愛について







 忌々しいポリ袋のなかみを火遁で燃やし、アカデミーの焼却炉に放り込んでから、イルカは職員室へとむかった。気分は良くなかったが、大声で不調はいえない。考えたくはないが、イルカへと不埒なまねをしたものが周囲にまだ居たばあい、不愉快そうであったり調子が悪そうにしているのをみられては業腹だ。
 カカシと付き合っていて、歳ににあわぬ忍耐ばかりを身につけた覚えはあるが、生来、イルカは負けず嫌いでもあるのだ。身にかかる火の粉を、やみくもに恐れて逃げるのは性にあわない。

 つとめて平然と事務処理をこなし、きづけば定時が近くなっていた。
 そのころに顔をみせたのがカカシ。
 受付によるついでとみえるように報告書を携えてきたわけでもなく、ふらりと姿をあらわしてイルカの傍らへと姿を現した。

「イルカさん、何時に終わりそう?」

 開口一番、きいたことはそれだ。
 職員室は生徒の姿はなく、そう混雑していなかったが充分に人目があり、イルカは居たたまれない心地を充分に味わって、重い口を開いた。

「あと、半時間ほどです」
「じゃあそのころにまた来ます。俺のこと、待ってて」

 まるで言い捨てた、といってもいいほどに、それだけでカカシは姿を消した。
 めったにないことに驚いた半分、こんな人目を集めるような場所でなにをするのかと憤慨半分。定時までのわずかな時間、イルカの心中は、一時あの出来事も忘れるほどにカカシのことでいっぱいになった。



 時計の針が定時をさすのを待ちかねたように、イルカは席のまわりを片し、外へと飛び出した。好奇心の強そうな女性の同僚や、女性でなくとも利害にさといものたちにくちばしを開かれるのは、まったく勘弁だ。
 日暮れのすこしゆっくりとなった夕方は、昼勤の定時ではまだ薄闇がおりている程度。正面玄関から早足ででて、入り口あたりで見渡せば、カカシの銀髪が薄闇のなかで淡く白くみえて、そちらに駆け寄った。

「カカシさん、お待たせしました」
「あれ、早いね。待っててくれれば中まで迎えにいったのに」
「いえ、そういうわけには」

 カカシは、どういうわけなんだか、と呟いていたようだったが、イルカが歩き出すと隣に並んだ。

「突然で驚きました。なにかご用事ですか?」
「用事がないとまずかった?」

 反対に訊きかえされてイルカは口ごもり、反射的に首を横にふった。カカシが受付に現れたあとの内心をおもいだすと、素直に首を縦に動かしたいところだったが、できなかった。カカシが目を細めて、イルカをみる。イルカの心のなかを見透かしたような。

「ごめーんね。違うよ、用事はあったんだけど、今はいいです。あと、晩飯、食べたいものがあって、一緒に買って帰ろうかと思ったんです」
「食べたいものですか? なんです?」
「冷やし中華」
「冷やし中華? 珍しいですね、時期的にあるかなぁ…」
「うーん、エビスにね、訊いてみたら冷やし中華の素っていうのがあって…」

 他愛無い会話。それに紛れてしまった、「今はいい」という言葉。
 カカシがなにを言いたかったのかが分かったのは、それから四時間ほどあとだった。


 二人で遠回りをしてスーパーをはしごして、レシピを暗記したというカカシが調理を担当した。イルカが風呂洗いと洗濯物を片付け、それなりの出来の冷やし中華をまえにビール缶を「お疲れ様」とあわせる。べこん、という音とビールの味。冷やし中華はなかなか美味しかった。
 そして風呂に入って、イルカが「俺、今日はすこし疲れたので、先に休みます」といったとき。
 同じように風呂あがりの髪をタオルで拭きながら、カカシがなんでもないように訊いた。


「イルカさん、なにかおかしなこと、なかった?」


 一瞬、動きが止まりそうになったが、努めて自然に、イルカは掛け布団をもちあげ、そのあいだに滑り込む。
 カカシのほうは見ない。
 視線があうと、さすがにばれてしまうだろう。

「おかしなことですか? べつに心当たりはないですが」
「そう? 普段なら起きないようなこととかなかった?」
「そうですね、とくには思い出せませんが」

 いくらなんでも、書庫室でのことはいえない。
 あれはイルカの油断もあった。みっともない真似を許したことを知られたいとは思わない。
 言えばカカシがなにがしかの対策を講じてくれるかもしれないという期待を抱くこともまた、みっともない。

 こうやって訊いてくることは、カカシの鼻が利くという評判はほんとうに事実だな、とそこまでおもってから、イルカは思考の順序が逆であることに気づいた。

 どうしてカカシがそんなことを訊くのだろう?

