さて、アカデミーの仕事が定時をやや過ぎて終わるころ、イルカはちょっとした頭を働かせて、一足先に職員室からでた。手には薬品庫の鍵。それを上忍待機所にいるだろう薬品管理担当の上忍に渡すという用事をすませて、仕事を終えるという名目だった。
もちろん、頭のなかには、職員室までカカシがもし呼びにくればどうしよう、という考えがあってのことだ。そのためにわざわざ、待機所までいく用事をきいて預かってきた。
カカシが待機所にいるかどうかは分からなかったが、イルカはとりあえず待機所に向かって、用事の上忍を探した。案外あっさり見つかり、鍵を渡してから、イルカは部屋のなかをぐるりと見渡す。
観葉植物があり、窓側が円形になっているこの部屋は、人影がみつけにくい。
窓側まで回ってみたが、カカシの姿はなかった。
「…どこに行ったのかな、カカシさん」
独り言をいったとき、ふっと背後に気配がたった。音も無く。
そして至近での美声。
「あ、イルカさん、すいません。職員室いってました」
「―――…ッ!」
心臓が、大きく飛び上がった。
あまりに耳元ちかくでその声が聞こえたから、息まで飲んでしまった。
相手は自分と背丈が同じほどだから、わざではないだろうけれど、覚悟もなしに耳元近くで聞きたい美声ではないのに。
そろりそろりと振り返ると、ばつが悪そうに頭をかいて立つカカシ。
「カカシさん…」
「はい」
「お願いですから、前に出てください。前に。後ろではなく」
「はい、すいません」
そういえばずっと前にもこんなことがあったな、と思い出した。去年の夏前だ。アカデミーに配属されたてのころ、背後からおどかされて書類を廊下にばらまいたっけ。
あのときもたいそう驚いた。
カカシは上忍らしく気配を立つことがとても上手い。
それでも、イルカにはカカシがその場に居れば見つけられる自信があるが、こうやって瞬身の術のようにまたたくまに忍び寄られては、見つける間もない。だからみっともなく驚いてしまう。
「―――職員室へ行っていらっしゃったんですか」
「イルカさんが待ってるかと思って」
「すいません、来ていただくのも心苦しかったので俺からカカシさんを探していたんです」
「そう」
カカシは目を弓なりに細めて、ちょい、と部屋の外を指でさした。
「じゃあ、行きましょうか。みんな、先にいって待ってるみたいだから」
二人でならんで歩く気恥ずかしさを抑えて、イルカは今回の酒宴の面子をきいてみた。カカシは小首をかしげながらも、言い出したのはゲンマではなくアンコと紅で、他のメンバーはアスマとゲンマ、それからカカシとイルカ、他には適当に出たり入ったりするようだと話した。
「適当、ですか…」
「もともと待機所で暇をつぶしてたやつらが集まるような感じみたいだから。座敷だし途中で入ったり出たり出来そうだけど、イルカさんはあいつら、最後まで離してくれないかもね」
「俺、です? 最後までってどういう意味ですか?」
「ごめんね、なんでかみんな、イルカさんに興味があるみたい。俺関係で」
苦笑といっしょに言われれば、なんとなく察しがついた。
カカシに付いた悪い虫、とまではいかないだろうが、アスマや紅をみていれば、カカシを通しての「イルカ」に興味がわくだろうということは想像できる。
さいきんでは、カカシの個人的な時間の多くを占有しているのと同じだから、よけいにだろう。
だがゲンマに声をかけられたときは、そんなことは微塵も思いつかなかった。
みのほど知らずな考えだろうが、カカシの仲間内への顔見せのような気がして、いきなり肩が重くなってくる。
悪い意味で見世物になることはないと信じたいが…。
「でも俺も居るし、イルカさんに意地悪はしないようにいってあるから、気楽にしててね」
「はい…でも緊張します。待機所、ということは上忍の方が多そうですし…」
「うーん、それは心配ないと思うんだけど、それよりも心配なのがあの二人なんですよね」
「アンコさんと紅さんですか」
カカシが苦笑しつつ頷いた。
もちろん、イルカは顔を知っている。紅のほうは一ヶ月前に任務を一緒したときからだが、それからは顔をみかければ挨拶ぐらいはする。
イルカはおもに紅の顔を思い浮かべながら、言った。
「もしかして悪酔いされるとか」
「いえ、あいつらはザルだから…そういうんじゃなくて、企む、というか」
「企みなんて、されるようには思えませんが。たとえばどんな?」
「どんな、というか…なんか引っかかるんですよね…」
カカシにもはっきりとしたことは分からないらしいが、本能が怪しさを感じているらしい。「でも今回はそんなに強くいえないし…」などと愚痴のように呟く様子がなにか可愛らしく、イルカは目を和ませた。
「もしなにかお考えがあってのことだとしても、そう悪いことじゃないと俺は思います。アンコさんも紅さんも、悪い人ではないし」
「イルカさん、悪い人じゃなくても悪いことはできちゃうんだよ、面子が揃えば」
「ああ、それもそうですね」
あっさり同意すると、カカシが小さく吹き出して、イルカも一緒に笑った。
2005.08.30