愛について
翌日、おもっていたよりもずっと早く、イルカに任務が下された。
昼にもならない、出勤してからすぐのことだった。受付所によばれ、任務書を確認した。
内容はきいていたとおりの荷運び。
木の葉でしか調合されないという膏薬を宿屋の主人に届けてくれとの依頼だった。
依頼主の名前は、きいていた上忍の名ではなく、見知らぬもの。
おそらく宿屋の主人だろう。
Cランクとなっているのは、街道沿いに出没する追剥ぎやはぐれ忍にであう可能性があるため、としているが、ごくありふれた依頼におもえる。
ただ不審とおもえるのは、届けたあとは宿を用意しているので一泊していってほしい、との内容だ。
だがそれも、依頼人である主人の話し相手だ、という説明と、一泊分の拘束時間として報酬が上乗せされていることで、異議は唱えられないだろう。
もらっていた忠告どおり、昨夜のうちに出立の準備をしておいてよかった、とイルカは肩をすくめて、受付所を出た。
里をでるまえに、自宅へと荷物をとりに戻る。
カカシは任務で昨夜からいなかったが、念のため今日は戻らないと伝言をのこしたかった。カカシからきいていたのは、しばらく帰ってこないとだけであったから、帰ってくる日ははっきりしない。明日にも戻ってくるとは思えないが、念のため、だ。
アパートの階段をのぼろうとしたとき、呼び止められた。
足をとめて振り返ったさきには、よく知ったアパートの大家の顔。
イルカはとりあえず、笑みのようなものを浮かべる。
もしかして、またあのことを言われるのか、と身構える。
「うみのさん、ちょっと悪いんだけどねぇ」
「大家さん、こんにちは。どうも、良いお天気ですね」
「そうねえ。それでねぇ」
「その、俺、これから任務でして、ちょっと急いでるんですが…」
最初から逃げ腰で、イルカはふたたび階段を上ろうとしたところを、ふくよかな頬に人のよさ
がにじみ出ている大家婦人は「まあすぐ済むわよ」と引き止める。
「あの話、考えてくれたかしら」
「ええと…その…」
曖昧に微笑み、言葉を濁す。
あの話、とは「引越し」だった。
大家から初めてその話がでたのは、冬の半ばだった。イルカの両隣りの部屋から苦情がでているらしい。どういう苦情かは大家も口を濁したが、つづけて「角部屋に部屋を移ってくれないかと思ってねぇ」といわれてうすうす気づいた。
ようは、うるさいのだろう。
声は殺しているつもりだが、完全には無理だ。途中からはイルカも声をあげてカカシにしがみついてしまうこともある。時間も場所もなるべくわきまえて、たまには忍びの技も使って隣近所には気をつかっていたが、すべて完璧にできたというわけではない。
さすがにはっきりとはそうといわれなかったものの、顔から火がでそうとはあのことだ。
恥ずかしさに居た堪れない。
両隣から苦情がくるほど、という事実に、大家からそれを告げられるという現実が追い討ちをかけてくる。
だから、大家としては「あの話」というのは角部屋へ移ってくれるか、という話なのだが、イルカにしてみれば、恥ずかしさがあって、どうせ引越しするのならもっと防音のきいた部屋にでも引越ししたいところだった。
ただ、それには費用も手間もかかり、またカカシにも引越しの話をしなければいけないので、二の足どころか、一歩も進めないのがいまのイルカの現状なのだが。
「まだちょっと考え中で…」
「まあうみのさんは良い店子さんだから、私としても苦情さえ来てなきゃこんなこと、いいたくないのよ? けどねぇ…」
「大家さん、すいません、ちょっと任務で急いでまして、これで」
バッと頭をさげて、そそくさと階段を上って部屋にかけこんだ。
後ろから大家の引き止める声が聞こえた気がしたが、聞こえないふり。
イルカも物件を探してはため息をついていて、努力をしていないわけではないのだが、いかんせん、引越しというのは一人の問題のようで、イルカの場合二人の問題のようでいて、そうでなく…。
