黄金の月
工房のほうへ戻るうちに、通りが騒がしいことに気づく。絵筆と大きな画板をもって、道を急いでいるものが多いせいだった。
すれ違いにそういう格好のものをいくらか見かけ、いざ工房の前までくるとよりはっきりした。若いものが数人、連れ立って表に出てくるところだった。さすがに木の葉の忍びであることを知っているのか、ぺこりと頭を下げる。そのまま小走りに走りすぎていった背中を見送っていると、そのあとから、男が現れた。少年たちの師匠だ。やはり彼も急いている様子だった。
「おお、忍びの方々、ご苦労様でしたな。知らせは受け取りましたぞ」
「あー、急いでるとこ悪いんですけど、ちょっと訊きたいことがあるんですが」
「何かな」
「このあたりで有名だっていう指輪、ここでも作ってるって昨日聞いたから、見てみたいと思ったんですけど…忙しいかな。駄目なら良いんですけど。どうもみんな忙しそうだから」
男は申し訳なさそうな顔をして言った。
「今日は龍が見れるから、若いものにみな龍をよく見ておけと言いつけたのでな、みな出払っておる。わしが工房を案内したいところだが、あいにくわしもよく龍の見える場所に移動するところでな。年寄りは足が遅いしの」
「それは…残念です」
走って行くのかは分からないが、急いでいることは確かなようだった。それを無理に案内させるのは、とてつもなく気が引ける。じゃあ、と身を引こうとすると男は続けて教えてくれた。
「工房だけではなく、うちは向こうの大通りに一軒、店を出しておる。店番は工房のものではないが、指輪を見たいならそこにある。行きがけに話を通しておこう、ご自由に見られるが良い。こちら側からいけば、通りの左がわ三軒目だ」
「ありがとうございます、気をつけて」
挨拶も気がそぞろで、男は足早に去っていってしまった。手には筆箱、脇には大量の紙を抱えていた。持ちにくそうなまま抱えて行ったから、ずいぶん歩きにくいだろうと、要らない心配をしながら傍らを振り返る。
「良い場所、だって」
イルカに言うと、イルカも驚いたような顔でカカシをみた。
「お弟子さんにも、っていうことはけっこう見物人が居るってことです、よね…」
「てっきり、作る人だけだと思ってたら見習いも入るのか、この街じゃそれなりの数になりそうですよね」
「もしかして街の人も、今日のこと知ってるんでしょうか」
「うーん」
カカシにはなんともいえない。任務書には街人にも見せろとは書いていなかったために、そこまで幻術の範囲を広げていない。せいぜい、龍が視認できるあたりの、民家や商店を除いた広場や滝壷周辺だ。前回とは目的が違う。
「あー。まいったな、見れないお弟子さんも出るかも」
今回は幻術は抑え目にして、おもに水瀑布の術などの水を操る方向で龍をみせるようにしている。けれどもやはり幻術の効果は必要で、それがないと龍は龍にみえず、ただの宙に浮かんだ水の柱になってしまう。
「あんまりやりたくなかったけど、あのときと同じ手、使うしかない…かな?」
ぼやくと、イルカが小首を傾げたので、説明した。あの夜、沈静のために使った物理的な手段を、今回はより幻覚を広くみるために使う。
もしかすると上手くいかないかもしれない。だがさしあたって、カカシが思いつく方法はそれぐらいしかない。
「イルカさんは、なにか知ってる?」
「…いえ、恥ずかしながら」
言葉どおりに、かすかに俯いたイルカをみて、カカシも視線を同じように下げる。
カカシの知りうる術のどれとかけあわせても、いま用意されている仕掛けに、いっそうの効果を上乗せすることができないのだ。もしかすると紅なら知っているかもしれない。だが、今までの経験からいって、術を重ねるよりは違う手段をとったほうが良いと考えた。それも含めて、相談したほうがいいだろう。
「ちょっと手順が変わると思うし、紅を呼んで打ち合わせしようか、イルカさんもそれでいい?」
「はい」
「指輪、見れなくてごめんね」
「そんな…カカシさんこそ見たかったんですよね。やっぱり出来が気になったんですか」
カカシは忍犬を呼び出し、紅に伝言を頼んだ。忠実な忍犬は、すぐに通りを駈けて見えなくなった。
「出来、というか、効果が気になって」
「そうなんですか」
