愛について
次の朝、イルカはカカシよりも早く目を開き、ベッドから出た。
イルカが起きたことはカカシも意識のうちにあるのだろうが、カカシが起きだす様子はない。
今日はゆっくりできるのだろう。
イルカはカカシのぶんの朝飯を置いて家をでる。
出る直前に、いってきますと声をかけると、布団のあいだから、白くみえる手のひらがひらひらと泳いで、いってらっしゃい、とカカシの声が聞こえた。
アカデミーの授業も、副担任として指導するようになってからいくぶんたち慣れてきた。
イルカの真面目な気性が教職に向いていると褒められることもあり、こそばゆいながらも、イルカはアカデミーの仕事を気に入っていた。このぶんでいくなら、夏まえには実習行事の指導と、指導書の作成も教えてもらえるだろう。
さきのことを思い浮かべながら、昼食を職員室でとっていたとき、声をかけられた。
おもに受付所の事務をしている顔見知りの忍びだった。
特別親しいわけではないが、歳がぐうぜん同じということもあって、任務報告書をだすときなどに雑談したことはある、そんな仲だ。
よお、と挨拶するから、イルカも弁当の箸をちょいとあげて挨拶する。
同僚は神妙な顔で、空いているイルカの隣の椅子をひいて、かってに座った。
「どうしたんだ? 俺になにか用か」
茶で米を流しこんでから訊くと、ようやく神妙な顔が口を開いた。
「えーっとさ、どう説明したらいいもんか分からんが、とりあえず、たぶんお前に軽い任務が行くとおもうんだよ」
「ふうん。それで?」
「まあとりあえずメシ、食ってくれよ。俺はかってに話すから」
いったいどうしたんだろう、と腑に落ちないながらもイルカは残りの飯を口に放り込んだ。
「詳しくは任務のときに分かると思うけどさ、そのときに気をつけるっつーか…気を引き締めていったほうがいーんじゃねーかなーとおもってアドバイスをお前にいわなきゃなーとこうやって来たんだけどよ」
「そら、ありがとうさん。で?」
「や、なんつーか、それだけなんだけどよ、はは、は」
苦しげな乾いた笑い。
横目でイルカは男の顔をみる。
奥歯にものの挟まったような言い方。こんな話し方をする性格ではなかったと記憶しているから、たしかになにかが挟まっているのだろうが、それが一体なんなのかはとりあえず分からない。
「それだけ、にしちゃどうしてわざわざ、受付につめてるお前が、アカデミーの俺を探してくるわけだ?」
「それはイルカは最近任務をはなれてアカデミーになじんでっから、ちょっと先どりして現場のことを思い出したほうがいいかとおもったわけだよ」
「ほー、ますます親切だな、お前。ためしに訊くがどんな任務だよ」
「たぶん、往復で二日かかるぐらいの、届け物の任務じゃないか、…と俺は思う」
「簡単そうだな、ランクは」
「おそらくCだ」
Cだ、という同僚の言葉で、さらに腑が落ちない話になった。
わざわざCランクの任務について忠告をもらうほど、まだ自分の腕はなまっていないと自負できる。もちろんこれからも、なまらせるつもりはない。
だが、そのイルカの意気込みを理解しないのかと同僚に角をたてるのは、どうも見当違いのようだとイルカは感じる。
忠告は忠告でも、イルカの腕にではなく、そのほかのことについて。
さらに問おうかとしたとき、同僚がふいに話の先を変えた。
「そういえばイルカ、お前はたけ上忍と…知り合いなのか?」
「…」
「べつにどうこうって話じゃないんだがちょっとな、気になってな」
うかつにも咄嗟に返事ができずにいれば、それになぜか焦ったらしい同僚があたふたと言い訳めいたことをいう。苦笑した。
「…いや、別に隠してるわけじゃねえし。ああ、俺とはたけ上忍は知り合いだよ。昔、任務で一緒になってな。はたけ上忍はとても良い方だし面倒見がいいから、俺なんかでも良くしてくれてるんだ。一緒にメシ食ったり話したり」
いうと、男は目に見えて焦ったようすの肩をホッと落とした。
「そうか、なんだ、昨日イルカのこと呼びに来たって聞いたからさ」
「一緒にメシ食べたんだよ」
「そうか、そうだな。はたけ上忍はそういえばそんな人じゃなかったな」
ひっかかる言葉にイルカが眉をひそめて訊こうとしたとき、同僚が勢いよく席をたった。
「さてと、俺はそろそろ受付に戻るわ」
いいながらイルカの顔に流された視線で、言外の促しを悟る。イルカもまた半分ほど残した弁当を閉じ、椅子をたった。
「あー、俺も食後のコーヒー飲みに行こうかな」
