくことで、こうも感じ方が変わる。
自分の単純さを発見すると同時に、ほのかな喜びも感じる。
イルカとほんの小さな“世界”を共有できている、喜び。
自分が感じるものと、イルカが感じるものが近づくことは、人と手を取り合う温もりと似ている。
「美味い、です」
自分で確認するように呟くと、イルカが、カカシ先生ってあんがい粗食舌なんですねえ、と感心した。
カカシは、自分でも知りませんでした、と笑った。
2006.5.20