黄金の月







 たとえば、手を繋いでいても心まで繋がるわけじゃない。
 なにを思いなにを感じているかは、知りようが無い。
 相手がなにを考えてなにを望んでいるかなど、聞いてみないとわからない。

 けれどそれも偽りだと感じれば、相手がなにを言ったとしても、信じることができなくなる。偽りだとひらきなおって信じるには、自分はすこし、強さが足りない。
 裏切られたくない相手に裏切られてもいいと言えるほどには、強くない。

 それに、自分は彼に、多くの想いや弱さを預けてしまった。
 彼はそうと思っていないだろうが、多くは無い言葉と共有した時間のなかで、カカシは彼に自分の弱さを、無言のままに受け入れてもらっていた。
 イルカが傍らにあるということ。
 カカシにとってそれは事実で、またカカシの望むことだった。

 これまでも。
 また、これからも。

 指輪を差し出すことは、イルカの望むことではないだろうと思う。
 彼からもらった合鍵でさえもカカシの望みであったことを思い出せば、いかに自分が自己満足で動いているかと自嘲する。
 だが、掌にすっぽりとおさまる合鍵と同様、鈍い銀の光をはなつ丸い輪が、カカシにとっての合鍵のように、イルカにとってのそれになれば良い。
 どういうつもりなのだろうと、カカシを想ってくれれば嬉しい。

 いまさら、とうてい口にだせない想いが募ってしまって、それを言葉にしようとするとあやふやな繰言にしかなりそうにない。それが嫌で躊躇うと、その言葉にならなかった想いは、喉の奥で掠れて、吐息とともに吐き出されてしまう。
 けっきょくは、弱い。
 だけれど、イルカが傍らに居てくれればよい、居て欲しいと願う自分は消えない。弱さを含めて、イルカの傍に居ることをイルカが許してくれるなら、自分は救われる気さえするのに。
 掌で、皮袋のなかの指輪を握り締める。
 イルカがどう思うか、分からない。
 それでも、気持ちを差し出すように、この指輪をイルカに差し出せれば、自分はそれでもう満足なのだ―――。















「――――――え」

 山の中腹。工房の人々と街に別れを告げ、行きと同じ宿で夜を過ごし、次の昼。行きよりも足は順調で、紅の手荷物の酒瓶を交代で持ちながらも、夕方には里の大門をくぐれるだろうと目星がついたころあい。
 休憩で、見晴らしの良い、斜面のひらけた場所に二人でたって、景色を眺めていたときだった。
 離れた場所で、酒瓶を傍らに岩にすわって足を休めていた紅が、こちらを凝視していることがわかったが、カカシはイルカだけをみていた。
 差し出された手にさがっている小さな皮袋は、言葉を失ったイルカに受け取られる様子がない。
 カカシは、その手をとって、掌をひらかせて置いた。そして自分の手で、イルカの手と皮袋を包むように閉じさせる。

「えぇと、合鍵のお返しだって思ってください。使えるものじゃないけど、ごめんね」

 どこまでも弱気な自分が可笑しくて、カカシの頬が緩んで笑みのようになった。イルカの固まった反応が、予想の範囲内ではあったが、胸を苦しくさせる。イルカに感じる、見透かすことのできない、硬く透明な壁に触れた気がした。
 怖くて言い募った。

「綺麗だったし、あなたに似合うと思って。けど、好きじゃなかったらごめんなさい、どこかに捨ててしまってもいいから。だから、受け取ってくれると嬉しい」

 強くは言えなかった。どうしても受け取って欲しい、ずっと傍に居て欲しいと、のうのうと言えるほど、自分は図太くない。イルカに嫌われたくはないと思うこともまた、心からの願いだから。
 包んだ掌は、ぎゅっと小袋を握り締めたようだった。イルカの拳が、小さく震える。カカシは願う気持ちで、震える温もりを、掌で暖める。

「―――どうして」

 囁きは微かで、力なく、カカシは黙って続きをまった。けれど、呟きは続けられることなく、代わりにイルカが言ったことは。

「こんな、…こんな高価なものはもらえません。合鍵は、もともと代えがあったものを差し上げたんです」

 カカシは、自分が渋面になったことを自覚した。そんなことを。

「そういうことをいってるんじゃないよ。合鍵はだって、お金はかかってないかもしれないけど、誰にでも手に入るものじゃないでしょう。あれをもらった分だけ、俺はあなたに返したかったんだ」
「…なにをですか」
「分かんないけど、上手く言えないけど。でも、俺はあなたから合鍵だけじゃない、なにかをもらった気がした。そういうものでしょう、家の鍵って。だから、俺はお金で釣りあいの取れるものとかいう意味じゃなくて―――」

 ああ、とカカシは言葉を溜息でかき消した。分からない、どう言えば良いのか。どう伝えれば、目の前の硬い表情のイルカが、柔らかく微笑んでくれるのかが分からない。壁に手が届かない。

「つまり、高価だからとか、そういうのを気にしてだったら止めて。気にしないで。俺にとって、お金なんか、あなたと比べて大事なことなんかじゃ全然ないんだ」

 言った途端、イルカがぱっと顔をあげて、目を大きくした。その見開いた瞳が、息を呑む間に潤んでいき、ぱたりと雫が零れた。
 カカシの心音が跳ねて、おろおろと手がイルカの頬へのびる。イルカはカカシをみつめて涙を零すままで、カカシの手をはらおうとはしなかった。
 かすれた声がイルカから漏れた。