はあ、とため息がでた。
「カカシさんに、話さないとな…」
ため息を一つつくと、幸せがひとつ逃げていくといったのは誰だっただろうか。いまはそんな他愛無い言葉も、真実味がある気がした。
昨夜のうちにそろえていた薬剤と巻物を、念入りにチェックして、不審におもわれないようにベストになかに隠す。
下調べをしておいた、使えそうな術の暗記もぬかりはない。
せっかく同僚の忠告もあるのだから、素直に従うつもりだった。
手抜かりの無いように、どんな場面になっても逃げることを最優先に。
相手が同里の人間で、しかも忍びであるだけに、穏便に逃げるにしても、万が一、戦うにしても容易くないだろうと想像するが、準備をしておくにこしたことはない。
できるかぎりの装備をして受付をすませ、イルカは昼ごろに里の大門をでた。
気温はまだそんなに高くはないものの、日差しはもう春めいて緑も若々しい。任務内容が穏やかなものならば、気持ちも晴れ晴れとするだろうに、とおもわせる日和だ。
Cランク要素である追剥ぎなどの無頼者もでそうにない、見晴らしの良い街道。
それを夕刻までゆっくりと歩き、イルカは目的の宿へと到着した。
宿の主人へ依頼の膏薬をわたし、しばらくの話をしたあと、主人は宿の風呂と夕食をすすめてきた。
まだ日が沈むか沈まないかのころあい。
夕食にはまだ早く、まるでそそくさと手順を進ませたいような主人の表情を観察すれば、額にうっすらと脂汗をかいていた。イルカはひっそりとため息をついて、座布団からたちあがった。忍び同士のつまらないいざこざに、一般人を巻き込んだ忍びが、己の里の上忍であることに、歯をかみしめていもため息がでるというものだった。
飯をあとにしてもらい、イルカは風呂へと案内してもらった。
上等とまではいかないが、小奇麗な大浴場と露天風呂。
もけものだったのが、脱衣所のわきに温泉の証明板とナンバリングの表示。効能がかいてあるおおきな板をみつけ、イルカはとりあえず嫌なことをわすれて目を輝かせてしまった。
宿の主人からは「どうぞごゆっくり」と脂汗をかきながら云われていたので、お言葉どおり、ゆっくりしてやろう。
どんな上忍かはしらないが、尻に根が生えそうなぐらい、待たせてやろうか。
そんなことを考え、うってかわって機嫌が良くなって、イルカはさっさと忍び道具を見つからぬように隠すと、浴場へとむかったのだった。
「どうも、良いお湯でした」
晴れやかに微笑んで、イルカは対面にすわる宿の主人へと告げた。
けっきょく二時間はたっぷり湯を堪能して、風呂をあとにした。
けれど待たせてやろうとおもった上忍の姿はなく、ややこじんまりとした夕食の部屋にならんだ膳は三つ。
ひとつはイルカ、もうひとつは宿の主人、残りのひとつの席はまだ空いている。主人は、客分がいるが遅れているのだ、と説明したが、その顔の汗をみるかぎり、空いた席につくのはイルカの想像どおりになりそうだった。
風呂場にはイルカ用だといって、やけに大きな浴衣と半纏が用意されていたが、イルカはそれを辞退していつもの忍服をきている。道具も、入っているあいだ、見つからぬように隠していて正解だった。主人がこれでは、宿の従業員もいざというときにあてにできそうにない。
「夕食を頂きましたら、私の里の話でもいたしましょうか」
イルカがそう申し出れば、汗をかきつつ首を横にふる主人。あまりの分かりやすさに、意地悪く笑ってしまいそうだが、とりつくろって物分りよく頷く。
「そうですか、お話し相手、ということでしたので何か夜が更けるまで考えなければいけませんね」
正直にいえば、困らせてやろうという意地悪な気持ちが少しはあった。宿の主人は、それはそれは真っ赤になって、いえそんなお気遣いなくお疲れでしょうお早めにお休みいただいてよろしゅうございますよ、と汗をかいている。
