思って? と語尾をあげたアンコを、イルカはぼんやりとみた。小首を傾げる。
視界の端では、アスマとイビキが酒を喉に詰まらせ咽ていた。
イルカの手元の杯に、こっそりと紅が酒を注ぎ足した。
「…どう、とは」
「だからー、すっごく長い間会えないとするでしょー?」
「はい」
「そしたらイルカはさ、カカシ抜きで、どーするのかなー?」
考えて、間があいた。
瞬きを三回。
酔った脳みそに質問の意図が染み渡るのに、瞬き三回を要し、そしてイルカは叫んだ。
「―――え、えええぇぇぇッ!?」
「わ、声が大きいわよ! あのバカが気づく!」
しー! と指をたてたアンコの後ろから、語尾に被さるように、その「バカ」の声がきこえた。
「なーに? あのバカって、どこのバカなのかな、アンコ?」
「えー? さー、どこのバカかなー。どこのバカだろーねー」
「ホーント、どこのおバカさんだろーねえ?」
声音は穏やかだが、けっして騙されてはいけない、という理性は誰しも働いたようで、イルカとアンコをのぞく座敷のすべての者がサッと目を伏せた。とばっちりを食わないために。
そしてカカシの声が、冬の陽だまりから一転、氷柱の垂れ下がる氷点下へ。
「なに話してんのか分かんないけど、イルカさんに変なちょっかいかけたら―――」
「あー! もー! 分かってるわよ! うっさい!」
「分かってるならいいけどね」
言ってカカシの紡ぎだす吹雪のような気配が途切れ、周囲のものはほっと一息ついた。まったく、カカシもアンコも周りのことを考えて遣り合ってほしいものだと、心を一にしてほぼ皆がおもった。
ところが、そんな皆の心の声がいまいち読めないものもいる。
この場合はもちろん、当人のアンコだ。
まだ懲りずに、こっそりと声を潜め、イルカへと食い下がった。
「で、どーなの? 答えは二択よ、男か、女か!?」
「えぇぇ!? ななな、なんで二択がそれなんですか!?」
思わず問い返してしまった。
だってあまりにあまりな「二択」だ。男か、女か、なんて。あからさまにカカシ以外の人間と体を重ねたと訊いている。頭に血が上って、顔が真っ赤になった。
もちろん答えられるわけもなく、しまいに目まで潤んでしまった。
「あれ、他に選択肢あるの?」
「あ、ありますよ…! たとえば…っ」
「へーえ? たとえば?」
酔いに思考能力の鈍っていたイルカは、ここに至ってはたと気づいた。
誘導された。
「たとえば?」というアンコの猫のような笑みが、引っ掛けました、と言っているようなものだ。
さらに答えられなくて、イルカは唇を噛んで言葉に詰まる。
いえない。
こんな曲がりなりにも成人女性が二人も居る場所で、そんな下品なことは絶対にいえない。
たとえ、訊いてきたのが、その気遣うべき成人女性の片割れだったとしても。
こういうことは、本当は男ばかりのもっと安い居酒屋などで話されるべきだ、という意味不明な泣き言をイルカは思った。
「で、どうなのよ、他に何があるの!?」
「うぅっ、い、いえません…! 俺からは言えません…ッ」
「どうして言えないの! さあ、素直に言えば楽になれるわよ!」
「い、言えません…!」
「言えー!」
「…アンコ、それじゃ拷問だろう。それにそんな拙いウタわせ方があるか」
「拷問マニアは黙ってな!」
「…」
「さあ、イルカ!」
「い、言えないものは言えないんです…ッ」
「いいからッ、言えー!」
イルカはもう半泣きだった。
アンコの目に毒なものまでアップで迫ってくるし、目をぎゅっと瞑るしかない。
頭に血が上って、くらくらして、言っちゃダメだという理性がまるで焼き損ねたクッキーのようにぽろぽろと崩れていく。
けれど、向こうにカカシもいるのに、絶対言えない。
そんな恥ずかしいことは。
絶対に。
それはイルカの最後の堤防のようなものだ。
絶対に、言わない。
けれどそんな決意も、押し迫るアンコの迫力と胸部の量感に、ぐらぐらと揺れる。
あわあわと顔を真っ赤にして狼狽えるイルカの背中が、イビキにびたりとくっ付く。
もう逃げる場所がない。
目の前のアンコは、「さあさあさあ!」と迫っていた。
もう駄目だ…!