きっとカカシの考えなど分かってはいないはず。けれど、当たり前のように相槌をうって、深くは訊かないイルカを、ふいに抱きしめたくなった。
その瞬間、あるものは頬に冷ややかな飛沫を感じ、またあるものはうっすらともやのようなものが辺りにたちこめたと感じた。
雪ではない。雪は昼には止んでいたはず。
街の大通りにたつものたちは、一様に大滝の方向をみて、目を見張った。
巨大な、龍。
昼の曇天のなか、白く蒼くみえる体が宙に浮かび、荒々しい髯と角が水飛沫をたて逆巻いていた。巨大な龍の姿。長く伸びた体からはたてがみが雄々しく続いている。一目で畏怖を感じない者などいないだろうと言わしめる、力強い姿だった。
先年にみた姿よりも、さらにはっきりとした姿に、感嘆の声を上げた者も少なくなかった。
しかし先の龍と違い、今回は地響きも予兆もなく、唐突な現れ方に気づかないものも多数居た。とくに屋内に居た者は、急に屋外にでている者に呼ばれて、通りに出てみると驚きの声を上げる、という風景が街のあちこちで見られた。
先触れもなく現れた姿。
静かな龍の顕現。
なにより一心に、その龍を見つめていたのは、いうまでもなく職人たち、全てだった。
新しい主となった国主に命じられたからだけではない。
自身の欲求に従い、一心不乱に見たまま、感じたままを紙に描き取る。それらは考えるよりもさきに、彼らの本能が手を動かしているのだ。想像の産物でしかないその姿をみれた幸運を思うよりもさきに。
街の淵のほとりで、高台で、屋根の上で、彼らは龍を見つめていた。
地揺れも稲光も神々しい光もない姿だが、彼らの生活を、命を支える源が顕現した姿が空にある様を。
その絶えることのない豊かな恵みで、身体をつくりあげる壮麗といえる姿を。
やがてその姿が、おおきく宙で身をくゆらせたかと思うと、まるで蜃気楼のように曇天へと溶け入りながら高く高く昇っていくのを、魂が抜かれたかのように、ただただ見上げていた。
「あー、つっかれたー」
大滝の上。
大きく、カカシは背伸びをした。そのまま、座っていた姿勢からばったりと後ろに倒れこむ。座っている地面の砂利が、後頭部で擦れあって音がした。
風が吹く。冷たい風が。
見上げる空は曇天で、さきほど術の効力が終わり、龍の小尾が空へと消えたところだった。そしてまるで龍の残した小片のように、ちらりちらりと、小雪が舞い始めた。
「お疲れ様でした、さすがです」
頭の傍らに立ったイルカがそう言ってくれ、カカシは微笑んだ。照れ臭さが滲んで、余計におもえる言葉も付け足してしまう。
「なんとかなって良かったよ」
あのあと、カカシとイルカのもとに駆けつけた紅と手早くまとめた段取りは、まさに速攻といえるものだった。イルカがアカデミーで教わったような、またこれから教えるであろうような、成功の保証されたものではない。伸るか反るか、成功の可否など当のカカシや紅にも予測している暇がない、というほどの、土壇場の仕掛り仕上げだった。
術の発動は紅とカカシが担当し、イルカが街を走って幻覚を広げる。
広げすぎないように、けれど見るべき人がしかと見ることができるように、カカシはイルカにいろいろと助言をくれた。それらのどれもが、実践的でイルカは深く感謝した。この任務に同行させてくれた火影に、紅に、そしてカカシに。
「イルカさんもお疲れ様。今回のこと、少しでもあなたのためになればいいけど」
「―――そんな」
イルカが言葉をいっしゅん、詰まらせた。
カカシとしては任務の滑り出しが最低といっていいものだったので、殊勝な気持ちになって言った言葉だった。出来事からなにを学ぶかなど個人の度量次第だと、いつもなら切って捨てるところだが、イルカだと話が別だ。もしこの件がイルカにとって実りになれば嬉しい。イルカの評価に繋がって、それでイルカに益となれば嬉しい。
「なります! もちろんです。このたびは同行させていただいて本当にありがとうございました」
だから、イルカが力んでそう言い、カカシはまた微笑む。嬉しくて気が緩み、軽口もでた。
「温泉は入れなかったけどね」
「それは…本当にそれはいいんです。任務ですから―――あ、もしかしてカカシさんが入りたかったんですか? 温泉」
「ええ? 違うよ、嫌いじゃないけど、長風呂はあんまり―――」
「…そうですか」