それを眺めながら、この主人ももうすこし狸になれていれば、イルカに意地悪されることもなく、上忍からいらぬ頼みごとをされることもなかったのだろうにな、と考えたが、同情半分苛立ち半分、といったところだった。
膳と汗をうかせた主人を前にして待つことしばし。
汗粒をみるにも飽きてきたころに、ようやく忍びらしき気配が感じられた。
足音はなく、気配だけが廊下をすすんで、やがて部屋のまえでとまる。
意外にも「失礼しますよ」と礼にかなったような声がかかり、襖があいた。
そしてイルカのまえに座ったのは、年のころは30越えるか越えないか。茶色の髪に水色の目。目尻にくっきりと皺がより、唇は薄く、口元には妙な笑いじわがついていた。
予想通り、木の葉の額宛てに忍び服の男だった。
「どうも遅れてもうしわけなかったね」
いって舐めるような水色の視線と、その歪んだ笑みに深くなった笑いじわに、イルカの背筋が瞬間的に寒くなった。せっかく温泉で汗を流したというのに、背中一面に鳥肌が立っているかもしれない。同性である自分をみるには、やけに熱のこもった気色の悪い視線。
同僚のいった「さびたクナイ」という表現も間違いではないだろう。
人を傷つければ、傷が膿み爛れ、じわりと苦しめていく、その過程を楽しみ、また武器にするタイプの忍びだと感じた。
さぞかし、潜伏任務や諜報任務では成果をあげたろう。
とはいえ先入観も多分にあっただろうが、イルカはこの特別上忍を好きになれないと早々に判断した。仕事上ならともかく、忍びにも人の合う合わないはあるものだ。
「…いえ、こちらこそ先に座らせていただいています」
「たしか同じ里の、イルカ、だったかな」
白々しい、とイルカは思った。
「ええ、うみのイルカといいます。里から近いとはいえ偶然ですね」
「そうだな、素晴らしい偶然もあるものだな」
いって声をあげて笑った男はわざとらしく、さらに怖気がした。
夕膳もそのままに立ち去りたいのを堪え、三人そろったところでと主人が促して酒を注がれ、箸をとった。
ちょうどイルカの前に座る男は、斜めにかまえた視線でイルカをじっとみている。
こじんまりとした部屋で、膳のあいだの距離は歩にして三歩ほどあったが、強烈な不快感を味わうには充分だった。
さっさと食って、部屋にひっこんでしまおうと算段しかけたところへ、おもむろに宿の主人がたちあがった。そして用があるからお先に休ませていただきますよと汗をふきつつ言う。
イルカは、ああもう、と頭を抱えたくなった。
なんと分かりやすいうえに、お膳立てのいいことか。
「亭主、ご苦労だったな」
主人が下がるさいにかけた言葉も、イルカの癇にさわる。なにが「ご苦労」だ。金と手間と迷惑をかけて、自分のような色気も値打ちもないような男を手篭めにしたがる気持ちなど、これっぽちも分からないが、とにかく腹が立つ。
とはいえ、飯に罪はない。
へんな混ぜ物にだけ注意して、さっさとたいらげてしまおうと箸を動かしていると、それをじっとみつめてくる対面の男。不快感をさっぴいても、不躾だとイルカは判断して、にらみ返した。
「…なにか」
「いや、この宿屋の風呂には使ったか」
「さきほど」
「そうか。それなのに忍服とは、イルカはお堅いな」
イルカ、と呼び捨てにされる気色悪さをイルカは足のつま先から存分に味わった。奥歯で噛んでいた白米を、ゆっくりと噛み締めて、味わう。腹がどうであれ、栄養は栄養だ。
「…いえ、これも任務のうちですので」
「そうか。堅いところもまたいいもんだが、浴衣姿も捨てがたかったな」
「……」
気色悪ィ、と心で吐き捨てた。
さっきからニヤニヤと、色を含んだ目でイルカの全身を舐めるようにみながら、酒をちびちび呑んでいる。なにがそんなに面白いのやら、と毒づく。
