わんこ。(あなたの基準→)





「それはよ、ほだされてるっていわねぇか」
「もしくは騙されてるか、ね」

 鷹揚に紫煙を燻らせながら言ったのはアスマ。
 同調するように言ったのはアンコ。
 なぜか仲良くそろって、受付備え付けの長いすに座っている。

「そ、そうでしょうか…」

 会うなり昨日からの事の次第を迫られ、どもりながらもようやく言い終えた途端の、二人の言。イルカの表情も情けなくなるというものだ。

「けれど、あの、俺は別にあの人と、その…どうこうなるわけでもないんですし、ほだされるとは…」
「甘ぇな」
「甘いわね」
「う゛」

 お願いだから、そんな真剣な面持ちでそんな恐ろしいことを言わないで下さい、と切に願うイルカだった。
 長いすの前に、まるで審判をうける罪人のような立ち位置で、イルカはたいそう居心地が悪い。しかも受付のシフトはもう始まっている。こんなところで油を売っているわけにはいかないのだが、受付を窺ってみると、当の職員からはひらりと手を振られる。こっちはかまわないから、と言ってくれているのだが、イルカにしてみれば、身売りされた気分だ。はやく、受付の中という安全地帯に戻りたい気持ちでいっぱいだった。

「そのうち見てろ、あいつのこった、俺はイルカ先生の犬ですから、とか言い出すぞ」
「あっはは! それいいねー」
「ア、アンコさん! …アスマさん! 変なこと言わないで下さい!」
「いやマジだって。んなことをそこら中に言いふらす前によ、ちゃんと躾けとけよ」
「…躾けるって…昨日も思ったんですが、だいたいいい歳をした、しかも上忍の方に、俺はそんなことを出来るつもりがないんですが」
「そう思ってんのは本人だけでよ」
「そうそう、あんたなら最適じゃない? ビシッと躾けてやりなさいな」
「……」

 ダメだ。言語が通じない。
 がっくりと、肩を下げるかわりにイルカは眉を下げた。見ようによっては、迷子になった子供の、泣く直前のような顔だ。
 その背後から、ふと声がかかった。

「お二人とも、こんなところに。火影様がお呼びですぞ」

 生真面目な声。エビスだった。今日もいつもの四角四面な顔で、黒い丸メガネをかけている。
 これで解放される、と安堵の溜息を漏らしそうになったイルカ。だが、そのイルカの姿をみて、エビスがふと眉を上げた。メガネの縁を人差し指でちょっと動かして、渋い声でのたまったことには。

「そういえばカカシ君がさきほど、イルカ君の犬になったと、なにやら笑えない冗談をいっていましたが、ああいうのは感心しませんな。不埒ですぞ! 君からもなにか…―――」

 言い続けようとした言葉は、アスマとアンコの二人の様子に阻まれた。
 長いすに座ったまま、身体をくの字に折って、声もなく笑う二人。
 反対に、言葉なく、眉をこれ以上ないほど逆立てて、肩も怒らせているイルカ。

「エ、エビス先生!」
「なにか?」
「カカシ先生はいまどこに! 今、どこに、いらっしゃるんですかねえぇぇ!?」
「―――…、おそらく火影様に呼ばれておりましたからそこでしょうが」
「…くッ」

 イルカはうめいた。さすがに火影の前までは追いかけていけない。
 だがそのイルカの無念を救いあげるものがいた。二人。
 そう、アの付く二人である。

「よぉし、んじゃ行くかー、イルカ!」
「そうねー、呼ばれてるなら行かなくっちゃね。ついでにあんたもいらっしゃいよ、ね?」
「ぇ、は、いや、でも任務のお話では」
「そうなのか? エビス」
「そこまでは存じておりませんな。ただそれほど火急ではなさそうでしたが」
「なら決まりだ。イルカ、お前ぇも来いよ」

 言って、がしっとアスマがイルカの首根っこに太い腕を回した。
 戸惑い躊躇うイルカにはお構い無しに、ぐいぐいと進むアスマ。イルカが根をあげるのは早かった。


「わ、分かりました―――! お付き合いします、しますからこの腕を放して下さい!」






 そうやって、なぜかエビスまで引き連れて四人で訪れた火影の執務室。
 だがあいにくと求める姿はなかった。
 どうやら既に用をすませ、どこへやらと去ったらしい。アスマとアンコはそのまま執務室に。エビスは「それでは」と行ってしまった。去り際に「人を躾けるのは並大抵のことではありませんぞ」などと、親切なのか痛烈な嫌味なのかわからない言葉を残していった。
 さて、とイルカは選択肢に迫られてしまった。
 もう少しこのあたりを探すか、勤務中の本来の業務に戻るか。
 執務室の扉から離れて、廊下でひとり「うーん」と考え込んでいると、そこへかかった呑気な台詞。

