さて、家につくと、いったい何をして遊ぶのかとおもいきや、なんとカカシがミルクをくれた。
わざわざ新品だというペット用皿をだしてきて、入れてくれたのだ。
もし忍犬用のを洗ってだしたなら拒否ってやろうと思っていたから、イルカはありがたくご相伴にあずかった。
とはいえ「ご相伴」などという上品な言葉より、餌付けされた、というほうが似合っていたかもしれない。
カカシが新品のお皿をだして、冷蔵庫から牛乳パックをだして皿に注いでくれるのを目の前で待っていると、もう頭のなかが、ミルク、俺のミルク! という単語でいっぱいで、しずしず飲む、などということはできなかった。
ちょっと俺ってネコになりきってるんじゃない、とは飲み終わってからおもった。
イビキが試作品、といったのも分かる。
これでは任務はできないだろう。
なにせ、目の前の欲求に理性がくらんでしまうのだから。
ミルクがついているヒゲあたりを前肢と舌で綺麗にしながら、もうちょっと理性的に行動しなくちゃな! と考えているとカカシがまた抱き上げてくれた。ふわーっと体が浮いて、あっというまに腕のなか。
にゃぁん、と甘える声がでて、そしたらカカシが喉の下をくすぐってくれた。
すぐにうっとりとなってしまって喉を鳴らしていると、
「そーだ、俺の忍犬、見る?」
と言い出した。今度は即物的なものが目の前になんにもないから話がわかる。
でも返事をしないで目でじぃっと見つめていると、カカシが苦笑した。
「話は通じるから噛まないよ、大丈夫」
にゃーにゃ。んなー…。
(そういう話じゃないんですけど…見ていいのかなって…)
忍びの使役動物は、そうほいほいと見ていいものではない。また見せるものでもない。同じ里のなかといっても、気軽に明かしてよい手の内ではないのだ。
それをイビキと契約していると思われているからといって、気安く見せてもらうのは気がひけた。
じっさいの自分は人間で、しかも中忍なのだし、カカシ先生って無用心だなぁ、とまでおもう。
もし情報が分析されてほかに流れれば、命の危険にさらされるのはカカシなのに。
こんなきらきらした綺麗な人が、命を落としてしまうなんて、絶対にいやだ。
だから見せてもらうのはいやだな。
獣と、人としての理性がごちゃまぜになったことを考えて、そのままじっと見ていると、カカシの指先が頭のてっぺんあたりをこりこりと掻いてくれた。背筋をぴぴっとこそばゆさと気持ちよさが駆けていく。
「もしかして遠慮してんの? 大丈夫だーよ、お前を信用してるわけじゃないよ」
ふるふると気持ちの良い声に体がとろけそう。
「そういうんじゃなくて、お前に見られてもかまわないんだ。漏れてまずいものを見せるわけがないから、安心していいよ。だいじょーぶ」
カカシの気配は綺麗な青。
透明な冬と秋と春と夏の空、いっぺんをあわせたよりも綺麗な色。
その色は濁らずに、心地よい声をイルカに降らす。
カカシが言っていることは、嫌なことじゃない。
イルカを否定するようなことじゃない。
それよりも、イルカのことを考えて言ってる言葉だと感じる。
聞くよりも空気から感じとったことは、イルカに喉を鳴らさせるには充分だった。
「ん? 喉鳴らしちゃって、気持ちよさそーにして。俺の話、聞いてんの?」
くすくすと微かな笑う声が降ってくる。
イルカは嬉しくなって「んなー」と返事をした。
カカシが見ても大丈夫というなら、イルカも見てみたい。
そう思ったのが伝わったのか、カカシが頷いた。
「そっか、んじゃ呼び出してみよっかね。えーと、場所は・・・お前はベッドにでも乗っといて」
ぽぅいっと放られて、とっさで受身もとれずにベッドのスプリングへと、ぼよんとダイブしてしまった。
うひゃー危ないなーもー、と思っているとカカシが声もなく腹をかかえて笑っている。
どうしたんだろうと見ていると、指をさして言われた。
「おっまえ、ほんとにネコ? 見ててマジに和むねえ」
見ていて和むというのは褒め言葉なのか。
とりあえずイルカは、放り出したくせに笑っているカカシにうなってみせる。
酷いじゃないか、自分で放ったくせに笑うなんて。
そうすればカカシは軽く謝って、それから手早く忍犬を呼び出してくれた。
ベッドのまえにズラッとならんだ忍犬たち。
うわぁ! と目がいっぺんにきらきらした。
唸っていたことなんて吹っ飛んだ。
怖い、でもカッコ良い!
