黄金の月







 夜遅くまでかかって仕掛けをし、次の朝、早くからさらに準備を整えるためにでかけた。昨夜の雪雲はまだ薄く空にかかっていて、ときおり弱い冬の日差しが見えたりもしていたが、午後になって晴れるかどうかは判断のつかないところだった。

「イルカさん、どうですか」

 自分の分担場所の準備が終了し、一足にイルカのもとへと行った。イルカは指示した工程の約八割ほどを完了させていて、あと一時も頑張れば終わりそうだった。
 日の明るさはやんわりと高く昇りつつあって、昼まではすこし遠い。
 手順をひとつひとつ慎重に確かめながら術を重ねていくイルカを、傍らに座って見守る。街の東側を担当したイルカは、街を囲む城壁のうえでチャクラを練っていた。カカシの座っている場所からは、城壁内に広がる街と、大名のすむ城とその背後にそびえる岩壁と大滝が良く見えた。空は曖昧な曇り空。

「晴れるといいんだけど」

 言うと、術の区切りをつけたイルカが返事をする。

「そうですね、よく見えるといいんですが」
「けっこう大きくできるように設定したからなぁ…満足してくれればいいけど」

 それには答えはなく、イルカはまた仕掛けにむかって集中していた。
 鋭い爪のような寒風は、高い城壁のうえではさらにきつくなって二人を凍えさせていく。カカシは城壁の縁へと移動し、座った。ちょうど、イルカの壁になるような位置で、どうせ凍えるのならこちらのほうが一石二鳥だ、と思ったからだ。
 縁から足をぷらぷらと揺らす。背後からは均質なチャクラの力が感じられて、揺らぎのない確かなチャクラに、イルカの性質がしのばれるとカカシは思う。

 見渡す街の風景のなかに、大きな高い煙突がいくつかあることに気づいた。そういえばこのあたりは温泉が沸いたんだったかと思い出す。
 少年が盛んに主張していたように、細工物や染物も盛んだということだから、ほんとうにこの街は水の恵みが支えているのだと思った。いつかの自分の選択は、すくなくともそれらの人々の助けになったのかもな、とぼんやりと考えた。
 それに新しい細工物でまた街も潤うのかもしれない。

「でも、善行、ってわけでもないよね、これは…」

 カカシが勝手に考えて、勝手に行動した結果によって、またさまざまな結果が生まれる。その結果が良いか悪いかはカカシには区別できない。全てを知ることもない。けれどカカシの行動によって色々なものが動いたことは確かだった。
 自分の都合で完結している、と紅は言ったが、あれはまったく真実だったと思う。カカシは自分ほどに自己中心的な人間は他に居ない、とまで思っている。だから紅は悪くない。
 けれど、自分の都合だけで動いていても、周囲は否応がなしにこちらに合わせて動くのだ。

 新しい国造りに利用したいと願う大名に、危険も無く木の葉の里の名を挙げられる利益、新しい細工を作れると意気込む職人、大きな仕事をまかされる染物や織物の職人たち。付随して鉱石の採掘も活気付くかもしれないし、毛織物の相場も動くだろう。温泉もあるからみやげ物でも作られるかもしれない。

 たとえ世界が己で完結していても、自身を必要とされる周囲が在る。そしてまた、カカシの中に入り込んで離れない想いもある。けして世界は、己だけで完結しない。

「――――――…カカシさん? いま、なにか仰いましたか…?」
「え、ううん、なにも。イルカさん、仕掛け、終わったの」

 振り返ると、おおよその仕掛けが出来上がっていた。集中していたイルカに話しかけまいとしていたが、声がイルカに届いていたようだ。縁からたちあがって、イルカの足元の円術図をみると、最後の仕上げがまだ出来ていない。
 イルカをみると、困ったように言った。

「申し訳ありません、最後の印の組み方が、複雑で…」
「ああ、確かに早くしないと駄目だけど、けっこうややこしいしね」

 傍らに立ち、イルカの手をとった。指先が冷えている。

「温泉入る間、あるといいねぇ」
「はぁ、そうですね」

 気の無い返事がカカシの笑いを誘う。イルカの指を印の形に組ませて、自分も同じ形をつくる。強く過ぎる風も、口付けも容易なほどの距離に近づけば入ってこない。ほんのつかの間、手元が暖かく感じた。