「あれ〜、なにしてるんですか? イルカさん」
「…! カカシ先生! なんで居るんですかっ?」
「え? いやそれ、俺が訊いたんですけど…まあいいや。俺は訊き忘れたことがあって火影様に用なんですけど」
「そうですか…―――ッて、俺、あなたを探してたんです! てか、その前に窓枠から降りてください! 行儀悪いですよ!」
「あ、すいません。そうなんだ、行儀悪いんだ」
「そうです!」

 大人しく「よいしょっ」と、入ってきた窓枠から降りる上忍。なかなかに聞き分けは良い。

「イルカさんはどうしたの? 俺に何か用?」
「それです!」
「え、なに?」
「カカシ先生、エビス先生になんてこと言うんですか…! あぁいうことを人に言ってはいけません! それを俺は言いにあなたを探してたんです!」
「…? あぁいうこと…? ってなに? 俺なんか言ったかなぁ」

 はてな、と心底不思議そうな上忍に、イルカのボルテージが軽く怒りの沸点を超えそうになった。あくまで非常識で節操がなくて口が脳味噌と直結していて、しかも垂れ流し男だというのか。最低は最低なのか。

「あんたは…!」
「あ、イルカさん、また皮がはがれてるー」
「? はっ? なんですかいきなり、皮? なんの」
「だからー、怒ったらすぐ言い方とかが乱暴になるね。まあ、そういうのも男らしくてなかなかそそるけどねー」
「…ッ!! …いいですか、カカシ先生、昨日、あなたは俺に何かとご注文をつけられましたが」
「やだな、注文じゃないよ。お願いだよ。俺を躾けて、って。ふふふー、俺ね」

 聞いてはいけない。
 寸前に、己の五感がそう盛大に叫んだ気がしたが、不運なるかな、イルカは聞いてしまった。



「イルカ先生の犬になったんだよね」



「――――――…ッがーう!!! 違う、違います!! その考え方は間違っている! カカシ先生! それは大いに違います! てか犬て! その表現は何なんだ!! 俺はブリーダーか!? 頼むよおい!」
「ぅわー、どしたのイルカさん。突然のヒートアップ」
「あんたが言うなー!!」

 どがしゃーん、とここにもしちゃぶ台があればそんな音がしていたに違いない。
 だがここは執務室前廊下。
 そんなものはない。
 はあはあと肩で息をして、イルカは声を絞った。

「いいですか…っ、犬とか、躾けとか、人前でいってはいけません…!」
「そうなの?」
「そうなんです! 常識ではそうなんです! 聴いた人が変な想像をするんです!」
へぇ〜

 感心しきったような「へぇ〜」。イルカは今まで、こんなに無邪気で無責任な「へぇ〜」を聞いたことがなかった。一生聞きたくはなかったが。

「―――人前で言っちゃダメなんだ?」
「ええ、そうです!」
「人前って、ちなみに、人の前、だよね」
「は? …まぁ、そうですね。もちろん人がたくさんいるところでも人前、っていいますからね!」

 国語辞書を引け、といいたくなるようなこともちゃんと付け加える。
 だがイルカは甘かった。
 カカシがどうして、目をくるりと嬉しげに瞬かせて聞いてきたのか、うっかりしていた。
 心がまえをするべきだった。
 だってね、とカカシは言った。

「もう遅いと思うんだ。俺、けっこうな数の人に言っちゃったし、人がたくさんいるとこでも言っちゃったよ? イルカさんの犬になったって。みんな驚いてたけど」
「――――――…!!! あ、あぁ、あんたって人は……っ!」
「あはは〜、驚いた?」

 これでもう公認だね〜。

 泡を吹いて倒れられるものなら、倒れたい。
 よろりとふら付いた身体を、廊下の壁で支えてイルカは真っ白になった。どうせなら頭髪まで黒から白になってくれれば、この苦悩があますところなく表せるのに、と残念なほど真っ白になった。

「変な想像、いっぱいされちゃったね〜。でももう言うなって言うなら、俺、控えることにしますね〜。ちゃんといい子でいないと、イルカさんに捨てられちゃうし。ね? 捨てないでね、俺を捨てないでね、イルカさん?」

 なんとも聞き分けの良いカカシの声は遠かった。
 イルカには、いい子で居ようが居まいが、今すぐにでも空き箱にその長身を詰め込んで、木の葉の大通りに捨てに行きたい衝動で、いっぱいで。
 カカシの声はあくまで、遠く。
 涙が、でてきそうだった。



2003.12.09