んにゃーっ、と興奮した声をあげると、カカシが
「はーい、お前たち、おとなしくせいれーつ」
掛け声をかけた。
だが掛けるまでもなく、忍犬たちはやる気がなさそうに、すでに床に寝そべっている。
呼び出された場所がカカシの家であったからだろう。
一匹の小さな忍犬が、代表して意見を述べた。
「拙者らはすでに大人しくしておる。それにしても今日は休みだったと思ったが」
「あー、ごめんねー。いやね、お前たちにこいつ、紹介してやろうと思って」
いわれて、イルカの体がひょいっと持ち上げられた。
犬たちの目の前にぶらんと下げられる。
イルカはまるでつきたての餅のように、伸びきった感じでぶら下がっている。
カカシの手のひらはとても大きく感じられて、気持ち良いうえに安心してしまって緊張できないのだ。
「・・・なんだ、こやつは」
「ネコ」
「みればわかる、そんなことは。・・・いや、ネコ、か?」
ぎくん、とイルカはあせった。
小さい犬のつぶれたような鼻が、くんくんとイルカにむけて鳴らされた。
やばいやばい、俺そういえばほんとはネコじゃないんだよ、人間なんだよ。
んにゃ! にゃーにゃー、にゃーん! んなー!
(あの、俺のこと黙っててくれ! 頼む! お願い!)
「あれ、どうしたのお前。いきなり鳴き出して…大丈夫だって、こいつら、ネコだからって噛んだりしないって」
にゃにゃにゃ、にゃー、にゃ!
(や、そーいう話じゃないんですって!)
最初ッから噛まれるなんて思っていない。そういう話ではなくて、忍犬の口から、ネコじゃない、といわれてしまってはマズいのだ。
と、ここに至って、イルカは初めて我が身を省みた。
これってカカシ先生を騙してるんじゃねぇ?
だってカカシはイルカのことをただのネコだと思っているし、思っているからこそこうやって抱き上げて撫でてもくれる。忍犬だって、大丈夫だからってあやしながら見せてくれる。
これが「イルカ先生」相手だったら、話がまったく違ってくる。「カカシ先生」と「イルカ先生」のあいだには、挨拶程度の親しさポイントしか溜まっていないのだ。
やばいやばい。
俺、逃げなくちゃ。
どこをどう一足飛びにしたらそうなるのか分からないが、イルカは直感した。逃げよう。そしてもうこの姿でカカシに会うのは避けよう。
だって、バレたら怒られる!
ぜったい呆れられる!
何考えてんの?って顔で見られる!
それって、―――…怖いじゃん!
という思考に至ったイルカは、突如、心地よいカカシの手のひらから脱しようともがき始めた。
「えっ? うわ、なんだよいきなり。うわ、痛てっ、爪、爪でてるっ、立てるなって!」
にゃぎゃ! にゃーん、なーう! なーなー!
(ごめんなさい! 俺はもう帰ります! かーえーるー!)
「・・・カカシ、拙者が思うにそのネコとやら、じつは」
「え、なに。じつは?」
んにゃ゛ー!
(言わないでー!)
叫んだ瞬間、あ、というカカシの声がきこえて、イルカの体が落下した。
カカシの足元に集まった大小あわせて八匹もの犬のなかに。
大きい犬は人の腰ほどある。
中型でさえネコにしてみれば充分に大きく、その只中に落とされれば、一瞬、なにもかもが自分に圧し掛かってきそうな圧迫感そのものが世界になって、恐怖をまねいた。
犬たちにすれば、群れ集まった自分たちの間に落ちてきた小動物、程度の認識しかなかったとおもう。
けれどイルカにしてみれば肉の壁。
しかも牙を持った。
安全であることはカカシが保証していたけれど、ほんとうに安全かは蓋をあけてみなければわからない。
この場合の蓋、というのは、もちろん犬の牙の届くところに実際に居る、ということだ。
そう、まさに今の状況のような。
んにゃ゛ー! んにゃ゛ー! んにゃ゛ー! んにゃ゛ー!
(ぎゃー! 俺、ネコじゃないから! 頼む! 咬まんでくれー!)