「教職って優雅でいいよなー。イルカ、俺にも奢ってくれよ」
「教師にタカるなよ、こいつ」
言い合いながら職員室をでた。
廊下をゆきすぎる子どもたちの声や物音が、昼のアカデミーの廊下の遠くで響いている。春の日差しが窓から廊下にさしこみ、柔らかい薄墨色の影がおちている。
ひっそりとした声で訊いた。
「はっきり言えよ、だれに聞かれちゃマズい話なんだよ」
「名前はちょっといえねえんだ。けど、ここ一週間ほどまえに里に帰ってきた特別上忍だ。見りゃわかる。研いでねぇ赤錆だらけのクナイみたいな目をしてるやつだ」
「そりゃ酷いな」
忍びにとって、武器の手入れは命を守ることと同義だ。
それを錆びさせることはまったく褒められたことではない。むしろ軽蔑の対象に使う表現といってもいいだろう。
イルカは笑って軽口をたたいたが、服のしたでは、足元からの悪寒と気持ち悪さで肌が粟だっていた。
昨日の出来事が一直線にその特別上忍の仕業だと決め付けたくなり、いけないと思考に歯止めをかける。そうと決まったわけではない。
「で? なまくら特別上忍がどうして俺に関係があるんだ」
「…あー、これから俺がいうことは、けっして俺が言ったんじゃないってことを分かってくれるか?」
「? ああ、そういうつもりで聞く」
頷いたイルカに、真剣な表情で同僚は語った。
つい一週間ほど前、長期の外地任務から帰ってきたというその特別上忍は、あるときやけにニヤニヤしながら、受付で隙をつぶしていたそうだ。
昔馴染みだろう中忍や下忍を数人とりまきにして、なにを話しているかと思えば、イルカのことだったらしい。
それがたんに噂話であれば、それまでのことと聞き流すのが受付の常だが、漏れ聞こえる…いや、わざと自慢げに聞こえるように話された内容は、聞き流せるようなものではなかった。イルカを手篭めにし、囲ってやろう、という馬鹿げた話だった。
「…はぁ!?」
「いや、だからさ、俺がいったんじゃないって」
「そりゃ分かってるよ、けどあんまりアホすぎるだろ、そのなまくら特上!」
「シーッ、シーッ!」
人差し指をたてて、声の大きくなったイルカを必死になだめ、同僚は話を続けた。
手篭めにする、といっても方法はいろいろあるものだが、そのなかでも最悪の「強姦」というやり方をとくに好む男らしく、しきりに「無理やり突っ込んでやる」といっては笑っていたらしい。その様子が冗談で済みそうになかったことと、もうひとつ。ただイルカと雑談程度の知り合いであった同僚を動かしたもの。
それが、数日後に依頼されるだろう、イルカへの任務だった。
「べつにイルカでなくても、下忍でも良いって内容だったんだぜ? それがイルカ指名でよ、宿の場所まで指定だ。それだけでもちょっと珍しいってのに、依頼人はどうも、そのなまくらだ。おかしいだろ。事務方でもおかしい、って思うのは当然だ。だから今、上にこの依頼を通していいもんか訊いてもらってるんだが、どうも通りそうだ。明日か、明後日か…」
難しい顔の同僚にイルカは、取り越し苦労だろう、と笑うことができなかった。
話すうちについた自動販売機のまえで、難しい顔をした二人。小銭をさぐる指も、気持ちに比例して重い気さえする。
「なんか、俺はイルカのこと知ってるしさ、余計なお世話だろうと思ったんだが、一言ぐらいは言ってもバチあたんねーだろうと思ってよ」
「…あぁ、悪い。助かったよ」
「里のなかじゃそう手出しはできないだろうけど、外じゃわからんからな。気をつけろよ」
そういって、一仕事終えたような顔で笑う同僚に、イルカも力なく微笑み返す。昨日のことをまざまざと思い出して、肩が重くなった。
その様子に、おや、と眉を上げる同僚。
カカシの前では意地でも隠すが、隠す必要がない場面であれば、イルカは正直そのものだ。
「なんだよ、もしかして」
「心当たりはあるような、無いような、ってやつだ。でもお前に話をきいたら、用心する必要がありそうだって分かった。さんきゅ」
「…」
イルカは同僚の肩をいちど大きく叩いて、安心させるように笑った。それでも心配げな同僚の顔は晴れなかったが、心配するなとなだめる。
小銭をいれて、ボタンを押した。派手な音をたてて、缶が落ちる。
これでも、いくつもの任務をこなしてきた忍びなのだ。いざというときに、自分の身を守れなくてどうする。
そうわざと胸をはり、イルカは買ったコーヒーを一本、同僚へと渡した。
安い情報量で悪いな、と笑いながら。
2005.09.12