どうせなら、直接的に閨の相手をしろといわれるほうがまだマシだ。返事は否で決まっているが、不快感を味わう時間が少なくてすむ。
直接的にいいもせず、外堀からうめるような遠まわしな言い方は、最初から答えがきまっているイルカにしてみれば、苛つくことこのうえない。
わざと大口をあけて飯を食み、菜をつまんで、膳をたいらげていく。ひっそりと部屋の隅にいた年嵩の仲居が、飯のかわりは、ときいてきたが断った。
酒の杯には手をつけず、茶をいれてもらい、一気に飲み干す。
膳に置けば、たん、と小気味良い音がした。
「…それでは不調法ながら、疲れましたので先に休ませていただきます。それでは」
失礼します、といいながら立とうとしたイルカの足首が、不意にひっぱられた。あやうく前倒れになりそうなところを、手をついてこらえる。みれば、いつのまにか宿部屋には入ってこようはずもない、蔓草がイルカの足首に絡み付いていた。
「な…」
「ああ、もうお前も下がっていいよ。食事は済んだようだから」
言葉を失ったイルカを見もせず、男は仲居へと勝手なことをいい、そしてゆっくりと杯を飲み干した。
部屋の行灯に照らされ、薄い唇の輪郭は消え、口の暗い影だけがしんなりと弧を描いた。
「まあそう急くこともないだろう。私にもうすこし付き合ってくれないか」
「…それはこの術を解いてからにいたしましょう。おふざけはお止めください」
「イルカは睨んだ顔もまた良いな」
ゾワッ、と全身の肌があわ立った。
見た目は、ただ細い蔓がからまっているだけであるのに、イルカの足はさきほどからまったく動いてくれない。正座をした状態から、足首を引き抜き立つことさえ出来ないのだ。
ニヤニヤとイルカをみる目が我慢ならず、実力行使とばかりに細い蔓をひっつかんだ。だが、おもいきり千切ろうとしたそれは、イルカの力にビクともしなかった。鋼鉄のワイヤーのように、伸びもせず千切れもしない。
「無駄だ。動こうとしないほうが良い」
くつくつと喉で笑う声が、イルカへと近づく。
「まあ、あまり従順すぎるのも面白くないが。適度に暴れてくれれば良い、適度にな」
はらわたが煮えくり返る、というのは本当にあるものだ。怒りで腹が熱くなって、とっさに声もでない。
木の葉の上忍が、中忍に合意でない肉体関係を迫ることや、上忍としてのモラルや品性に欠けることを、言葉を尽くして罵倒してやりたかったが、あまりに腹立たしく体が震えるほどだ。
歩み寄る男の顔が、愉しくて堪らない、というように歪んでいた。
「震えているな。怯えか? それとも期待か?」
「…ふざけるのもいい加減にしていただきましょう。一刻も早くこの下らない術をお解きください」
「さあさあ、そんなに睨みつけられると考えものだ。お前の手の届く範囲に入るなり痛い目にあわされそうだ」
「ご冗談を。あわされる様な仕打ちに心当たりがおありですか」
いらぬ言葉遊びなど苛つくばかりで、イルカはむしろ挑発的に、あと一歩の距離をのこして近寄ろうとしない男を見上げた。
怒りで唇がしなり、上目遣いに笑んだ。
来るなら来てみるがいい。
手の届く範囲に立った瞬間、天と地をひっくり返してやろう。
「いえこれは思い違いをしました。私のような中忍になにを警戒されているのか、おかしなことです」
「ふん、厭味は通じんよ」
男が言ったとたん、見上げていたイルカの目の前が、ぶわっと桜色に染まった。とっさのことで息を詰めたイルカの頬に、ガツン、と鈍い衝撃。殴られたのだ。
振りおろされた腕は、紗を裂いて一瞬、男の顔がみえた。
目が合う。
愉悦っている。
横殴りの衝撃で呼気が動き、肺に異物が進入した。
視野が狭まる。
蝋燭と行灯で薄暗かった室内が、さらに薄闇をおろした。
「そうやって身持ちが堅そうにしているが、じっさい、お前は淫乱だろうよ。見ればわかる」
「う…くぅ…」
