「いい加減にしてくださいよ!」

 その姿を確認して飛んできて、傍らに立ったとたんの怒鳴り声。
 夕焼けも素晴らしく里いちばんの特等席での眺めだったのに、それを吹き飛ばす勢いの声だった。
 カカシはあえて無視して、入日色の空を眺め続ける。
 座っているこちらを、息切らせた彼は凝視してまた口をひらいた。

「わ、私は謝ったじゃないですか! 申し訳ありませんでしたって何度も、何度も…!」
「……」
「騙すつもりなんて無かったんです…! 本当に!」

 おそらく受付業務の交代と同時に飛んできたのだろう。頬がまっかだった。
 目もうるんで、いまにも泣きそうだ。
 カカシは横目でそれを確認しつつも、返事はしなかった。

「だからもう受付であんなこというの勘弁してください…っ。首輪買ってあげたのにとか腕のなかで震えてるあんたは可愛かっただとか爪で引っかかれた痕が傷むだとか…! おかげでもう誰も俺と受付、組みたがらないんですよ…!? 今日だって、なんにも知らない別部署の人にわざわざ頼んでたのに、あぁぁ、明日の受付のシフト、誰に頼めば……」

 人生の終わりのような声で吐き出してから、キッとイルカはカカシを睨む。

「はたけ上忍においても不名誉な噂を流されるのはご不快でしょう!? どうかもう止めてくださいっ。私に非があることですが、気もお済みになったでしょうっ、私も忘れますからどうかはたけ上忍もお忘れに…―――」
「やーだよ」
「…は!?」

 給水塔の上は風がすこし強い。
 イルカの髪のてっぺんが、風にあおられてなびいている。それをみるとあの猫の黒い毛艶を思い出した。

「俺は忘れないよ。べつに噂を流されてもかまわないし。だって全部本当のことじゃない」
「…っ、本当は本当でも、あれは猫の私です! ここにいる人間の私とは違います!」

 きっぱりとイルカが言い切った。
 カカシはそれを座ったまま見上げる。
 淀みも迷いもなく言い切ったイルカが、憎たらしい。

「―――…そうなんだーよね、あんたとあの猫とは違うんだよねえ」
「そう、そうなんですよ、分かっていただけますか…っ」

 あからさまに安堵の表情を浮かべたイルカ。それもまた憎たらしい。
 カカシだとて分かっているのだ。
 あれからイビキや薬研部の人間に問い合わせ、裏を取ったところ、試作品のばあいでは人間の理性の部分は、おおかた猫としての本能に侵食され、記憶は残るものの思考や行動は、きわめて猫本来のものに近いという。
 だから、イルカ猫がカカシにあれだけ懐いてみせたのも、イルカがカカシを好いているという理由があるからではなく、カカシが猫に好かれる秋波を持っていただけのはなしで。
 そう、イルカがカカシを好いているという理由があったわけではなく。

「…でも、ねーえ」
「は」

 イルカの顔が緊張する。
 この距離感が、ほんとうに憎たらしい。
 カカシが座って見上げているイルカとの、数歩分の距離。
 先日はたしかに腕のなかで喉を鳴らしていた動物であった人が、いまは眉間にしわをよせて「忘れてください」というなんて。
 この隔たりが。

「俺としちゃあの猫が居たっていう事実はかわらないんだし? 忘れてっていわれてもハイソーデスカって簡単にはいえないよねーえ。忘却術でもかけない限りはねえ」
「…それは私に術をかけろということですか」
「まさか」

 にっこりとカカシは笑って見せた。

「中忍に術かけられるほどボンクラじゃなーいよ、これでも上忍なんで」
「……」

 イルカの鼻筋あたりがぴくっとしたのをみて、カカシはすこしだけ溜飲をさげた。

「…じゃあ何をしろと」
「話が早いねーえ」
「茶化さないでください。早く言って下さい。休憩時間を抜け出してきてるんです」
「わあ、まだ仕事あるんだ? アカデミーの先生って大変だねぇ」
「はたけ上忍!」

 あのとき廊下で聞いたとおりに、語尾まではっきりと発音する、めりはりの効いた声。
 賑やかしくも寂しがりやな部下から、よく話だけは聞いていた。
 あったかくて厳しくて、でも優しくて間抜けな先生だと、きらきらと目を輝かせて語っていた。
 その純粋な想いが移りでもしたかのように、カカシにしては珍しく、うっすらと好意さえ抱いていて。
 だからもしネコとしてのイルカのあの懐きようが、人間としてのイルカの本心からの行動だったなら、まだ。
 まだ譲歩しようもあったのに。


「じゃあねえ、もう一回ネコになってよ」



 だって、ねえ。
 カカシ⇔イルカだと思ったら、カカシ→ネコだったって―――酷いんじゃなーい?



2005.5.7