言ったイルカの顔がなんとなく曇り、慌ててカカシは腹筋で起き上がった。あたふたと説明する。
「でもイルカさんが入るなら俺も入りたいよ、うん。どんなのか知りたいな」
「そう、ですか?」
いきなり熱心になったカカシを、不思議そうにイルカが見る。
「俺、共同の大風呂なんか入ったことないから、すごい興味あるよ。イルカさんが入りたいなら、俺もそう思うし。でもできれば二人っきりがいいけど、小さい温泉なんてあるのかな」
誓ってもいいが、このとき、カカシはけっして邪まな意味で言ったのではなかった。
たんに、顔を覆う面布のことを考えて、できれば不特定多数にみられる場所でなく、イルカと二人で視線を気にせずにゆっくり楽しみたい、という意味だけだった。
が、とうとつにかぁーっと見る間にイルカの頬が染まっていき、カカシはあっけにとられた。耳まで真っ赤にそまり、口をつぐんで、カカシをみつめるイルカ。
言葉もない、といった風だ。
カカシはぽかんとそれを眺め、ややあって、ぽんと手を打った。
腑に落ちた。
「あ! イルカさん、そういう意味で…!?」
「―――いえ! あの! じゃなくて!」
「わー、意外だなぁ、イルカさん、そういうことしたいの? じつは気に入ってたり、お風呂エッ…」
「ち、違います…!!」
絶叫に近かった。カカシはにやにやと、熟れた林檎色のイルカをみつめる。めったにない会話のパタンなだけに、胸さえ弾む。
「ほんとに? じつはすっごい気持ちよくて癖になって…」
「なってません!」
むきになって反覆するイルカに、カカシは声をあげて笑いを弾けさせた。可笑しい。照れと怒りがいっしょくたになって怒鳴るイルカが、可笑しくて好きだと思った。
このイルカには嘘の疑いなど、どこにも無かったから。
立ち上がって、想いのままに顔を紅い頬によせて、唇をねだった。
「ね、そうじゃなくても、イルカさんは温泉が好きなんだよね」
「それは…そう…ですけど、でも」
「うん。だから、また来ようか。ここに。二人で温泉に入りに―――」
吐息がわかるほどの唇の間近で囁いて、イルカの返事を待たずに口付ける寸前。
無粋な声が割ってはいった。
ほんのすこーし、怒っている声。
「ちょっとそこのバカ、任務中にいちゃつかないでよね!」
眼前の魅力的な唇から目をゆっくりと離し、カカシは背後を振り向いた。居た。まっくろな髪を鬼神のように振り乱した女が。命が惜しいので、心で呟くだけにしておくが、一言だけカカシは言った。
「――――――お邪魔虫?」
「あんッたねぇ!」
目がつりあがって、ずかずかと歩み寄ってくる姿。ふと既視感におそわれた。そうか、以前にも、こうやって紅が近づいてくる姿をみていたことを思い出す。あのときは夜明け前のいちばん闇の濃いときで、けれど場所はこうやって、大滝の上だった。でも、紅はこんなにも遠慮のない物言いはしてなかったし、怒ってもいなかった。なにやら昨日の朝、宿を出発してから以降、カカシに対して風当たりが強い気がする。
傍らを振り返って、イルカと目をあわせて肩をすくめた。イルカが恐縮そうにカカシの目を見返してきて、カカシは安心させるように目で微笑った。そして過去との比較を止める。過去が悪くて今が良いというわけでもない。また今が悪くて過去が良いというわけでもけっしてない。ただ、過去は繋げて考えれば、ずっとイルカを傍らに感じていたことを、確認するためにあるようだと思ったから。
「ひっとことぐらい、土壇場に術を組替えてそのうえ足したり引いたりして見事やり遂げた仲間に、ねぎらいの言葉は無いわけ! ここでいちゃついてないで!」
「あ、あの、紅さん、これは…」
「あー、お疲れ、紅」
「誠意がないってのよ、あんたの口調は!」
「その、カカシさんも先ほど終わられたところで…っ」
三者三様。おろおろと、激怒するしぐさの紅をなだめようとするイルカは可愛くて、抱きしめたくなった。だがそれをすると、さらに怒鳴り声が飛んでくるのは想像できたので、カカシは上げた手の指で耳を穿って、あらぬ方へ目をそらした。
「というわけで、任務終了ー。さ! あの親方さんに挨拶して、帰りますかー」
パン! と張りあわせた手のひらが鳴って、それに紅の「聞きなさいよ!」という罵声が重なって響いた。
2004.08.5