「で」
「で、とは」
「だから、お前、カカシのやつとはどうなんだ。まだ嫌がらせされてるのか」
あー、とイルカは視線をうつろに流して、ごまかした。
休憩所の天井はちょっと薄汚れている。缶コーヒーは値段なりの味だ。
そして真剣な表情で迫ってきているのはイビキ。
どうも、この間からのカカシのセクハラまがい(というかセクハラだ)言動について遅まきながら聞き及んだらしい。イルカが休憩をとっていると、ひょっこりと顔をだして「ちょっといいか」と始まった。
まるでいつかの再現のようだ。
「や、その嫌がらせっていうか、…べつにもう受付では言われなくなったし…って、あれやっぱ嫌がらせだったんですか?」
「いや俺はそう噂できいたぞ。カカシが受付の中忍に、身を張った嫌がらせをやってるらしいとな」
「身を張った…」
その表現はどうかとおもう。
すばらしく的確だが。
「あのカカシが身を張るっていうぐらいだから、そりゃ凄まじかっただろう。よく耐えたな、イルカ!」
感心したような、イビキの素直な目の輝きに、イルカの笑みは限りなく生温くなった。
いえない。
カカシがどんな身の張り方をしたかとは。
こっ恥ずかしくて言えない。
きっと目撃したものもそうだったのだろう。あの台詞を真昼間に素面でいえる人間というのは、そうそう居ない。もし居たなら、里の蒼き猛獣とだって良い勝負だ。あ、すでにライバルだっけ。
「まあ…俺も悪かったことですし、甘んじて受けようかと思ってですね…」
「そうか。だがイルカもあんなに謝っていたから、これで丸く収まるだろうと思っていたんだが、奴が根に持つはと意外だったよ」
「はあ…」
俺もあんな嫌がらせ(セクハラ)されるとは意外でした。
とはイルカは言わなかった。
ただ微笑んで缶コーヒーを飲んだ。
「で、だ」
「は」
話が元に戻った。
「イルカ、それでお前、もう嫌がらせなどはされていないだろうな? 俺はそれが気になってな。元はといえば発端は俺のようなもんだし、責任を感じてるんだよ。もし未だにカカシが恨みを持つようなら、俺から一言…」
「あ、いえっ、もうはたけ上忍からは嫌がらせなんてありません、受付は人がいることですし―――」
「人がいるから? なんだ、居なければまだあるのか?」
「―――あれ、え、や、その」
どうしてこう拷問のプロフェッショナルとかいう人たちは、人を追及するとき、こんなに活き活きしてくるんだろうな。
目の輝きがいや増したイビキに、おもわず後退さったイルカだった。
その逃げ腰のイルカに、イビキは確信したようで、さらにズイッと寄って来た。
「人前でないなら、いまだ奴の嫌がらせは続いているということだな? そうだな、イルカ」
「う……」
ただでさえ巨躯。
ただでさえ、強面なのだ。
頼むからそう眉間にしわをめりめり寄せて、にじり寄ってこないで欲しい。このときイルカは初めて、スイミングボードなしで海をバタフライ横断してみたくなる気持ちが分かった。
いや子どもは裸足で逃げ出すって、これ。
「いやその、なんていうか、嫌がらせっていうのか俺にも分かんないんですけど、そのー」
「そうなんだな!?」
「ええ!? 分かりません!」
ズイッと迫られて、おもわず有耶無耶な返事をきっぱり断言してしまった。
だがじっさい、分からないのだ。
最近のカカシのアレが、先日の言動に引き続きの『嫌がらせ』なのかどうかが。
あの日、あのあとなぜか一緒に夕寝してしまい、体がむずむずするなーと目が覚めた。
とっぷり日のくれた部屋を走って、あわてて服の置いてある脱衣所に飛び込んだ。間一髪でネコから人間にもどり、服を着ておそるおそる部屋をでてみると、カカシがこちらをみてにっこりと笑ったのだ。好意的な笑顔で。