男の声が布をへだてたようにくぐもってきこえた。視覚と聴覚が鈍り、言い返そうとした舌が、うまく回らない。手の先が異常に弛緩し、体が傾いだ。
「なに、をおっしゃって…いるのか」
「隠さなくてもいいだろう。お前は男好きする奴だ。男が欲しくて尻を振ってるんだろう? お前のことを聞きゃたいていの奴が言うのをしぶりやがる。後ろ暗いんだろうさ、お前のケツに突っ込みたくて堪らんと顔に書いてあるからな」
「よ…く回る、し、た…だな…っ、くぅ…ッ」
「薬は回ったか? どうだ、舌は痺れてるか? じゃあ今夜は私がお前を可愛がってやろう」
「ふ、ざ…けるな…ぁ…ッ」
急速に失われていく体の力に、堪えきれずにイルカの上半身が、畳へと転がる。必死で身体を起こすが上手くいかない。
かすむ視界で目をこらせば、ぼんやりと額宛の銀色が判別できたが、あとの色がまったく混同してどうにもならなかった。
逃れようと足を拘束する蔦を引きちぎろうとしても、びくともしない。
「くそ…ッ、こんな、ことをし、てい、と…っている…か…ッ」
「そうそう、抵抗してくれたほうが、こっちも盛り上がるというもんだ。この薬は優秀でな、痺れのあとにはそれは良い心地を味わえる。癖になるほどにな。きっとお前も癖になる。尻を振って喜ぶはずだよ。だから、もう少し吸ってくれたほうがいい。ほら、もう少しだ」
「…ッ、うぁ、ぁ…!」
言われた言葉を認識するまえに、イルカの腹を、男の足が蹴り上げた。一瞬、息が止まる。
そして咳き込んだ。
喉を空気が通っていく。
掠れた音をたてて息を吸うイルカを見下ろし、男は微笑う。
脹脛、太腿、尻を踏みつけ体重をかけてくる。
当然、拘束されている足は軋み、イルカのうめき声があがった。
男は満足そうに笑い、片膝をついてイルカのベストを広げていく。
いつもは服で隠されているイルカの素肌を、無遠慮に服をめくりあげ眺める。
「んぁ…ッ」
「腹はさすがに硬いが、下はどうかな」
「やめ、ろ…! ひ、あぁ…!」
生ぬるい手がイルカの素肌を撫で、その感触に鳥肌がたった。同時に、なにか言い難いような疼きと。
下衣に手が突っ込まれ、無造作にそれを掴まれおもわず声があがる。
「ぅ、ん…! ふぁ…ッ」
「なかなか感度がいいな。日頃、使い込んでいるのか?」
答えを期待していない男の声は愉悦に満ちていて、感じるはずも無い反応に戸惑うイルカの耳朶に不快に響く。
体がおかしかった。
男の言葉どおり。
痺れはまだしも快感までともにくるなど。
最悪だ。
呻きしかでないはずの喉から、熱い吐息が漏れる。
「だが、お前が日頃使い込んでいるのは、こっちの口だろうがな」
「ぅん、や、あぁ…ッ」
突然、足を拘束していたきつい戒めが解かれ、肩を蹴飛ばされて転がった。痺れのために無様に横倒しになったイルカの下衣を、男はいっきに引きずり下ろす。
「―――さあ、私を楽しませてくれよ」
「あ、あぁ、あ…」
男の声はどこまでも愉しげで、ひやりとした室温を肌に感じながら、イルカは怒りと諦めに瞼を閉じた。
―――で、どんな夢をみてるんだろうなあ。
他人事のようにイルカは心中でぼやき、最後の酒の一滴を啜り干した。
目の先には、転がって時折身体をぴくぴくさせている、くだんの特別上忍の姿がある。
幻術を、かけてやった。
桃色の紗がかかったとき、すかさず。
前もって調べておいた術が役にたった。
足に絡んだ蔦は、解呪の印でただの鉄糸と変わった。
そうとわかれば切るのは容易い。
念入りに研いでおいたクナイをひらめかせた。
相手はイルカをしめしめと罠にかけたつもりだったろうが、イルカとて中忍であり、アカデミー教師として推薦されるほどの能力をもっている。
侮ってもらっては困る。
もちろん、途中までは侮ってもらわなくてはやりにくい、とはじめは大人しいふりでもしたが、向こうが薬を使った時点で、イルカは切れた。
腹に据えかねた。