「ここね、こう印を切ったときに、小指を軸にして回すようにして次の印を切れば…」
「あ、確かにやりやすいです」
「でしょう。あとは慣れ、かな。一緒にちょっと練習してみましょうか」

 少しだけ距離をとると、また寒く感じた。同じ印を二人で練習し、通しで二回ほどあわせる。イルカは何度か印の順番を間違えたり、印を切り損ねて、言葉には出さなかったが落ち込んでいるようだった。

「焦らないことですよ、いつもあなたがするように、ひとつひとつ印を切っていって下さい。多少、長くかかっても大丈夫だって思えば、けっこう掛かるもんです」

 アドバイスにならないアドバイスだったが、カカシはそういった。嘘ではない。術の成否は、いくらか気合があるかどうかで左右されるものだ。

「はい…すいません、せっかく教えていただいているのに…上手くできなくて」
「初めてならそういうこともありますよ。ようは二度目三度目じゃないですか?」

 言うと、イルカがちょっと笑った。はにかんだような、小さな笑い。間近でみたカカシの心音が跳ねた。

「カカシさんは、ほんとうは先生に向いているんじゃないでしょうか」
「あ、そ、そうですか?」
「はい。俺みたいな出来の悪い生徒にも根気強いです」
「出来が悪いなんて、そんなことありませんよ」

 ほんとうにそう思って言ったが、イルカは聞き流したようだった。そして「俺は昔から出来が悪かったので」と言う。
 ただの事実をいう静かさに、カカシもそれいじょう言い添えられずに口をつぐんだ。たしかにイルカに褒められたのに、イルカがイルカのことを悪くいうから、気持ちが沈んでしまった。カカシにとって、イルカはけっして「出来が悪く」などないのに。

 イルカはイルカであって、もし昔から成績が悪くても忍びとして不出来でも、カカシにとってのイルカの正味が増減するわけではない。そう思う。だから、出来が悪い、などというそれだけのことで、たしかに忍びにとっては大きなことかもしれないが、カカシにとってイルカを見るさいに全く関係のない、それだけのことでイルカにだってイルカのことを悪く言って欲しくなかった。

 けれど、それを言葉にすることは難しかった。一言で、そんなことはないと言ってもイルカはまた聞き流すだろうし、真実味はない。イルカの子供時分を知っているわけではないから。
 けっきょく、喉から言葉は出ずに、奥のほうでとどまって消えてしまった。イルカが少し笑ってくれるだけで動悸まで始まる、この気持ちを伝えられたら、どんなに嬉しいだろうと思うのに。

「じゃあ、もう一回通して、本番いきます。もうそろそろ昼ですね」

 イルカにいわれて気づいた。いつのまにか時間がたっていたようだ。約束の刻限に近い。
そういえば紅はどうしただろうと、思っているとちょうどその姿が城壁の下に見えた。身をのりだして手を振ると、一足飛びに駆け上がってきて、大声をだした。

「冗談じゃないわよ、この寒いなか大滝の上まで行ったのよ! ちゃんと待機しときなさいよ!」
「わ、なんだよ。いまイルカさんが仕上げなんだよ、静かにしろって」

 紅はぱっと唇を手のひらでふさいで、イルカのほうをみた。イルカはもうチャクラを練り始めていて、紅の怒鳴り声など聞いていなかった。囁き声で紅はカカシに言う。

「探したわよ、このイルカバカ!」
「その固有名詞、なんか響きがカッコ良いねぇ」
「やっぱりあんたなんかただのバカで良いわ、このバカ!」

 イルカバカのほうが語呂もいいのになぁ、と呟いて、カカシは傍らを見る。回りなど一切目に入っていない状態で、イルカが次々と印を切っている。それらを監督するような心地で見守るが、間違ったりしていない。やはり、中忍になってアカデミーに推薦されるだけのことはあるという、確かな手さばきだった。
 やがて二人が見守るなかで、イルカの足元の印が完成し、イルカがほぅと溜息をついた。気が抜けたのだろう。