「―――分かりません、俺には分かりません」

 イルカが瞬けば、あっけなく涙がいくつも頬を伝う。なにをそんなに涙がこぼれるのか、どうすれば止められるのかが分からず、カカシはイルカの言葉を待った。
 指先が、雫でぬれて冷たくなっていく。それが嫌で、カカシは指先をすべらせ、イルカの頬を掌で包んだ。

「ねぇ、なにが分からないの」
「あなたの気持ちが―――したいと思うことが、分かりません」

 イルカの瞼がおりて、睫にたまっていた涙も滑り落ち、そのいくつかはカカシの掌を濡らした。イルカの掌はいまだ閉じられたままで、手の内には開けられないままの小袋がある。

「俺の…俺の気持ちは、俺にもよく分かんない、…でも」

 自分の気持ちなど、はっきりとあますところ無く言葉にできるわけがない。できるような気もしない。イルカが笑ったときの昂揚感や、零れた涙をとどめたいとあせる落ち着かない心地。任務から帰ってきたときに見る窓の灯り、扉に招き入れられたときの安堵感。肌に触れたいと願う飢えた想いも、繋がりあい、イルカと抱きしめあって果てる瞬間の満ち足りた幸せも。
 それらを言葉にすることは、カカシにはとうてい出来ない。
 イルカに伝えることも出来ない。
 けれど。

「俺は我侭だから。俺はあなたにしたいと思うことが、我侭だから、たくさんある」

 イルカの瞼があがり、黒曜石に似た、真っ黒な目がカカシを見る。涙で光り、見つめられればまるで、暗い水底にも届く、強い真昼の陽光のようで。真直ぐな視線が、カカシを射止める。

「いまはこの指輪を受け取って欲しいし、できれば気に入って欲しい。気に入らなくてもどこかに仕舞って、たまには俺があげたものだって思いだして欲しい。それから、いつかいっしょに温泉、入りたい。イルカさんちに帰って、イルカさんの作った飯が食いたい。いつでも抱きしめたいって思ったときには抱きしめたいし、誰かに笑ってるのみたら、俺にだって笑って欲しいって思う。笑って怒って、俺に遠慮してないイルカさんを抱きしめたいよ」

 一息で言い切り、それにね、と続けた。

「俺にもイルカさんの気持ちはぜんぜん分かんないよ。でも、それでもいいよ。嘘つかないでって言ったけど、そんなの無理だよね。俺に嘘つきたいときもあるだろうし。あ、そりゃずっと嘘ついてって訳じゃないけど―――えぇと、だから、」

 言葉に詰まって、視線が彷徨って下方へ降りる。そうすれば、イルカの掌が緩く開かれていて、そのなかに握り締められていたものがみえた。
 無意識に、カカシはそれへと手をのばし、皮の小袋に入っていた、銀でできた小さな蛇をイルカの掌へ転がり落とした。ころりと掌で転がったそれは、やはり小さく、イルカの掌のうえではもっと小さく頼りなく見えた。
 イルカの気持ちを縛れるわけもない、頼りない銀の塊だけれど。
 それに重ねた想いは嘘じゃない。

「だから、俺とずっと一緒に居て」

 そういうのが精一杯だった。
 それ以外に、言葉が見つからなかった。
 指輪にあやかっただとか、イルカが嫌がっても実行するだとか、そういった余計な言葉をいう余裕がどこにもなかった。ただ、その一言。イルカと共に居たいと願う自分だけが、カカシのなかで最後に叫んでいた。
 伝えるべき言葉が残るなら、これだけだ、と。

「――――――それが」
「ん、なに」

 イルカの眸から、また、あふれるように涙が零れていった。
 溜息と泣き声のような掠れた音が、イルカの唇からもれて、幾度もイルカが唇を噛み締める。いまにも大声をあげて、泣き出したいのを我慢するかのような仕草。

「―――…それが、カカシさんのしたいことなんですか…?」

 泣き声まじりの問い。
 イルカが掌に指輪を握り締め、その拳で目尻を擦る。カカシは、そんなに強く擦ると良くないとあせって、頬に唇を近づけた。口布をとれば冷たい風が皮膚をかすめていったが、イルカの濡れて冷えた頬へ口付ける。

「うん。うん、そうだよ。イルカさんと一緒に居たい、そう願うよ」

 月の下に佇みたいと願うよりも強く。
 言えない言葉を探し、埋められない二人の距離を嘆くよりも先に。
 まず、イルカを傍らに感じ、その温もりを求める自分が、なによりも最初に居る。あたりまえのように。言葉にするよりもずっと自然に、存在していた。
 頬をこするイルカの拳を掌でやんわりと捕って、両手で包み込んだ。

「ね、俺と―――」

 少し、勇気が要った。
 心音が跳ねて耳のなかで五月蝿く、このときばかりは周囲の何もかもが五感から遠ざかった。勇気、など目に見えない子供向けの甘いキャンディのような馬鹿げた代物だと思っていたのに。
 カカシは、震えそうな声で訊いた。

「俺と、これからも一緒に居てくれる?」

 そのときの心地をどう説明すればいいだろう。
 空は冬の雲を抱いてくすんだ色をしていて、山の緑もいまは枯葉色が多かった。空気は乾燥して冷たく、カカシの掌のなかのイルカの体温は暖かかった。
 ふわり、とイルカが微笑んだのだ。
 蕩けるような笑顔。
 紅くなった目尻を細めて、頬が柔らかく染まり、花の綻ぶような瞬間。


「――――――はい」


 カカシの息も止まるかと思った、その一瞬。
 疑いようの無い嬉しさに滲んだ返事に、カカシもまた、嬉しさに歓声をあげ、おもいきりイルカを抱きしめたのだった。




2004.08.5