 カカシがいくら鼻が利き、写輪眼をもっていようとも、昼間の出来事はさすがに知らないはずだ。
 イルカは誰にも話していないし、当事者から聞かない限り知る道理はない。

 このさい、あの仕業がカカシであるという可能性は、頭から無い。
 カカシがあんな真似をするはずがないと考える前から信じているし、カカシが後ろにいて気づかない自分でもない。
 だから、当事者から聞くでもないかぎり昼間のことをカカシが知っているわけはなく、イルカは声を不思議そうに作って、布団にもぐったまま訊いてみた。

「どうしてそんなこと、訊くんですか?」
「うーん、胸騒ぎがしたというか」

 カカシが、タオルを放って、隣に滑り込んできた。
 横向きになっていたイルカの背中を抱きこむようにしてくっついてきたから、濡れた頭髪がイルカの首筋にかかる。

「カカシさん、冷たいです」
「ごめんなさい。でもイルカさん、何かあったらなるべく俺に教えてね」
「はい。でも本当に…」
「あと、キープ君壱、だなんてヤだよ」

 狭い布団とカカシの腕のなかで、イルカは寝返りをうって、カカシの顔をみた。
 外とはちがって、隠されていない口元や目元は真面目な表情そのままで、いつも見惚れそうになる。

「それ…」
「自慢そうに俺に言ってくるから、頭きて、人のことに首つっこむのは歳とった証拠だよねっていったら怒鳴りあいになっちゃったよ」
「…ごめんなさい」

 謝りながらも、カカシと紅の怒鳴りあいはどんなものだったのだろうと気になった。あまり紅が怒っていなければいいのだが。
 カカシがイルカの額に唇をよせて、触れるぐらいのキスをする。
 しだいに目尻や耳朶におりてきてイルカは身動ぎをした。

「そのごめんなさいは、俺にたいして? それとも紅に?」

 おりてきた唇と視線は、イルカをまっすぐに見て逸らせない強さがあった。狭い布団のなか、背中から抱かれていたはずなのに、いつのまにか両腕を脇につき見下ろされていた。威圧感は充分だ。
 イルカはもういちど「ごめんなさい」といった。
 カカシの視線が、閃くように一瞬、激しくなる。
 それでもそれ以外に言うのは癪だった。
 こんな腕のなかに閉じ込めるようにして訊いてくることもその内容も、腹の内が波打って、素直に答えてやろうという気にならなかった。
 もしかすると、昼間に起こったことで、腹立たしい気分がじつは持続していたのかもしれない。
 昼間のことでカカシが遠回りに訊いてきたのかとおもえば、紅とのことであったのも、手伝ったのか。
 イルカはカカシから視線を逃して、小さく言った。

「紅さんは冗談で仰られたんです。俺もたまには冗談ぐらい、言います。それがカカシさんまで怒らせたのなら、すいませんでした。俺が悪いです。だから、ごめんなさいといいました」
「…訊くこと、変えるよ。イルカさん、どうして紅にあんなこと言ったの?」
「だから、冗談です」
「イルカさん、紅と付き合いたいの?」

 今日は疲れているといったのに。
 こんな気詰まりの問答をどうして、よりによって寝具のなかでしなければならないのか。
 よりによって、カカシからこんなことを訊かれなければいけないのか。
 疲れているという逃げの一手は、べつの案件をつれてきてしまった。
 もうすこしで穏便に一日を終えられるとおもったのに。
 ため息をつきたいのを堪える。

「俺は冗談もいってはいけないのですか」
「そうじゃないよ。ただイルカさんにそういわせる前後や不満があるのかなって気になったから」
「べつにありません。カカシさんが気になさることではありません」

 思ったより、切り捨てるような言い方になってしまい、言ってしまってからイルカはぎくりとした。カカシの視線が、咎める色をおびてイルカをみる。
 イルカは至近の眼差しから目をそらしたまま、瞼をとじた。

 昼間のアカデミーの穏やかな光景がうかんだ。
 紅の気遣いや心配。呆れたような声音。嬉しさ。
 そのあとに起きた情けない出来事。
 それらはカカシには言えないと、イルカが判断していることだ。
 いくら訊かれても答えることは難しい。

 むしろカカシがこれ以上強引に尋ねてくるのなら、いっそうイルカの口は堅くなるだろう。
 言わないと決めたことはイルカの決めたことだから、カカシに無理強いできることではない。二人で寝る関係だからとか、至近距離で問い詰められているからとか、そういった理由でほだされることじゃない。
 そう思っているから、次にカカシが言ったことに、イルカは腹をたてた。

「俺が気にするかどうかは、イルカさんが決めることじゃなくて、俺が決めることだよ」
「…っ、じゃあ俺も俺がカカシさんに話すことは俺が決めていいんじゃないですか」
「…」

 カカシをみると、カカシもイルカをみていて、しばらくにらみ合う。
 頑なな会話。
 お互いがお互いの存在を押し付けあっているような。

「…どうしても話してくれないの」
「どうしても、ということではありません。カカシさんが知ることではないだけです」
「だけ、っておかしくない? 俺は知りたいから訊いてるんだけど。俺だってイルカさんが何か紅に愚痴をいったんだとしたら、知りたいっておもっただけ、だよ」

