愛について
「イルカせんせ」
アカデミーの廊下を歩いていて、後ろから声をかけられた。ふりむくと、今日もかわらず強気そうで艶やかな紅がいた。三ヶ月ほどまえの任務でともに行動してから、たまに顔をみれば挨拶するほどの知り合いになった上忍だ。
赤い唇を微笑ませている紅に、イルカの頬もくだける。
紅はイルカにとって話しやすい部類にはいる上忍だった。
「紅さん、こんにちは。…先生、はよしてください」
「あら、だって先生じゃない。いいでしょ」
「からかっていますね、俺を」
いうと、紅はおかしげに肩をすくめる。ばれた、というような仕草にイルカは苦笑した。イルカには、知り合って任務をともにした経緯が手伝って、紅とじっさいに顔をあわせた回数よりも、なぜか昔から友人であったような気安さがある。
そして紅が時折イルカにみせる、幼さの欠けらのような仕草は、紅もまたイルカにたいしてそう感じていることを思わせた。
「なにか御用ですか?」
「ん、別にとくに用っていうわけじゃないんだけど…」
語尾を濁した紅に、イルカは小首をかしげた。いままで顔をあわせたときは会釈や挨拶程度は交わしてきたし、一度は大勢のなかだったが一緒に飲んだりした。とはいえ、こうやって紅から呼び止められたのは初めてといっていい。なにかしら用事があってのことだとおもったが。
紅の表情からは、話の内容までは読み取れない。
「そうね…最近、調子はどう?」
「調子、ですか? おかげさまで生徒も元気ですが」
「…うーん、そういうのじゃなくて、あなた自身の調子はどう?」
「元気ですよ。そうですね、次の入学生から担任としてクラスをもたせてもらえそうなので、体をなまらせないように気をつけながら、最近は気合いれようと思って昔の資料をみたりしています」
ぷ、と紅がふきだした。
すこし吃驚する。ふきだすような面白いことを言っただろうか。訊かれたままのことを答えたのに。
そうおもっていると紅がイルカの左腕あたりをバンバンと叩いた。
「イルカってほんとに真面目ね! ちょっと心配してたんだけど、大丈夫そうね」
「え、はい。大過なく過ごしています」
よく分からないままに返事をした。心配していた、という節が気になったが、イルカが考える限り身辺に不都合なことは起こっていない。
任務から離れアカデミー教員として働き始め、ずいぶんと生徒という子どもたちに接することになじんできた。任務につきたいと思うこともあるが、いまのところ、アカデミーでの教員の仕事もやりがいのある任務であるとおもえる。人と接する仕事は、学ぶことがたくさんあった。
仕事から転じて、私生活のほうはといえば、これもとくに不都合は感じていない。おもいあたるといえば、アパートの件で大家から言われていることがあるが、紅に話すことでもない。
あとは、いぜんから頻繁になっていたカカシの訪れが、「帰ろうか」という言葉に替わったぐらいで、特に変わりもなく日々がすぎていた。
「カカシはどう?」
一瞬、言葉がでてこなくて紅の顔をみる。
「どうしたの、あ、聞いちゃいけなかったのかしら」
「いえ、違います。…考えていたことを聞かれたので吃驚しただけです。すいません」
「そう」
目をほそめた紅は優しそうな表情にみえた。イルカはなぜか照れて、鼻の傷をかく。
「それでどうなの。あのあと。もう三月ほどになるかしら」
「もうそんなになるんですね…。どうと仰られても、答えに困りますが…」
「あの指輪はどうしてるの? これだと答えやすい?」
切り込んでくる鋭さは相変わらずだとイルカは頬を緩ませた。
「タグといっしょに首にかけていますよ。無くすのも嫌なので」
「そう。それがいいわ」
「どうしてですか?」
「あとできいたんだけど、あのとき買った工房の指輪ってけっこう良い値で取引されるらしいよ。いざってときに役に立つかもしれないでしょ」
「紅さんっ」
ふふっ、とくすぐったそうに肩をすくめ、イルカの怒気をやりすごし、紅は上忍待機所のほうへと歩き出す。同じようにイルカも並んだ。
「これは売るかもしれないとおもって持ち歩いてるわけじゃありません。価値も分かりませんし…ただ本当に無くすのが嫌なので」
「うちに保管しておいてもいいじゃない」
「身に着けておきたいんですよ」
