というわけで俺はいまカカシ先生の家にいまーす。
あはははー。
それにしてもこのベッド、スプリングよく効いてますねー。あははははー。
「…ちょっと、その態度はないんじゃない?」
背中のほうから、ふてくされたようなカカシの声がきこえたがイルカは、つーんと無視した。
いまはネコの体だ。たいていのことは、本能なのだ。
カカシの家で変身してから、抱き上げようとするカカシの腕をかわして一直線にベッドに陣取った。
手裏剣柄の布団の上。
そしてカカシに背をむけて不貞寝のポーズ。
「ちょっとー」
困れ困れ。
嫌がる俺を無理やりネコにしたくせに。
そりゃ体は、もうカカシを見たとたんに擦り寄りたくて擦り寄りたくてしょうがなかったけれど、それよりも怒りのほうが勝っていた。
どうも感情が高ぶっていると、人としての思考が幅をきかすらしい。
のほほんとしていると、ネコが勝つようだ。
微妙なさじ加減が必要だが、そのさじ加減も最後のいま分かっても仕方がない。
カカシはネコになっても、まだご機嫌斜めな態度に、困っている。
さっきから呼びかけるばかりだ。
「ねー、イルカせんせーい、こっちきなよー。てか俺が行くよ?」
部屋のなかの空気が動いて、カカシが一歩を踏み出したのがわかって、イルカは本能的に耳をたてる。
黒い耳がぴこぴこと動いて、足音のないカカシの衣擦れの音だけを拾う。
そっぽを向いていても分かるカカシの気配。
綺麗な青色。
遠い空まで透きとおり沁みこむような深い青。
それに触られたい、近づきたいという気持ちはやっぱり大いにあったけれど、また静まらぬ怒り。
イルカはあと一歩でカカシの手の範囲にはいるというところで、体を起こして窓の桟へと飛び上がった。
ウッキー君と書かれた観葉植物と、写真たての後ろは、ちょうどネコ一匹ぶんの広さだ。
「あ、こら、この前みたいに逃げないでよね」
なぬ。そんな卑怯者じゃねーっての。
思ってイルカは鉢と写真たてのあいだから、尻尾をたらす。
腹がたったという証拠に、ぴたぴたと壁に尻尾のさきをうちつけて表した。
逃げやしない、という意思を了解したのか、カカシがほっと息をついてベッドに腰を下ろした。イルカは顔を窓のほうへむけているから見えていないが、ネコの感覚でとらえたカカシの動きは正確だ。
カカシはそのまま、イルカのほうへ腕をのばすでもなく、鉢と写真たてのあいだから垂れている尻尾を眺めて、しばらくして言った。
「ねえ、こっちきてよ。―――怒ってんの?」
んなー。
(当たり前じゃないですか)
「ちぇ…。言ってることわかんないし、前みたいに可愛くないし」
ムカ、ときた。
前みたいってなんだ、前みたいって。
にあーあ。
(腹立つぞこらー)
ぴたぴたと尻尾を壁にあてて鳴らす。
苦笑したらしいカカシ。
ふと柔らかい感触に、尻尾の先が掴まれた。カカシの手のひらだろうか。
ぎゅっと握り締めるのではなく、ふわりと包む感じだ。
「―――…ヤなことばっかいうから、さすがに嫌われたかな」
尻尾のさきの毛のした、骨の部分を爪でこすられて、ぴぴっと痺れが体にはしる。
触られて鳥肌が立つぐらいまで嫌なわけじゃないが、やっぱり尻尾は大事だから爪は立てないで欲しいな。
けれどカカシは離してくれなくて、しっぽは変わらずカカシの手のひらのなか。
「だって、あんまりネコんときと違うし」
にゃあー。
(当たり前でしょうが)
「他人行儀っていうの? あーんなに俺に懐いちゃってたくせにさ、とか思っちゃってねー」
ぴくっとイルカの黒い耳が反応した。
厭味のようでいて、それでいて自嘲するような声音。
今の言葉は聞き逃しちゃいけないんじゃないか?
