ギリギリと胃のあたりが痛みだして、イルカは奥歯をかみ締めた。
 夕方には少し早い時刻。
 受付にはまばらな人影しかなく、受付員もイルカともう一人ぐらい。
 そしてあの人はやってくる。
 必ず、やってくる。
 イルカの方へ。
 気配がどんどん受付所の外の廊下を歩いてきて、もう顔がみえるのも歩数の問題。

 …い、胃が痛い。

 もう気分はまな板の上の魚だ。手に握り締めたボールペンもみしみしと音をたてている。
 あと二歩。あと一歩。
 次の瞬間、大きく陽気にかけられた美声に、ペンがついにボキッと折れた。


「やあやあ、俺の可愛い子猫ちゃん、元気してた〜?」
「―――…はたけ上忍! 受付所では静かにお願いします!」


 あぁぁ、隣の受付からの視線が痛い!
 なのにこの根に持つ上忍はまっすぐ俺のところに歩いてきやがりなさる!

「そ〜お? ごめーんね? もお何ていうの、俺ってばあんた見たら猫まっしぐら、っていうか? あははー、あんたじゃあるまいしねーえ。ねぇ、俺の子猫ちゃん?」
「………」

 わざわざ、受付の机に片手をついて、流し目をよこす上忍は、いうまでもなくはたけカカシその人で。
 真っ白になっているのは、イルカじゃなく受付に居合わせた人々だ。
 イルカといえば、ぶるぶると顔を真っ赤にして、ズイッと手のひらを上にして、カカシに差し出した。

「ん? なーに? なんのオネダリなのかなー? 子猫ちゃんたらー」
「…ッ、報告書ッ! お願いします!」
「あー。そー、そーいうものもあったよねー確かー」

 白々しく天井のほうへ視線を流すのも腹立たしい。
 最初ッから分かっているくせに、もたもた時間をかけて胸元から報告書をだすのを見ているのも腹がたって、イルカはちらっとみえた紙の端を掠め取ろうとした。
 だが相手は上忍。
 あえなく避けられ、イルカの手はスカッと空をつかんだ。

「だーめだめ。焦っちゃダメだよー」
「ここは受付所です! 報告書を早く出してください!」
「んー。なんだか素っ気ないなー。俺のミルクを一生懸命舐めてくれたあの可愛い子猫ちゃんはどこに行っちゃったんだろうなー、あー、残念だなー。あー、ほんと残念ー。もう一回あの可愛い格好を見せてくれて、俺のミルクを飲んでくれたら、俺も素直に報告書、出すのになー」

 ―――ざわっ、と受付がどよめいた。
 イルカの眉間がまるで地割れを起こした断層のようになっていく。

「…ここは受付所だっつってんでしょ、何もなくても報告書を誰しも素直に出すとこだ…ッつーの!」

 ダンッ! と掴み損ねた拳を机に叩きつけてイルカは唾を飛ばす。
 だが上忍はどこ吹く風だ。
 血管が切れそうになる。
 あんなに。あんなに、ネコの目からみたこの人は綺麗な人だったのに。

「えー? 誰しもじゃないじゃない、俺がいるじゃない。ね?」
「なにが、ね? だ、この陰険上忍! 毎日毎日毎日、飽きもせず…っ」
「まあ陰険だなんて、口のききかたがなってなーいねえ。俺、躾まちがっちゃったかな?」

 んー? と片目だけのくせににこやかに笑って、ひらひらと紙切れをみせびらかす上忍。
 つまびらかにセクハラを受ける中忍。
 受付は緊迫していた。

「子猫ちゃんがー、どーしても欲しいっていうんなら、それなりの躾の成果を見せてほしいねーえ?」
「…成果ってなんですか」
「語尾にニャアってつけて

 可愛くお願いね、と笑顔で追加注文。
 いまや受付の視線は、二人に集中していた。
 とくに黒髪のポニーテールのほうに。
 くくった髪の毛のさきっちょが、ぷるぷると果敢なげに震えている。
 ガンバっ、と幾人もが心のなかで捧げた祈りが届いたのかどうか、緊迫の数秒間を過ぎて、搾り出すような声がいった。



「ほ、報告書をお願いします………にゃ…あ



 のちのち、イルカはいった。
 あの時、俺は男として人として、大事な何かを売ッ払っちまったんだ…と。



2005.5.7