てっきり人間に戻ったとたんに邪険にされそうにおもっていたので意表をつかれ、あたふたしていると、カカシが言ったのだ。
さ、一楽にいきましょーか! 俺、腹が減りましたよ。
と。そのあとも、カカシの友好的な態度は変わらず、受付でみせていた陰険な態度はまるで嘘のように消えていて。しかも詫びだとかで奢ってくれたものだから、次の約束などもしてしまい。
何度か会ったりするうちに、カカシがにっこりと極上の笑みを浮かべながら、いった言葉。
そのうち、イルカ先生にも俺のミルク舐めて欲しいもんです。
それがあまりにとびきりの笑顔付きなものだから、喧嘩売ってんのかという発想さえ生まれなかった。
あとバリエーション的には、
ねぇ、いつか俺のベッドでイルカ先生も俺の上に乗ってね。
だとか
俺が養ってあげましょうか、可愛がってあげますよ。
だとか
あんたの尻尾の先をまた撫でてあげたいな。
だとか。
おいおいそりゃどういう意味ですか、というツッコミさえできないぐらいの笑顔で囁かれるものだから、始末が悪い。
しかも二人のときにしか囁かないのだ、あの男は。
けっして人に聞かせるような音量でもいわない。
耳にぎりぎりまで近づけて、あの容の良い唇からこれまた美声で囁いてくる。
そしてイルカが言い返せずに、口をパクパクさせているあいだに、違う話を始めてはぐらかしたり、「じゃあまた」といって退散してしまったり。
なんのつもりだ、というタイミングさえ逃しているので、カカシに真意を確かめたことはない。
ただそういうことをいう以外は、いたって好意的な人物だとおもうから、イルカもカカシの誘いを断ることが難しい。なんだかんだと、人間であってもカカシには惹かれているのだろう。
だから、あまり男で人間のイルカにむかって、ああいった強烈極まりないセクハラは止めて欲しいものだと、しみじみおもうのだが…。
もしかして趣味なのだろうか、ああいうことを言ってあたふたする様子を観賞するとか。
「…ほんと、はたけ上忍がどういうつもりなのか俺にはさっぱり分からないんですよ」
「? なんでだ、どうして分からん」
「へ?」
「嫌がらせというものは、やられている本人が嫌だと思えば嫌がらせだろうが。いくら相手が上忍とはいえ、びしっとしろ、イルカ」
諭されてしまい、イルカはさらに曖昧に笑った。
嫌というか、ああいう強烈なものでなければ、あの美声は聞きがいがあるのにな、とおもったことがあるのは黙っておこう。
本当に、あんな内容でなければ、聞き惚れることができるのに、と残念にさえ思うのだが。
嫌だとおもわなければ、嫌がらせにはならないんだろうなあ。
「はあ…そうですね、びしっと」
いきたいです、といおうとしたイルカの言葉尻は、さいきん聞きなれた声で途切れた。
「やーん。イかれちゃ、俺、寂しいでーす」
「! …カカシ! なんだいつからそこにいたんだ」
イビキは驚きつつも素早く反応して、休憩所の窓へと寄っていった。
窓の外の木の枝に、ちゃっかり腰をおろしてこちらをニコニコみているカカシ。
イルカは目を丸くして、カカシを見るばかりだ。
本当に驚いた。
さすが上忍だ、まったく気配がなかった。
「んー。さっきだーよ。イビキがまーたイルカ先生と話してるとか思ってさー」
「そのダラダラした喋り方はやめろと言ってるだろうが」
「いーじゃん。イビキに迷惑かけるわけじゃなーいし」
「かけてるだろうが、今。俺も現場の士気も下がるぞ、それは」
「あー。任務では気をつけまーす」
「うむ」
意外と仲がいいのかもしれないやりとりをみながら、ぼぅっとしていると、カカシがにこっと笑いかけてきた。
「イルカせんせー、元気?」
「は、はいっ、元気ですっ」
「そーお? イビキに意地悪されたら教えてね。俺が仕返ししてあげる」