見も蓋もなく叫んで(鳴いて)、イルカは少しでも身を隠そうと、ひときわ大きな犬のたぷたぷした腹の下に潜り込む。お尻と尻尾が入りきらずに、丸くて黒い毛玉が腹の下にぷっくり見えている。
中ぐらいのメガネをかけた犬は、興味深そうにイルカのほうへ鼻を向けてきた。
包帯をまいている犬が、怖そうな口元で、イルカの隠し切れていない後ろ肢を、かぷっと甘噛みしてきた。
さらに他の犬も、ぴーんと硬直しているイルカの黒くて細い尻尾を、面白そうに肢でつついてきて。
にゃ゛! なーなーにゃーなーっ! にゃ゛にゃ゛にゃ゛ッ!
(やめろって! 俺はネコじゃないの! あっちいってくれー!)
「ちょ、ちょっと…っ、こらっ、お前らどきなさいっ。噛んじゃダメだよ、こら! お前ら、わざと怖がらせてんでしょー、退きなさい! ほら、退くの! おーい、出てきなって、大丈夫だから。落っことしてごめーんね!」
ぷるぷる震えていたイルカを、腹の下からカカシが引っこ抜く。
大きな犬は、我存ぜぬ顔で、眼をつぶっている。
犬にしたって、ネコなど噛んだって暇つぶしにもならん、といいたげな顔だった。
にゃ゛…にゃ゛にゃ゛にゃ゛…!
(こ、怖…っ、怖かったー!)
「あー、ごめんごめん。でもお前もなんだっていきなり暴れたの、爪、痛かったでしょーが」
にゃー…。
(でも…)
「まったく、大丈夫だっていったのに、あんまりお前が騒ぐから俺も一瞬、焦っちゃったよ」
言って、カカシは、まだぷるぷるしているイルカの鼻先に、その形の良い鼻先をあわせてきて、耳のあたりにくすぐったいキスをくれた。
まるで飼い猫にする動作だった。
イルカは恐慌状態からまだ脱しきれていなく、カカシの行動に気づかず、そしてパックンは全てをみていた。
「おまえ猫でも忍びのはしくれでしょ? そんなんでどーすんの」
苦笑まじりでも痛くない言葉をカカシが言って、おもむろにパックンが口を開いた。
「カカシ、そいつ、忍猫ではないぞ」
カカシがパックンをみる。カカシの腕のなかのイルカはびくんと強張る。
「あれ、そうなの?」
「ああ、気配が違う」
「嘘、俺てっきりそうだと思ってたよ、だって俺の喋ることわかってるっぽいし」
「いや、そいつは誰かと口寄せを結んでいる猫ではない。むしろ」
にゃ゛にゃ゛にゃ゛にゃ゛!
(言わないでくれ! 武士の情け!)
ちらっとパックンの視線がイルカにむけられ。
「…むしろ、ただの野良猫だと拙者はおもう」
にゃにゃぁん。
(あ、ありがとうー)
「マジ? じゃあただのネコ? 俺のいうこともわかってないの?」
「…そのようだが」
イルカはとても感謝した。カカシの忍犬に。
もし今度会うことがあったら、きっときっとべた褒めしてあげようっ。カカシ先生の忍犬ってすっごい賢いですよね! とか。
危機一髪をだっした心境でイルカは、にゃー…、と脱力した。
だがすぐにびくっとした。
カカシの顔が、息もかかるほどに近くにあって、吃驚したのだ。
ふにゃ? にゃにゃん、んなーぅ、なーぅ。
(はえ? び、びっくりするなぁ。や、あの、すげぇ顔近いんすけど!)
と鳴いてみたが、カカシの目はじっとイルカを見ていて、離してくれない。イルカはカカシに脇から抱き上げられていて、抵抗したらまた犬のなかに落ちてしまう。
だから、居心地悪いなあとおもいつつ、カカシの目を見つめ返していた。
いっこしか見えてない目は、カカシの気配とおなじような、青い色にみえた。
ふと、熱心に視線をおくっていたカカシが口をひらく。
「お前、首輪、つけてないねーえ」
にゃー…なーな。
(はー、そりゃそうですけど)
「―――買ってあげようか、俺が」
にゃ?
(は?)
どーいう意味か分からなかったイルカだったが、イルカよりもずっと頭の働く忍犬たちは、すぐに意味がわかったらしかった。どよっというように動揺した空気が流れる。
なにか緊迫したような空気。
はれ? なんの話? とイルカはいたってのん気。
パックンがまたしても代表して口を開いた。
「―――カカシ、それは契約を結ぶということか」
「まっさかー。ちがーうよ」
緊迫した空気が霧散した。
んにゃ? とイルカはまだ話が分かってない。
カカシは朗らかにイルカへ話しかける。
「だって首輪もないし、ただのネコなら、俺が拾って飼っちゃってもいいよねーえ?」
この台詞をきくにいたって、やっとイルカは状況を認識した。
え。
カカシ先生、俺を飼い猫にするって?