「ねえ、イルカ」
「なんでしょう?」
「その指輪は、あなたにとって―――ただの指輪? それとも特別な指輪?」
しばらく考えてからイルカは答えた。
「俺にとっては特別な指輪です。でもきっとカカシさんにとってはただの指輪です。たとえばクナイや手裏剣やよく効く傷薬のようなものと同じ、もしかしたら実用性がないのでそれ以下の価値の、装飾品でしょうね。…紅さん、そんな心配そうな顔をされなくてもいいですよ。知っています、大丈夫ですよ」
まだ冷えるが春めいた風が、心地のよいゆるやかさで校舎の廊下を吹き抜けていく。
午後の里は穏やかで、紅が気遣わしげにイルカを伺う理由など、どこを探してもありませんというぐあいに穏やかだった。
イルカは、この美しい上忍が女性の持ち得るいくつかの細やかさをもっていることを、好ましくおもった。
「…あの任務のずっとあとだけどね、カカシから聞いたの。木の葉は男同士は入籍できないわよ、結婚するんだったら指輪より一緒の家でも買ったら、って私がいったら変な顔するのよ、あいつ。なにそれ、って」
「はい」
「どうして指輪と結婚ってのが関係あるの、って」
柳眉を寄せて悔しげにいう様子は、そのときのことを思い出しているのだろうか。イルカもまた、様子を思い描いてみる。
きっと場所は上忍待機所。天気は冬曇り。暖かな室内のなかで、コーヒーでも啜りながら雑談したのだろうか。
なんどか見たことのある、上忍待機所でのカカシやほかの上忍の姿を思い出し、そこに紅とカカシを浮かべる。不思議そうに目を丸くするカカシ。そして呆れたような顔の紅と。
「あいつ、あーんな本読んでるくせに、結婚の約束には指輪を渡すっていうのも知らなかったのよ」
紅の言葉をききながら、正確には知らなかったのではなく、想像もしなかった、が正しいのだろうとイルカはおもった。
指輪とともに言葉をもらったとき、嬉しかった。
いままで見るまい、気づくまいとしていたカカシの心を晒されて、心が舞い上がったのは確かだ。
だが、しばらくののち、落ち着いて考えてみるとすぐにわかった。
カカシはあくまで言葉どおりの気持ちと、その証左に指輪という物品を差しだした。
ただそれだけのことだった。
なにもかもが一瞬で薔薇色にかわり、毛氈の赤い絨毯が眼前に広げられ、万事が滞りなく準備されている夢の国に到るわけでなく、変わらずあるのはカカシと自分の日常だった。
たしかにカカシがイルカの家に「来る」のではなく、「帰る」と言えるようになったことは大きなことだろう。
一緒に食事をとることが当たり前であることは素晴らしい。
だが、気づいたのは、カカシの言葉と物品がすべてを築きあげるわけではなく、たとえどんな証左があろうとも、望むこれからの未来を築くためには、それに甘えてはいられないということだった。
カカシとこれからも一緒にいたい。
この指輪は、カカシに甘えるためのものではない。
イルカが、しばらくののちに了解したことは、そういうことだった。
「…俺もカカシさんからそういう意味でいただいたとは思っていませんから。大丈夫ですよ、ありがとうございます、紅さん」
紅の気遣いをありがたくおもい、イルカの顔は自然と綻んだ。人の想いは暖かい。冬に想像する春の光のようにさえ感じる。それが嬉しかった。
紅は、そんなイルカをみて不満気ではあったが、ため息ひとつで見逃してくれたようだった。
「じゃあ結局、まえと変わりなしなの? 入り浸ってるだけなんて迷惑なはなしね」
イルカは廊下の窓に目をむけ、外の風景を眺めた。落葉樹の多い木の葉の里は、春をむかえると一気に若緑にそまっていく。アカデミーや受付に隣接するように植えられている木々も、冬の寒さに凍えていた幹や枝の端々から、萌木色の若々しい新芽を覗かせていた。
冬の寒風のなかで手を繋いだことをふと想いだし、つながるように、カカシをてらす黄金の凍える月の輝きを思い出した。
「紅さん、俺は一人暮らしが長かったんです」
里にともる明かりは、夜道といえど真の闇は少なく、イルカのアパートへと向かう道もまた、そんなには暗くなかった。通りに面する家々の窓からは、明かりと里人の声と気配とが伝わってきて、それを羨ましくおもいながら一人の家に帰る。