言葉というか、意味というか。
カカシが寂しがっている。
思ったとたんに、イルカは身を起こして鉢のわきをすりぬけて、カカシの傍に擦り寄っていた。
感じていたとおりベッドに腰掛けていたカカシのわき腹あたりに、頭のうえをこすり付けて、にゃあ、と鳴く。
違う違う。
ネコで懐いてたのは、人間のときだって、好意をもっていたからに決まってるのに。
ただちょっと、―――ネコとして懐きやすかっただけで。
けれどカカシはいきなり懐いてきたイルカに戸惑ったようで、目を瞬いてイルカをみている。
「え、どしたのイルカ先生。なになに、言葉通じないんだから分かんないよ」
んなーぁ。
(懐いてまーす)
「だから分かんないって…機嫌いきなり直っちゃって…。俺だって反省を知らないわけじゃなーいよ」
苦笑したふうなカカシは、イルカの体を抱き上げて、膝の上にのせた。
膝のうえは柔らかくて立ちにくく、イルカは四本足でふんばったがふらふらと心もとない。
するとこんどは前肢のしたに腕をいれられて、びろんと抱き上げられた。
「肢がちっちゃいからこそばゆいねー。…だからね、俺も反省してます。ごめんなさい」
綺麗な青がすこし灰色がかってみえて、イルカはにゃあと鳴いた。
「あんたの態度がよそよそしくて、ちょっと癪だったわけですよ。俺ばっかり浮かれてたみたいで。だから大人気なく嫌がらせしました」
にゃー。
(はあ)
「バレたとき、あんた、すごいペコペコ謝ってたでしょ」
カカシはイルカを肩口のあたりに抱き寄せて、背中を撫ぜてくれた。その感触が気持ちよい。
気持ちよさにごまかされそうになる小さな頭で考えるのは、あの恐怖の瞬間。
もう怖いといったらなかった。
カカシの背中から、青どころか赤だか黒だか、入り混じってどす黒い紫なんだかわからない気配がもんもんと立ち込めているのを、確かに見たとあのとき思ったものだ。人間だから見えるはずもないのに。
その怖さに何もかもが頭から吹っ飛んで、事情を説明するよりさきに、イルカは謝りまくった。
こめ付きバッタの勢いで。
「あれがねー…なんていうか、余計に俺をあおったっていうか」
イルカが近くにあるカカシの横顔をみると、視線に気づいたようにカカシもイルカを見てくれた。いまは額あても口布もしているから、片方だけしかみえない目は、イルカからとても近くにあった。よく見ると青い色がまじっている瞳は、カカシの気配とよく似ていた。カカシの気配は、いまはすこし色があやふやだ。
薄かったり濃かったりする部分がある。目で見えているわけではないから、そういう気がする、というだけでしかないが、本能でそう感じる。
後悔しているんだろうか。それとも悩み? 懺悔?
イルカは、にあ、と鳴いて灰色がかった目のあたりを舐めた。
なんとなくそうしたかった。
何度も舐めあげる。
「あはは、イルカ先生、舌がザラザラしてるよ、いたーいよ」
カカシが笑って逃げるから、イルカは鼻先でカカシの額あてやちくちくする銀髪をくすぐって、ごろにゃんと懐いた。
懺悔にしろ、後悔にしろ、悪かったのはイルカなのだ。
カカシがそんなに寂しげな色をつくることはない。
揺らいでいる気配が、イルカまで寂しくさせて、ついつい寄り添ってしまいたくなる。
ネコの本能と、イルカの想いとが交じり合ったようになって、カカシの頬に鼻先を近づけて擦り寄り、喉をならした。
カカシの傍はほんとうに気持ちが良い。
嫌いなわけがない。
「あーあ、喉鳴らしちゃってさ。…俺があとでがっかりするんですけどー」
苦笑してカカシが、ばったりとベッドに寝転んだ。
カカシの肩口に肢をのせていたイルカも、そのまま重力にしたがうことになって、カカシの顔に激突してしまった。
がつん、と。
勢いあまって鼻先が、カカシの鼻にぶつかって痛かった。
にゃがっ。
(いてっ)
人間とネコでは大きさが違うことを実感した。
かなり痛かった。
カカシの胸の上でぐったりのびる。
前肢で鼻を押さえていると、カカシの指までにゅっと伸びてきてイルカの鼻先を押すから、ヒゲがぴんと伸びてしまった。
痛いってば、と文句をいうと「にゃぎゃ!」となって、でもカカシの指はむにむにと鼻先を弄くってくる。
にゃ、にゃ、にゃあ。
(て、て、いてぇって)
「―――…まあ、あれか」
んな。
(は?)
「…人間でもネコでも、仲良くなれば懐いてくれるもんだよねえ」
ぴくっとイルカの耳のてっぺんが震えたが、イルカネコの頭のなかは、やっぱり「は?」とかおもっていた。
なぜだか聞き逃せないような気配を感じたのだけれど、でも分からない。
イルカの鼻先を遊んでくるカカシの顔は、なぜか真顔そのもので、イルカに言ったというより呟いたというほうがしっくりくるような様子だった。
にあー。んなー。
(ちょっとー、いい加減むにむにしないでくださいよー)
ネコぱんちを繰り出して、嫌がるとカカシは、はっとしたような顔をしてすぐに止めてくれた。
無意識にやっていたのだろうか。
カカシの指先が、こんどは慰めるように、鼻のてっぺんを優しく撫でてくれた。
これは気持ちよくて、おもわず喉がなった。
目を細めて喉をならすイルカを、カカシも目をほそめて見ながら言った。
「ま! とりあえず今日は、この後で一楽ラーメンでも食べにいきましょっか」
ピンとイルカの黒い尻尾がまっすぐに立って、んにゃ! と返事が勝手に口から飛び出た。
カカシはそれを見て、にっこりと笑みをつくり。
これから頑張るから、覚悟しといてね。
耳がぴんと震えて、一瞬そんな声が聞こえた気がしてイルカはあたりをきょろきょろ見回した。
カカシはそんなこと言ってないと思ったのに。
そしてカカシは、そんなイルカをみてニコニコと笑っていた。
2005.5.7