えええっ?
にゃにゃんがにゃん!
(寝言は寝ていってください!)
「あー。なに言ってるかまったくわかんない。パックン、分かる?」
「…カカシ、目が笑っておらん。拙者は嘘はいえんが黙秘はできる。その権利を実行させてもらおう」
「ふーん、黙秘は肯定っていうよねーぇ」
たしかにカカシの目は笑ってなかった。というより、パックンから「嫌だといっている」と聞こうものなら、殺気を飛ばしかねない本気の目だった。
そのマジ目が、イルカをじーっと見る。
まるで「にゃにゃんがにゃん」以外の返事を待っているかのようだ。
イルカの背中に冷たい汗が流れる。
どうやってこの場を切り抜ければいいんだろう。
逃げるにしても、自分の体はびろんとカカシに抱き上げられているわけだし、それにまた暴れてはもう一度、犬ダイブをするだけだ。
もう一回、犬ダイブは嫌だ。
なんというか、本能的に怖かった。
犬に近づくと、恐慌状態になる。
たぶんネコの本能だとおもう。
だから犬ダイブは遠慮するとして、あと逃げる道というのが思いつかない。
こうなれば最後の手を使うしかない。
泣き(鳴き)落としだ!
にゃぁあん、にゃあぁん、にゃーん、なぁあん。
(かえりたーいよーぅ、放してくださいよーう)
「うわ、いきなり甘ったれた声だね、どしたのこいつ」
「……」
パックンは慎ましく沈黙を守った。
イルカは必死で、できるかぎりのネコっぽくて可愛らしいような声をだして、カカシにアピールする。
とりあえず、ベッドの上にでも下ろしてもらわなくては。
声をだすのと同時に、前肢をカカシのほうへじたばたさせる。
肉球が、ぷにぷにとカカシの手の甲にあたった。
ぴんくのそれはとても柔らかい。
触り心地も気持ちよくて、ネコパンチしても痛くない一品だ。
んなーぁん、なーぁん、んなー。
(ねー、下ろしてくださいよーぅ、窓をあけて下さいよーぅ)
そのネコパンチを繰り出しながら、イルカは主張する。
口調は間延びしているが、そのじつ必死だ。
時間も迫っている。ここからイルカの家まで帰る時間を考えていると、もうすぐここを出なければまずい。
そんなわけで、にゃーにゃー鳴いていると、おもむろにカカシがため息をついた。
お、帰してくれる気になったのか、と期待して真っ黒の目でみつめていると、いきなりぎゅぅっと抱きしめられた。
う゛にゃ゛っ!?
(いてぇ!?)
「あー、なんだよこいつ! このバカっぽい鳴き方! もー、アホだ、こいつ! あんまりアホっぽくて、和む! たまらん、どーしてやろう!」
ぎ、にゃーッッ!
(どーもしなくていいですから!)
叫んで、あんまり苦しくてもがいていたら、無意識のうちに爪が出ていたらしい。
「あ痛っ」とカカシの声がして、イルカの体がふわっと解放された。
尻からベッドに弾んで着地して、見上げるとカカシが右耳を押さえていた。
にゃにゃにゃっ、なーん、なあぁ。
(す、すいませっ、大丈夫、大丈夫ですかっ?)
「いったー…、さすがのバカ猫でも爪を出すときは出すんだねー」
言い草にむかっとしたが、カカシが手を放さないほうの耳をじっとみる。
カカシは苦笑して、手をぱっと放して広げてみせた。
右耳がみえて、その耳朶あたりに二筋ほどの赤い線があった。血は出ていない。
ほっとして、イルカはくるりと背をむけた。
ベッドが窓のしたにあってよかった。
スプリングを蹴って、窓際に乗る。
「あ、こらどこ行くのっ」
ちょっと慌てたようなカカシの声が背後。
窓が都合よく開いてて良かった。
隙間からするりと黒い体を滑りださせて、にゃあ、とイルカは一鳴き、さよならの挨拶。
んなー!
(お邪魔しました!)
あとはただ、自分の家まで一目散に駆けたのだった。
2005.5.7