 売り言葉に買い言葉、になってきている自覚はあった。
 カカシが苛立って問い詰めてくることなどそうあることでなく、くわえてイルカも苛立ちの芽を隠していたから、言葉はあっというまに剣を帯びていく。

「ではカカシさんが気になっている箇所をはっきり言います。俺はカカシさんに対しての不満や愚痴なんて、紅さんに言っていません。ありもしないものをどうやって言うんですか、カカシさんはそんなに俺が不満だらけで生きていると思っているんですかっ?」

 間近のカカシの顔は驚いていて、イルカは泣きそうな塊が喉のあたりにうずくまっているのを感じながら、それを睨む。
 悔しい。
 カカシがイルカをみる目が、イルカを泣きたいような気持ちにさせた。
 けっして疑いだけでなく、確かに心配もまじっているのだろうけれど、カカシがイルカを探るように見ることは、イルカを傷つけるのだ。
 カカシへと向かう気持ちを疑われる、否定されることと似ている。
 イルカが話さないと決めたことを問われることは。

「…とにかく、カカシさんが不快に思われるようなことはけっして話していません。でも、話すことじゃありません。紅さんとのことなので」

 冬の空の下、寒々しい景色のなかであんなに幸せを感じたことを思い出す。
 柔らかな暖かい布団のなか、お互いの体温を感じるほどの距離で、こんなにも冷えた会話をするなどと、あのときは想像できなかった。
 カカシのいつもは柔らかな表情も強張っていくのが、いっそ怒鳴りあうより状況を雄弁に語っていて、辛かった。

「―――…疲れました。もう、寝ます。おやすみなさい」

 泣きそうで、イルカは無理やり寝返りをうって、カカシから顔を逸らした。顔の前にきた布団の端をぎゅっと掴んで、カカシの腕を無視して丸まる。
 もう何も言わない。
 そんな意思表示を体全体で表していれば、ややあって、ため息が寝室に響いた。
 疲れていて、肩を竦めた気配の濃厚なため息だった。
 とたんに怖くなって、起き上がってカカシに謝りたくなる。
 
 このまま呆れてどこかに行ってしまったらどうしよう。
 どうしようもないと見放されたら。

 いままで見放されていなかった、などともいえないのに、イルカはそんなことを考えた。
 丸まったイルカのほうをみている気配を感じながら、泣きそうなつかえを飲み込み、怯えを布団をつかむことで押さえ込み、ただ口をつぐむ。
 心のなかで相反する言葉が次々と浮かんだ。

 行かないで。
 放っておいて。
 見捨てないで。

 俺を一人で、放っておいて。

 傍に居て。
 一人にしないで。
 どこかに行って。

 俺の傍に居て。


 どこかに、行かないで。



 ふりこのように、気持ちのあちらとこちらと行き来する言葉。
 馬鹿みたいだ、と自嘲する。紅にはあんなに簡単にいえたのに、カカシにはいえない。
 ほんとうに馬鹿だ。
 こんなに近くて、こんなに冷たくて堅い空気が流れているのに、いえやしない。
 蕩けたバターのような空気など、夢にもみれない。
 イルカとカカシのあいだにあるのは、錆びた鉄塊同士があげる軋みばかりのようで、泣きそうだ。
 それを作っているのが、自分であることに、なにより胸のつかえが大きくなる。
 軋んだ空気のなか、カカシの指がイルカの首筋に触れた。
 静かな声。

「―――俺が間違えたね、ごめんね。…紅が、…いえ、やっぱり紅に直接あたることにします。イルカさんが紅と話をしてたからムカついたのはまた別の話でした。それから、変なことがあったら、俺でなくていいから紅でも、アスマでもいいし、アンコとかもああ見えて気はいい奴だし」

 ふっと触れた温もりが遠ざかり、カカシがベッドから抜け出したのがわかった。
 目を瞑ったものの寝入りには遠かったイルカは、とっさに目をひらいてそちらを見た。
 不安におもっていたことが現実になる怖さが、イルカの体を反射的に動かしていた。
 すると、寝室の明かりのスイッチに手をのばしたカカシが、苦笑してイルカをみていた。
 カッと顔に血が上る。
 見越されていたようで間抜けだ。

「…寝ますッ」

 バサッと布団をかぶると同時に、明かりが消えた。
 そして戻ってきてくれた温もり。
 イルカの隣に滑り込み、腰に腕を巻きつけてきた。重いが、さきほどまでの刺々しい気持ちよりは、ずっと暖かい。

「俺でなくていいから、誰かを頼ってね、イルカさん」
「……」
「おやすみなさい」

 おやすみなさい、と返事はできなくて、カカシのかすかな寝息が聞こえてきたころになって、イルカはようやく、ごめんなさいと囁いた。
 小さな声は、寝室のカーテンからもれる、春の黄身色の月だけが聞いていたようだった。



2005.09.12