初秋南東北点描
初秋南東北点描 31
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腹立たしい「例幣使街道」

塔のへつりから国道121号線を南下したいところだが、道のつながりが良くない。北上して国道118号線に乗り換え、羽鳥湖の西岸から県道37号に乗り換え、東北自動車道白河ICに乗るプランである。これなら山奥の適当な空き地でラーメンを作れるだろう。

いよいよ県道37号に入ると湖の周辺は妙に「アウトドア」観光地化整備がなされていて人けが多い。とうとう湖畔でも峠の中でも炊煙を上げることができず、平地に降りてから道を外れた空き地でラーメンを食すことになった。乾いているようで水溜りもある残念な場所であったが、腹が減って仕方がない。ゴミを残さぬよう、素早く作って素早く食す。

白河の関はどこだろうと思いつつも白河ICから東北自動車道の人である。

もちろん今日中に京都などという強行軍は考えてはいない。長野県内あたりで一泊である。しかし、東北自動車道に乗り続けると東京に行っちゃう。地図を見れば上信越道の藤岡から佐久、諏訪、中央自動車道というのが直線的でよろしい。佐久・諏訪・飯田のライン上のどこかの安宿に泊まろう。場合によっては松本・岡谷でも良い。

館林ICで降り、国道354号線を西に行く。国道354号線はこのまま上信越道の藤岡IC付近まで連れて行ってくれるはずである。

国道354号線は昔の「例幣使街道」である。途中の役場にも掲示があった。

日光例幣使
 徳川家康は死後、朝廷より神号「東照大権現」を下賜され 日光東照社に祀られ神となりました。後、東照社は東照宮と改称する宣下を受け、朝廷臨時奉幣使が派遣されました。 以降、毎年家康の命日の祭礼に「日光例幣使」が派遣されることになりました。 例幣使とは神に祈りを捧げる「金の幣(ぬさ)」を奉納するための勅使です。 この行事は明治維新前年の慶応三年(1867)迄二百二十一年間休むことなく続きました。
    (「五街道ウォーク」より)

 例幣使街道
 京の朝廷の使いが、日光東照宮に毎年御幣を捧げるために通った道です。東照宮の例祭に合わせ、四月一日に京を発ち、四月十日に上州に入り、翌日にこの道を通り、十五日に日光に到着したとされています。禄の低い公家が例幣使であったことから、道々金品を強要したり、籠をゆすって落ち金銭を要求したといいます。このことから金品を要求することを「ゆする」と言うようになったとされます。
    (「からっかぜ」のおとうさんのページより)

例幣使街道の腹立たしさはまず、激しい「ファスト風土化」である。ファストフード、サラ金、何かのチェーン店の大看板が行けども行けども続くのである。もう、大道具のセットを繰り返し使いまわしているような景色が延々と続く。進んだ距離感も得られない。

そしてもうひとつ許しがたいのは埼玉・群馬をまたいで信号の多さと流れの悪さである。安全に車両を「通す」のではなく、とにかく「停める」ための信号である。どんな速度で走っても全ての信号で停止を強要されるのである。手前の信号が青でもすぐ次の信号は赤に変わっていてどんなにゆるく進んでもストップとなる。ここらの地域は地球温暖化推進地域だと言われなければなるまい。

あまりに信号が多くて進まないので、藤岡まで行くのをやめ、本庄児玉ICに逃れる。ほとんど夕方である。