「一人暮らしが始まったときに、これがずっと続くんだと心に決めたせいもあるんでしょうが、一人の状態が当たり前みたいになっていまして」
「そうなの、分かる気もするわ」
「だから、家に帰ったときに誰も居ないことが当たり前だとおもってたんです」
暗いままの、自分のアパートの部屋の窓。
古ぼけたアパートは大家が、日が落ちるころになると、アパートの廊下の電気をつけることがいつもだった。仕事から遅く帰ってきたときは、いつもアパートの廊下は明るかった。
けれど、自分の部屋の窓は、いつも暗い。
「そういうのになれていたんですけど、最近、カカシさんがうちに居てくださるんです。俺が居ないときでも、合鍵があるから使わせてもらったと言って、中で待っていてくれるときがあって」
「…」
「帰ったら家が明るいなんて、新鮮でした。とても。アパートの下から見上げると、自分の家の窓が明るいと違和感あるぐらいで、あれ、アパート間違ったかな、とか思いました。最初は」
見上げる窓の明かり。
それがどんなにか眩く目に映るか、最近まで忘れていた。
人の家の明かりではなく、自分の帰る場所が明るいこと。
仔細はかまわない。
それがイルカにとって、どんなにか―――。
「最近じゃようやくなれてきましたけど、やっぱり誰かのいる家に帰る、っていうのはありがたいです。道から窓を見上げたとき、なんともいえない気持ちになります」
紅をみると、複雑な表情。イルカは苦笑する。
「―――…それが、嬉しい、ってことなんだと思うんです。単純に嬉しいだけかといわれれば、難しいのですが。カカシさんが、俺の家に居て、俺を待っていてくれることが、嬉しい。いまの現状は俺にとってもったいないほどです」
「…イルカ」
「なんでしょう」
「幸せ?」
「すくなくとも、俺は」
ますます複雑な顔をした紅に、イルカは微笑んで礼を述べた。心配してくださってありがとうございます、と。
紅はその美形とともに気風が良いことでも知られていて、一部では気が強いをとおりこし、男勝りともいわれているのをイルカはきいたことがある。その彼女がこうまで気を配ってくることは不思議といえば不思議だが、不愉快ではない。
紅には内緒だが、イルカは紅がこうも心配する理由に思い当たるふしがあるから、よけいに不快ではない。そのふしとは、アスマだ。
カカシとの会話のなかで気づいた。紅はアスマが気になって仕方がないらしい。そしてアスマも紅のことを憎からず思っている。けれど二人の性格が邪魔してか、あと一歩の距離をのこしていて、じれったい二人だとカカシは微笑っていた。
その横顔がずいぶんと柔らかく、しばらく目にやきつくほどだったから、その言葉を覚えていて、そのうちに気づいた。きっと紅は、自分が躊躇うあと一歩を、同じように立ち止まっているイルカに投影しているのだ、と。
もしかするとイルカの思い違いかもしれないが、おおかたの部分で、この読みは当たっているだろうとイルカは思っている。
ただ、紅のようにおもったままを口に出来るほど、イルカには強かさはないため、その読みは確証を得ないままになっている。
「…イルカが幸せだというなら、それでいいけど…もしカカシと居て、いま不幸せだとか言ったら、引き離してやるつもりだったから」
「それは…怖いですね」
「あら、当然よ。私はイルカを心配しているからね」
笑みで唇をしならせ、紅は廊下の角でたちどまった。
上の階段をいけば上忍待機所。そのまま廊下をずっといけばアカデミーの職員室だ。
「ありがとうございます」
「礼をいわれることじゃないわ。だって、イルカがひとりになったら、私がイルカを捕って食べちゃおうと思ってるんだもの」
一瞬の間のあと、イルカは吹き出し、同じように紅も笑いだす。紅が真面目な顔をしていったからよけいに可笑しかった。
「それは、ありがたいお話です。ぜひお願いしたいですね」
「そう? じゃあイルカはキープ君壱ね。メモっとくわ」
「よろしくお願いします」
お互いに笑って、軽く手をあげて廊下を別れた。
紅のキープになるとは光栄だが、同僚たちにも密かに人気の高い上忍だけに、うっかり冗談でも漏らせないな、とイルカは廊下を歩きながら思い出し笑いをした。
2005.09.6