「おつかれさま、イルカさん」
「おつかれ」

 チャクラを放出したせいで疲れた表情だったが、イルカはにこりと笑って、お疲れ様ですと二人に頭を下げた。

「じゃああとは職人さんたちに知らせて、二時間ほど自由行動にしますか。曇天決行ということで」

 パンとひとつ、かしわ手を打ちカカシがいうと、紅が賛同した。言うには、水が豊富という話からこのあたりの地酒を探りたいらしい。水の豊富な地域の地酒はとくに、美味いものが多いと意気込んで姿を消してしまった。いくら物見高くても、人の恋愛よりも自分の酒肴が先にたったところが可愛らしいといえた。カカシとしても紅が居ないほうが、なにかしらホッとする。

「イルカさんはどうしますか」
「そうですね…どうしましょうか…」

 なんとなくイルカの目が街のほうへ向き、大小たちならぶ煙突を見ている気がした。イルカの見ていた雑誌のことを思い出す。

「温泉入ってきたらどうです、二時間もあるし」
「あ…いえ、ちょっと…」
「大丈夫だよ、あとは発動させて帰るだけだし」

 任務のことを気にしているのかと思って言ってみると、照れたような顔でイルカが言う。

「二時間だとあっという間なので…また自分で来たときに入ります。長風呂なんです、俺」

 温泉好きは必ずしも長風呂、というわけでもないだろうが、イルカは長く浸かるほうらしい。ならば二時間はたしかに短いかもしれなかった。

「あー、それは残念ですね」
「次の楽しみがあっていいです。カカシさんもどうぞ俺にかまわず」
「いいじゃない、一緒にどこか行こ?」

 少々強引かなと思わないでもなかったが、イルカが頷いたので一緒に城壁を降りた。行くあてもないが、路地をのんびりと二人で歩きだした。

 考えてみれば昼間に二人で連れ歩くなどしたことがなく、不思議な感覚だった。
 町屋がならぶ細い通りをぬけ、溝をまたぎ小門をくぐって、まるでちょっとした迷路のような路地を二人で抜けていく。
目指すのはとりあえず大通りなのだが、城壁からあてずっぽうに降りたために、道がわからない。分かるのは方向ぐらいなものだ。

 路地を抜けて井戸端に出、また路地をたどる。軒先に大根がさかさに吊るされていたり、壁に桶が立てかけられていたりして、どこまでも民家と民家のあいだに路地が続いている。
 軒を飛び上がり、屋根の上を走れば速いが、一般の街で昼日中にそれをするのは躊躇われたし、また軒も変に体重をかければ落ちそうで、その考えは却下だ。

「けっこう入り組んでますねー」
「そうですね、長屋、っていうんでしょうか、平屋が多いですね」
「だね。はぐれてもいけないから、手、繋ごうか」

 言って、カカシは手を差し出した。え、とイルカが立ち止まる。

「そんな、さすがにはぐれませんよ」
「そうかな。通路が狭いからさ、並んで歩けないしどうかなって思ったんだけど」
「大丈夫です、ちゃんとカカシさんを見てます」
「うん、ちゃんと見ててね」

 そして手は繋がないまま、また歩き出す。
 街のいたるところに、木の葉ではあまり見ない井戸が点在していて、カカシたちの興味をひく。水が豊富な土地柄ならでは、というところか。ほかには溝のうえには必ず覆いがかけられていたり、井戸周辺はきちんと片付けられていたりと、こまごまと綺麗だ。

「ちゃんとした街なんですね」

 イルカが言って、カカシは頷く。

「この間の戦いであんまり壊されなかったからだろうね。人が死ななきゃ、街の自治組織って壊れにくいもんだし、ちゃんと機能してるんでしょう」
「そういえばお世話になった親方さんも、区画の役付き、持ってそうですね」
「口うるさくて、でも面倒見良さそうだね」
「そんなに口うるさく思いませんでしたが」
「あれ、じゃあ俺がああいうおじさんに苦手意識あるのかな、いきなりコラッて怒られそうじゃない?」