ちょっと待て、とイビキが割って入った。
イルカが違うと返事をする間もなかった。
「お前ならまだしも、なんで俺がイルカをいじめるんだ。そうだ、お前、さっきも話してたんだ。イルカに嫌がらせしてたそうじゃないか。気になってな。今でもしてるのか、どうなんだ」
「えー? 俺が? イルカ先生を?」
「イビキさん、それはもう解決というかっ」
イルカはどきまぎして割り込もうとしたが、やはりカカシのほうが早かった。
イルカのほうに、ちらりと流し目をよこし、意味ありげに笑う。
「今も嫌がらせかどうか、ってのはイルカ先生にきかないと駄目じゃなーいの?」
「訊いたんだが、イルカは分からんといってはっきりしなくてな。大方、お前に遠慮してるんだろうと思うんだが」
「本人が分かんないって言ってるんだから、それでいーんじゃない? ねえ、イルカせんせ?」
二人に見つめられ、イルカはただ頷くしかできなかった。
心のなかでは「いったいなんでこんなことになったんだろうな」と黄昏ていたが。
カカシのことは人生の先輩として、忍びとして尊敬できる。好意も持っている。
だが、なぜここで頷くことでカカシににんまりとされ、背筋にぞくぞくっと寒気のような痺れのようなものが走るのだろう。
どうも、カカシとの関係の作り方を、はてしなく間違えているような気がして、黄昏てしまいそうになる。
なぜ。
「ともかく、お前、イルカを苛めるのはやめろ。そうでないと」
「そうでないと?」
「イルカがネコになるのを嫌がって仕方がない!」
ズルッと滑りそうになった。
イビキさん、なんですかその理由は! と口をぱくぱくさせるイルカを傍らに、イビキは拳を握る。
「お前、イルカの肉球を触ったか?」
「は、あるよそりゃー。ぷにぷに柔らかぴんく色のあれでしょー」
「…や、あの、それって」
「そうだ! 俺はまたあの肉球に触りたい。この間はイルカは逃げ出したからな。また暇をみて触らせてもらおうと思っていたんだ。だがお前がイルカを苛めるのであれば、それも言い出しにくいじゃないか!」
「へー。イビキって肉球マニアだったんだ?」
「マニアじゃないが、あれは素晴らしい」
「んー。まあ、それは認めるけどさー」
「……イビキさん、言い出しにくいって、今俺の前で言っちゃってるじゃないですか」
イルカは小声で突っ込んだ。ゆえに、イビキにもカカシにも無視された。
ああ、黄昏れるなぁ。
「でもさー、イルカ先生はこの先、俺のまえ意外じゃネコ禁止なのー」
「え! なんでですかっ?」
「そうなのか? なんでだ」
おもわずイビキと声がそろってしまった。
カカシは、枝に腰をおちつけたまま、今日も昼ね日よりだねぇとでもいうように、のんびりと言った。
「だってネコでもイルカ先生でしょー? イビキに触られるの、俺が嫌だから」
は? とイビキがあんぐり口をあけ、イルカも混乱した。
わけ分からん。
上忍にそのまま言うのは憚られるが、ほんと分からん。
そんなまるで、嫉妬のような。
だってネコ相手に。
混乱したイルカに、とどめのようにカカシの浮かれた声。
「つーまーり、俺は人間からネコまで、イルカ先生をー、愛しちゃったってこーと ♥ 」
その後、イルカがネコになることは二度となかったが、ある薬研部の幹部の言によると、じつは身の危険を感じたときのためにつねに完成品を、タグとともにその身につけているという。
さらに、「…使ったって、確実に危険が去るってわけじゃ…ていうかあの人にも人間としての最後の理性をもって…獣姦はさすがに…いやいやいや…」と、ぶつぶつ呟きながら、遠い目をして黄昏ているイルカが、ときおり見られるようになったらしい。
そして、ある上忍の言によると。
春は恋の始まる季節だからね ♥ ―――なのだそうだ。
2005.5.7