愛について
職員室へもどるまえにと図書庫へとよった。
アカデミー教科の過年度の資料を返し、つぎに必要な書類を借り受けるためだ。
それ、に気づいたとき間抜けに、あれ俺なんか飲み物なんかこぼしたかな、と思ったのだった。けれど、あいにくと背中の布がべったりと肌に張りついている箇所は、どの形状の飲み物をどう振り回そうと、自分ではそう簡単に濡らせない場所だった。
「…なんだよ、…これ…」
それは腰の尾てい骨のすこし上から、背中の筋にそって、イルカの服の腰あたりにかけられていた。
とくにひどく濡れているように感じるのは、忍服のベストのとぎれた腰のあたりで、イルカが身をねじるたびに、ひんやりと肌に張り付き、気持ちが悪い。
イルカはそろりと古めかしい書棚の列から脱け出した。
列の向こうには閲覧席と貸し出し受付があり、人が幾人か立ち動いているのが見える。アカデミー内部の図書庫のため、里人はめったに利用することはなく、おもに利用するのは忍びだ。
ゆえに、こんな失態も晒す。
溜息をつきたい唇をぎゅっと噛みしめ、イルカは腰辺りを隠すように図書庫を出た。
着替えはアカデミーの備品庫から失敬しよう。持ち出し名簿に名前を書いておけば、あとは係りのものが処理してくれるはずだ。
廊下をいくぶん早足で急ぎながら、イルカは腰のあたりに感じる、ぬめりを含んだ冷たさが気になってしかたがなかった。
どうして。
誰が。
考えても、心当たりは無く、自分が本を眺めていたあいだに背後に立ったものは居なかったと思う。本を眺めることに夢中で気が付かなかっただけかもしれないが、書庫棚のあいだは二人が並んで通れる程度の幅だ。それで真後ろに立たれたのなら、普通なら気が付く。気が付かなかったのは、この行為をしたものが忍びだったからだ、という推測にイルカはたどり着く。
考えたくなかった推測に、じわりと嫌な汗が背に噴出す。
恐ろしさと居た堪れなさとがイルカを襲う。
備品庫に滑り込んで、自分のサイズを手早くとって、こんどは便所を探した。
自分の匂いが気になって仕方が無かった。
もし、廊下でだれか鼻のきくものとすれ違ったりすれば、と考えると足も速くなる。
とりたてて鼻が良いというわけでない自分でさえ、己の背中から匂いたつ生臭いにおいが鼻をついて仕方が無い。
廊下にも便所にも、幸いにして人の気配はなかった。
個室に入り、鍵をかけて、ようやっとイルカは息をついた。
「最ッ低だ」
呟いて、備品を掴んでないほうの手の指で、そろりと腰のあたりの布を撫でた。
ぬるりと、布の表面が滑った。
おぞ気にイルカの眉がしかめられて、ぬめりをなぞった指を、確認のために鼻に近づける。そうして瞬間、吐き気に襲われて、すばやく指を顔面から遠ざけた。
信じられない、という気持ちもある。
いったい自分にこんなことをして楽しいのか、という怒りも。
それは男の精液だった。
べったりとついたそれは、ベストを脱ぎ、アンダーを脱いでみると、よりはっきりと存在を確認できてイルカを落ち込ませる。しかも、ベストには付いていないと思っていれば、たんに沁み込んで感じるには布地が邪魔をしていただけで、肉眼でみると、アンダーの腰のあたりから背中にかけて、まるで飛沫を撒き散らしたかのように沁みが広がっていた。
つまり、誰かはしらないが、忍びである男は、イルカの真後ろに立ち、その場であらぬものをおっ勃てて、イルカの尻から背中へ向けて精液を吐き出したのだろう。
備品の袋をびりびりと破って、脱力しそうな身体で無理やり新しい服へと着替える。
着替えるさいに、腰のあたりのべたつきがまだ乾ききらず、肌がひんやりとするのも情けない。
自分も男だから、べつに精液自体が気分的に汚いものであるとか、後処理に困ったりすることはないにせよ、気持ちが悪いのは、その男である自分に精液をかけたがる男のことだ。
先から、自分とカカシの間柄が、一部の人間のあいだで噂になって流れていることはうすうす知っていた。紅やアスマはもちろんのこと、カカシの周りの上忍にはおおかた知れていると思っていい。
けれど、話す人物の多くはカカシの友人であったりしたために、イルカは嫌な思いをせずにすんでいた。イルカの周りはといえば、カカシがあまりイルカの仕事場に顔をみせるわけでないことから、知る者は少ない。だが、耳の立つものならすぐに分かることであるし、まったく知られていないとはおもっていない。ただ上忍との関係を取り沙汰す立場の人間が、イルカのまわりに居ないから、訊かれることはなかった。
カカシも、仲間内ではなす場合は別として、とりたてて人前でそういう関係を匂わすわけでなく、イルカはある程度の噂が流れることはしょうがないことだと思っていた。
噂が流れたとしても、自分とカカシの仲がいまさら変わるわけでもないし。
誰から反対や非難をうけるような付き合いかたをしているわけでもない。
自分たちのことだから、たとえ不愉快になるような噂のされかたをしていても、まったく関係のないことだ―――。
そういう驕りのような思いもあったのだろう。
カカシの情人となったと噂が流れることの、都合の悪い部分を見ようとせず、跳ね飛ばそうとしていた。
その結果がこうだ。
言葉のない、嫌がらせのような行為。
ようやく大きな溜息を吐き出して、イルカは破いたポリ袋のなかに、脱いだアンダーを押し込んだ。ベストについたものはトイレットペーパーを回して、ごしごしと拭い取る。放射線状に飛んだ軌跡がわかるような沁みのあとが生々しく、何度も擦った。
考えられるひとつには、自分のことをカカシのそういう対象であると考えた人間が、なんらかの意図をこめて行為をしたこと。直接的に尻を触れという力もない、つまらない行為であるが、その顔をみせない陰湿さが恐ろしく思えた。もうひとつ考えられるなら、カカシに悪意をもつものが、嫌がらせとしてイルカに矛先をむけたか。
だが、どちらにせよ、どんな理由にせよ、イルカの受けた行為が明るい場所で行えることではないのは明白だった。周囲の誰かわからぬものから、そういう行為を受けたことが、イルカに居た堪れなさを感じさせる。
ひとつ深呼吸をして、便所をでて、普段の顔で廊下をあるく。
手のポリ袋は燃やしてしまおう。洗うのも面倒くさい。ベストだけは中身を取り替えるほうが面倒であるのでそのまま使うが、アンダーは新品であっても充分だ。ちょっと新品くさくはあるが、あの臭いよりはずっとましだ。
アカデミー廊下の開け放した窓から、昼ののんびりとした中庭がみえ、風がイルカの一つ括りの先をゆらしていく。
ついさきほど紅と話していたときには地よいと感じたはずのその風に、気分は上向きにならなかった。
むしろ、いつもと変わりないような穏やかな風景であったなかに、イルカにたいする、得体のしれない風向きが潜んでいるのだと思うと、どうすればいいのかわからない、足元の覚束無いような心地にさえなるのだった。
2005.09.12