 カカシからすると、あの年嵩の男の皺をみていると、いつ「この若造が!」と叱られるかと思ってしまう。イルカとほんとうに始めて出会ったときのことを思い出す。あのときも酷く叱られたものだった。カカシのような怒られ方はないにしても、イルカはそういう感覚はないのだろうか。
 するとイルカが「そんなことありませんよ」と可笑しそうに笑う。
 斜め前からそれをかいま見て、カカシも嬉しくて頬が緩んだ。イルカが笑ってくれると、どこかしら身体のはしばしが暖かくなって、気分が高揚する。

 ふいに、低い軒先のつづく路地が途切れ、目の前に人の行き交う通りに出た。それほど太い大通りというわけではないが、通りの角々を曲がっていけば、そのうち大通りに通じていそうだ。
 後ろを振り返れば、木で作られた家々が、細い路地を血管のように通しながらひしめき合っている景色が見える。
 もし、あのときに攻め入られ、火をかけられていれば真っ先に壊滅する地域だろうな、とカカシは理由もなく思った。この街の風景は、ときおりカカシの思考を過去へ戻すことがある。それを振り払うように、傍らのイルカに訊いた。

「さ、どこ行きましょうか」
「ええと…カカシさんが見たいところはないんですか?」
「俺? うーん」

 通りにでる路地の出口に突っ立っているのも迷惑なはなしなので、二人は通りにでて歩き始めた。
 さすがに往来があって、民家だけでなく小間物屋や問屋などがのれんをだしている。なかには大きく温泉、と書いた横広ののれんを掲げている軒先もあって、興味を引いた。手に小さな湯桶をもった街人が出入りしている。たぶん共同浴場のようなものになっているのかな、と思いながら通り過ぎた。

 イルカもまた他国の町並みは面白いようで、目があちこちと飛び、興味をひかれたものには、すこし立ち止まって見入ったりしていた。カカシもそれに付き合い、店を覗いてみたりする。
 店のなかには紅の言っていたような、酒屋もあった。すこし色の濃い、とてもおおきなタワシ状のものが軒先にかかっている。紅はきっと今ごろ、こういう店のどこかに居るのだろう。

 イルカがカカシにすいません、と断って、小さな小間物屋で足をとめた。何かを品定めしつつ買っている。尋ねてみると、ここらの湯の成分を粉末状にしたものらしかった。温泉地の土産物屋にはつきものの土産らしく、家に帰って風呂桶に入れ、自宅で温泉気分を味わうためのものだそうだ。

「本物と同じぐらい効能があるんですか?」
「さあ…それはわかりませんけど、匂いで感じる気分もありますから、俺は好きですよ、こういうの」
「へぇ。そっか、イルカさん、こういうの好きなんだ」

 知らなかった情報を頭にメモした。

「あ、これ」

 店先の縁台に並べられた小物のなかで、指輪をみつけた。くすぶった銀色の、重そうな指輪だ。蛇を象っていて、一匹で尾は頭に巻きついた形で輪になっている。目の部分に赤い色の石がはめてあったが輝きは黒ずみ鈍く、なんとなく若者向けの安価な品物にみえた。観光客用の量産品かもしれない。

「ああ、昨日あの子が言っていた指輪ですね。あ、形が違うんですね」
「そうですね、そうだ、あの工房の指輪も見てみたいですね」

 思いだして言ってみると、思いがけずイルカもあっさり頷いた。

「ええ、俺もそう思ってました」
「そうなの?」
「はい。あんなに親方さんを慕っているんだから、その親方さんが悪い仕事するわけないし、見てみたいと思ってたんです」
「そうなんだ」

 なんだ、興味は師弟と仕事か、とほんのすこしだけ残念に思った。もし、あの指輪を自分が買ったら、イルカはどうするんだろうと考えると、その先がさっぱり想像できずに、カカシは考えることを止めてしまった。




2004.08.5