2002年(平成14年)6月22目(土曜目) (3/4)
 ささやかな杜会貢献のつもりだった。入団資格は「五十歳以上、百歳までの男女」とした。二〇〇〇年春の初の劇団員募集では「十五人集まればいいか」と思っていたら、八十人近くの中高年が応募してきた。
「白くて丸くてでっかいもの」 過疎の山中に謎の物体が落下。なぜか村人たちは若返り、男も女もrこれで人生をやり直せる」とはしゃぐが……。時の流れ、生きることの意昧を考えさせる作品
 応募者は関西一円から。練習に通うにも苦労するので、ほどなくして他の地域にも教室を設けることにしたが、和歌山でほぼ同数。京都では何と二百人近くが押し寄せた。「六十歳の記念に」舞台に立ちたいと応募動機を書いてきた女性がいた。「隠れていた巨大なエネルギーを掘り当てた」と知るのに時問はかからなかった。発起塾の何が、団員と観客、双方の中高年の心をとらえるのか。「要するに、今の中高年には居場所がないんです」例えば練習場所だ。青少年センターはある。勤労者向けの施設もある。しかし次がない。老人福祉施設にとんでしまう。
 「老人といえば憩いの場を与えておけばいいと思っている。でも仕事や子育てを離れてから、介護される必要が出るまでの『元気な中高年』は、これまで杜会的に想定されていなかった」
 だから大手企業が発起塾に、意識調査などマーケティングリサーチの協力を依頼してくる。これだけまとまった元気な中高年をつかまえている集団は珍しいからだ。
 老人といえば孫。この発想も、秋山には不満だ。「孫のためにカネや時間を使うなら、自分のために使おうと言いたい。孫は子供と同様、いつか離れていく。それよりは自分中心で楽しみを見つける方が気分がいい」
 もちろんいくら元気と言っても、若者と全く同じにはいかない。そこでも独自のノウハウが積み上がりつつある。脚本の字は大きく印刷する。せりふのど忘れをカバーするため、本番では黒子を役者陣の後ろにぴったり配置、劇が滞る直前に救いの手をさしのべる。「手紙を読み上げる」シーンが目立つのも、手紙にせりふが書いてあり、ど忘れが防げるからだ。
 ただ、劇団員をいたわり過ぎないのも中高年を生き生きさせるコツの一つだという。
渡米メンバーは今、英語のせりふを猛特訓中。「一般の米国人は映画でも劇でも英語しか受け入れない。字幕も駄目」と分かったからだ。英語のテープを用意、自分のせりふをカタカナで丸暗記することになった。
 「大変だー」「覚えられへん」との嘆きが漏れるが、秋山は意に介さない。「『大変』なくらいがええんです。『大変』を味わいにここへきているんですから」
 かつて、彼らの「大変だ」を真に受け、せりふを減らしたら、反応は「えー、これだけ?」と不評を買った。主役を端役に変えようとしたら「いやいや、ちょっと待ってーな」。「みんな底力あるし『大変』なくらいでないと」と笑う。