たかが欲望のために、同里の忍びにそこまでするか、と情けなくなった。
だが、その情けなさが、男の酷薄そうな顔をみていると、すとんと突き抜けた。
哀れな妄想と欲望で、ご苦労様、とおもったのだ。
自分の見てくれも良くない体などに目の色をかえている男。
べつだん自己卑下するわけではない。
ただ例えばカカシであれば、イルカに見目麗しさを期待していないと分かる。そしてその期待のなさは、ごく真っ当な感覚であると理解しているのだ。
事実、見目麗しくなどないのだから。
あるときは紅が綺麗になったとからかってきたが、あれは好意をもつ相手だからこそ、厭味にならず冗談になることだ。
それがこうやって力に訴え、怖気の走るような視線と技で強引にことをすすめてくる相手から、色めいたことをいわれたとしても、身震いののちに、呆れるだけだ。
なんて目と頭の悪い人なんだろう、と。
だから、男を気絶させて簀巻きにすることも、油断しているところをつけばできないことはなかったが、あえて幻術をしかけた。
まるで夢のように、男の欲望がかなう展開になる幻術を。
望むように振舞え望むように事が進む夢。
丸太になってそれは素晴らしい夢をみる男を鑑賞しつつ、酒でも呑めばすこしは憂さもはれて同情でも沸くかと、ぼんやりと眺めていた。
特別上忍なら途中で幻術にかけられていると気づくかもしれない、と危惧したが杞憂だったようだ。
幸せそうに微笑をうかべて、なにやらぶつぶつ言っている。
イルカの耳は忍びならではで優秀だが、すこし耳をかたむけてみたが、すぐにやめた。
わずかばかり呑んだ酒が、胃から逆流してはもったいない。
尻が痒くなるような、陶酔した台詞を寝言にしながら、ときおり身体をゆらす丸太をみて、ほんとうにどんな夢をみているのか気にはなるが、やはり危険な好奇心というところだろう。
さて、酒も呑んじまったし、里に帰るか。
任務の依頼品の受け渡しは、夕刻にすんでいる。もうひとつの主人の話し相手、というのも、少しは果たしたろうから、イルカがお暇しても問題はないはずだ。
イルカは綺麗に食べ尽くした自分の膳を、おもむろに引っつかんだ。
そして派手な音を立てぬよう、畳へとひっくり返した。
まだ料理が多く残っている男の膳も、一緒に放る。置きっぱなしだった宿の主人の分の膳も、盛大に転がしてやった。
すると出来上がったのは、料理の散乱した和室の惨状。
御浸しなどのくっついているものを、適当に散らばすなどの小細工もした。
きっと、男の見ている夢のなかでは、イルカはさんざん抵抗をしたあとに犯られてしまうはずだから、やらないよりはマシという程度の状況証拠だ。
翌朝、目が覚めてイルカが居なくとも、この惨状をみて納得してくれればいいが。
まあ、納得してくれなくても、里に帰ればあんたにぴったりの牢獄が待っているから安心しろよ。
同里の者を、任務上の理由もなしに個人的理由で襲い、また手段として忍びの技が使われた。査問に召集されるには充分だろう。
刑務に服役するか、もしくはどこかの任地にたっぷりと飛ばされるかするといい。
自業自得というものだ。
中忍だからと舐めてかかり、下の処理をさせようというのが、そもそもの間違いなのだ。
「他の奴なんか、冗談じゃない」
小さく吐き捨てる。
カカシ以外の男など、触られると想像するだけで怖気が走る。
自分と同じ性別から、そういった対象でみられることが、堪らなく嫌だ。
性癖として男を好むわけではない。
出会ったのがカカシであったからこそ。
カカシが自分を抱いたからこそ、今の状況を受け入れているだけだ。
イルカは宿の窓をあけはなった。
春の宵闇が、広がっている。
緑の香りのする夜気が鼻腔をくすぐった。
空には星と月灯り。
優しい灯火に口元が綻ぶ。
一瞬ののちには、イルカの姿はもう宿のどこにもなかった。
2005.09.30