抜けかけ。(あなたの基準→)





 なんだなんだと、声がしたは、イルカが燃え尽きた数拍後だった。正確には、カカシが火影の執務室へと姿を消したのち。
 真っ白なイルカの前に、のっそりと姿をみせたのはイビキと、そして紅だった。
 イビキがじーっと放心状態のイルカを見、そして傍らの麗人を振り返る。

「これはどういうことだろうな」
「さあ」

 答える紅の言葉は明瞭簡潔にして、見も蓋もなかった。
 彼らはこれから火影の執務室を訪れるところであり、ここで油を売っているわけにはいかなかったが、あいにくとここはその執務室から目と鼻の先で、しかも真っ白になっているのは見も知らない人間というわけでもない。日ごろ、どこかしこで姿をみる中忍、イルカだ。その素直で温かい人柄は、子供ばかりでなく、すさんだ上忍の間でも高評を得ている。

「おーい、イルカ?」
「…なにか、燃え尽きた、って感じかしら。タマシイ、半分出てる?」
「そりゃ困ったな」
「ねぇ」
「うーむ、俺は霊感なんぞないから探そうにも探せんな」
「そりゃ困ったわねぇ。私も無いわ」

 微妙に、どころか大胆にずれた困り方を二人はして、うむむとイルカの前で唸った。
 だが困っていてもイルカは戻ってこない。
 いま、イルカの頭のなかには「犬」と「躾」と「みんなの噂」、加えてなぜか「調教」といった単語が空前絶後の大乱舞で脳裏を駆け巡っていた。止めようにも止められない勢いで。ゆえに、イルカの目も、視線は前を見ているが、それに映る二人は見えていないのだった。

「だがこのまま放っておいてもいいものかな。ここだと、来た者がイルカに躓くかもしれん」
「そうねぇ、困ったわねぇ」

 およそ忍びが、この視界の利く昼日中でしかも廊下で、堂々と放心しているイルカに躓くとは思えなかったが、あいにく、イビキは大マジだった。顔とは違い、とても人が良い。

「身体も冷えるし、しょうがない、ちょっと医務室にでも運んでくるよ」
「あらそう? じゃあ私は先に目通りさせていただくわ」
「ああ、そうしてくれ」

 そしてイビキは、イルカの前にしゃがんで「よっ」という掛け声とともに、こともなげにイルカを抱え上げた。お姫様抱っこ、というわけではなく、肩に米俵のように担ぐ、まったく荷物のごとき扱いである。だがそれにイルカは文句をいうでなく、大人しく担がれている。
 すると、ちょうどそのとき、執務室の扉が内側から開き、二つの人影が出てきた。アスマとアンコだ。二人はすぐに紅とイビキを認め、そして視線が自然、イビキの肩に移る。
 にやり、とアスマの頬が緩んでイビキに声がかかる。

「おっと、やるねぇ、イビキ。略奪愛はやっぱ人妻か?」
「誰がだ。寝ぼけているのか?」

 呆れたイビキの返事に、アスマは豪快に笑った。
 アンコが不思議そうに言う。

「どこに持ってくの?」
「医務室にな。どうも反応がないんでな、このまま置いておくのもどうかと思ってな」
「ふぅーん」

 ちょこちょこと近づいて、アンコがイルカの顔をのぞき見る。
 そして納得したように何度も頷いた。

「確かに反応なさそうね。さっきカカシが入ってきたけど、―――なんかあったかな?」

 火影の執務室は、ある意味絶対防音。内外両面において。少々の怒鳴り声など、どこか階下の広間で誰か叫んでいるかな? という程度に聞こえるものだから、アスマとアンコが、先ほどのイルカたちのやりとりを聞き逃していても不思議はなかった。むしろ、火影と対面しているときに、扉外のことへ気をかまけていては叱責が飛んだだろう。

「あーあ、目ぇ開けたまんまだよ〜。お〜い、イルカちゃーん。悪戯しちゃうぞー」

 などとアンコが言った瞬間だった。
 ふわっと廊下の空気が舞って、音も無くこの場に揃う最後の一人が現れたのは。
 むっつりと不機嫌な様子のカカシだった。

「ちょっと、そこのおしるこ女、俺のイルカさんに、変なことしないでーよね」
「チィッ、もうちょっと居ると思ったのに」
「急いで出てきたんだよ、イルカさんほったらかしなの思い出して」

 思い出すまえに、放心状態のイルカを放っていってしまうことが問題だった、が、それを指摘する人間は、幸か不幸か、一人も居ない。

「ともかくイビキ、イルカさんを降ろしなさい。触っちゃダメ」

 びしぃっと人差し指を、イビキの鼻先数センチまでつきつけて、カカシは言った。
 強面が苦笑した。

「分かった分かった、だがどうして触るのが駄目なんだ? お前の許可がいるのか」

 からかうような口調である。
 実際、イビキはこの見た目だけは逸品、中身は最低男が、どうしてイルカにこうまで構い付けているのか興味があった。今までは、美しく表現して「去るもの追わず来るもの拒まず」であったのに。ちなみに悪し様に表現すれば「節操なし」である。

「要る要る、もう、すっげー、要る」
「どうして」
「俺はイルカさんに悪い虫がつかないよーに見張ってんだよ、分かる?」

 それを聞いて、ぶっと噴出したのは背後の三人。アンコにアスマに紅だ。
 アンコが「虫っ、虫がなんか言ってる! おっきい虫が!」と笑っている。紅は少しばかり冷静に「灯台下暗し、自分で自分のことがわからないって本当ね」と生温い笑みだ。アスマなんぞはコメントもなく腹をかかえてひーひー笑っている。嫌な奴だ。

「そこ! バカ三人! 笑うな!」
「まぁそこらへんにしとけ、カカシ。…ほら、イルカは返すから」
「お、サンキュ」

 そしてイビキは大人だった。少なくともこの場においては誰よりも。イビキは身を屈めて、イルカを引き渡そうとした。そのとき、ふと思いついて訊いた。

「それにしても、悪い虫とはな。そんなに親しくなっていたのか?」
「え、なんで」
「なんで、ってお前…、そりゃ悪い虫を払うにはイルカの承諾も要るだろうが」

 やれやれといった風にイビキが言う。カカシが首を傾げた。

「要らないよ?」
「…そうなのか?」
「うん、だってさ―――」

 嵐の予感。  来るべき暴風雨が、その予兆を予感させて、銀色の男の形をとっている。ちょっと小首を傾げた可愛らしい格好で、いまだ成長しきっていない脳味噌から、直結した容の良い唇から、嵐の火種が。








「俺、イルカさんの犬だし」













「―――…っ言うな、つっただろうが、この


最低男ーーーー!!!!!







 記憶喪失の人間に同じ衝撃を与えれば、記憶が稀に戻るという。
 それに同じく。
 イルカもまた、不幸にして、まったく同じ衝撃によって現実の世界に戻ってきたのであった。
 全く、―――不幸な衝撃だった。
 イルカただ一人にとって。



2003.12.11