そう思ったとき、急激瞬間冷凍の、冷ややかな声がその場に割り込んだ。
「―――イルカさんを苛めんなって、俺たしか言ったよねえ?」
しかも今度は、声だけでなく、アンコの真後ろに仁王立ちだった。
一瞬で、全員が凍りついた。
かろうじてアスマをはじめとする幾人かの胆の太いものだけが、内心、こんな場所で殺気立てるんじゃねぇ! と叫んでいたが、それも心のなかだけで、あえてカカシに言おうとするものはいなかった。
誰でも命は惜しい。
アンコが果敢に言い返した。
「い、苛めてないわよ! ちょっと質問してただけよ!」
「それにしてはイルカさん、顔真っ赤じゃないよ。なーに話してたかしらないけど、そんなくっ付かなくても訊けるでしょーが」
「イルカが素直に吐かないからよ!」
「素直に言えないような質問したわけだ」
う、とアンコが言葉に詰まった。
イルカといえば、突如として形勢のかわった現状を、涙をつけたまつげを震わせて見ていた。
呑んでいるあいだ遠くにいたカカシが、近くにいる。しかもイルカを助けてくれた。
回転のおそい脳みそに、その事実がじんわりと沁み込んだあとに、ちがう事柄もじんわり沁みてきた。
アンコの白状させられそうになっていたこと。
なんて恥ずかしいことを白状しそうになっていたのか。
頬が燃えるように熱くなって、イルカは俯いた。
目が潤む。
カカシとアンコはまだ話している。
目を細めて仁王立ちするカカシはとてもかっこ良い。
涙でよく見えなくても、すらりとしていて顔もよく声もよく、イルカの一番だ。
惚れ惚れする。
そのカカシを。
そんなカカシをおもいながら、自分は―――。
思い至った瞬間、イルカは一番近い、へばりついていた温もりへと力いっぱい抱きつき、そして叫んだ。
「―――だ、だって、カカシさんが居ないんだから、仕方ないじゃないですかー!!」
今度こそ、場は凍りついた。
イルカのセリフにではなく。
隣のイビキへと熱烈に抱きついたイルカを前にした、カカシの放った震えるほどの殺気によって。
「―――イビキ、イルカさんから離れろ…」
「ちょ、ちょっとまてカカシ! これはイルカがだな! おいイルカ! 正気に戻れ! アンコ、お前飲ませすぎだ!」
「あたしのせいにする気!? 紅だって飲ませたじゃない!」
「私に回さないでよ! イルカ、しっかりなさい!」
「ちくしょう面倒くせえ奴らだ! お、おいカカシ! 手ぇ光らせんな! チャクラが集まってるぜ!」
「―――イルカさん…イビキがいいならそうと言ってくれれば…」
「まずいな、カカシさんは正気を失っているようだ」
「冷静に状況判断してる場合かゲンマ! お、おい! イルカ、頼むからイビキから離れろ!」
「んー! 青…ッ春!!」
「ガイ、あんたカカシのライヴァルとか言ってんじゃない、止めなさいよー! いや! なんかバチバチいってるー!」
「はっはっは、俺だとて怪我はしたくないぞ!」
「胸張って言えることかー!!」
「俺だってしたくねぇ! くそ面倒くせぇ! 雷切か…!」
「あたしまだ締めのパフェ食べてないのに!」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! あたしだって最後は伊蔵にしようと…!」
「応戦しろー!!」
のち、この酒屋では、忍び関係者の利用についてこう張り紙をだしたそうだ。
乱闘死闘絶対厳禁、と。
2005.08.30
→カカシの事情へ?