馬鹿と呼べる男
4
「……よく降るな」
暖炉の間で本を読みながら、屋敷の主となったブライトンは、窓の外を眺めながら呟いた。
その声を拾ったのか、ブライトンの父親の代から住み込みで働いているメイドが、新しい紅茶を注ぎながら相槌を打った。
「本当に。屋根の修繕、昨日のうちにしておいて正解でしたね」
「そうだな」
屋敷の華が消え去って以来、二年間は誰も住んでいなかったこの屋敷も、ようやく主を得て、少しずつ力が戻り始めていた。
「……五年前のあの日も、こんな雨だったな」
そう呟いた主人を、メイドは寂しげに微笑んで見守っていた。
ブライトンが屋敷を離れた理由。
それはマチュアの失踪だった。
助けたことが縁となり、マチュアは三年間、ブライトンの屋敷に出入りを続けていた。だが、五年前の雨の日に、
マチュアは置手紙と共に失踪したのだ。
”新しい世界の為に”
マチュアの書き残したこの文句は、ブライトンの両親を愕然とさせた。
ブライトンを責め、理由を問いただそうともしたが、結局、これと言って答えを得ることはできなかった。
そのうちに暗黒教団の締め付けが強くなり、ブライトンは父親と共に中央に暮らすことになり、屋敷は数少ない
メイドたちの手で保管されることになった。
そして、ブライトンが父親の元を離れ、地元への出向を命じられ、ようやく屋敷は主を得たのである。
ブライトンは本を閉じると、悪夢を振り払うかのように首を振った。
「……戸締りは大丈夫か?」
「はい。先程、最終確認を致しました」
「ご苦労様。今日はもう終わっていいよ。こんな嵐の日は、早く眠るに限る」
そう言って暖炉の火を落としたブライトンは、メイドが立ち去るのを確認して、もう一度窓の外を見つめた。
その瞳は、左遷を受けた騎士とは思えぬほど、暖かく、慈愛に満ちていた。
夜も深まり、メイドたちも寝静まった頃、ドアが不意の来客を告げた。
慌てて起き出したメイドたちの一人を残して部屋に戻らせ、ブライトンは自らドアを開けた。
「何の用だ、こんな夜更けに」
「ここは、ブライトン殿の屋敷か?」
「そうだが……近衛隊の貴方が、何故このような時間に?」
雨に濡れた男のマントの紋章を見て、ブライトンは男を中に入れずに尋ねた。
「うむ。マギ団のことは知っておろう。そのマギ団の女スパイが、この辺に逃げ込んだのだ」
「マギ団の女スパイが? ですが、屋敷はとうに閉めておりましたので、おそらくここにはいないでしょう」
「そうか? お主は裏でマギ団に通じているとの噂もあるが」
意地の悪い笑みを見せる近衛隊員に、ブライトンは涼しい顔で受け答えた。
「左遷の理由は関係ないでしょう。無論、私とて王に忠誠を誓う騎士。マギ団の輩がいるとなれば、即座に捕まえ、
王の面前に引きずり出しますよ」
「ほぉ……では、お主を信じるとしようか」
「そうして下さるとありがたい。何しろ、メイドが不安がりますから。貴方のような性根の腐った人間を招き入れるとなりますとね」
冷たい火花を散らした二人を救ったのは、近衛隊員の同僚の、彼を呼ぶ声だった。
近衛隊員が去った後、起きていたメイドたちが一斉にホールに集合した。
「旦那様……今の話は本当でしょうか?」
「左遷されたこの私を恨む奴など、そうはいないだろう。本当にマギ団のスパイが逃げ込んでいるらしい」
ブライトンの言葉に、メイドの中にざわめきが走った。
それを抑えたのは、寝る前に紅茶を注いだ、古いメイドだった。
「心配しないで。しっかり戸締りはしたはずでしょう? 念のためにもう一度確認して、報告を頂戴」
「はいッ」
バタバタと駆け出して行ったメイドが消えると、ブライトンは一人残ったそのメイドに指示を出した。
「リーナ、他のメイドを寝かせてくれ。私は屋敷の庭を見回るとしよう」
「はい。雨具を用意致します」
「いや、いい。悪いが、君だけは起きていてくれないか?」
「……あの時から残っている者を、待機させます」
「すまん」
「いいえ。私たちも……彼女のことは忘れられませんから」
リーナの言葉に答えを返さず、ブライトンは雨の中を飛び出して行った。
屋敷の周囲を一周し、花壇に足跡がないかを確かめ、門の周囲を見回る。
何一つ手がかりのないまま、ブライトンは傘もささずに動き続けた。
「……やはり、ガセか?」
そう思った時だった。
屋敷の玄関に引き返そうとした彼を、植込みの中から現れた剣が動きを止めさせた。
「声を立てるなッ……殺すぞッ」
「……マギ団の者か?」
「黙れッ」
ブライトンは、冷静に相手の体力が酷く消耗していることを感じ取っていた。
「その体ではもはや逃げられまい。親衛隊も近辺を捜索している。この剣を引くんだ」
「うるさいッ」
「私を信用して欲しい。とにかく、屋敷へ来てもらおう。何なら、私を人質にとっても構わない」
植込みの中から、荒い息遣いと共に、ゆっくりと人の動く気配があった。
「……隠れさせてもらうぞ。前を向いて歩け。妙なことをすれば、その首、掻っ切る」
「わかった」
ブライトンが玄関に戻ると、待っていた古いメイドたちは一斉に声を殺した。
「……お客だ。熱いお茶を用意してくれ」
無言で動いたメイドに視線を送り、ブライトンは残っているメイドに玄関を閉めさせた。
「さ、この剣を外してもらおう。このブライトン、名誉に代えて君を騙すつもりはない」
薄っすらと殺気が消えてゆき、剣の先端がブライトンを外した。
それを見たメイドたちが、安堵の息を漏らす。
「……あなた、この家の主なの?」
消え入りそうな声に、ブライトンは頷いた。
その途端、剣が床に撥ね、一人の女性が床に崩れ落ちた。
その顔を見た途端、メイドの数人がすぐに部屋を準備する為に走り出した。
そして彼も、長らく呼びかけることのなかった名前を口にする。
「マチュア……君だったのか」
翌日、目を覚ましたマチュアを出迎えたのは、かつてこの屋敷にいた全員だった。
「……あたしは」
「昨日約束したはずだ。私は貴方の人質だと。体力が回復するまで、ここで休むといい」
「そんな……あたしにはそんな権利は……」
「五年ぶりに来たんだ。少しくらいゆっくりしてくれないか」
ブライトンの視線に耐えることが出来ず、マチュアは布団を握りしめた。
昨夜から続く雨は止まず、窓の外は灰色に覆われている。
ブライトンはとりあえず昔から雇っていたメイドだけを残し、他のメイドを一時的に解雇した。
「……あたしは、ここを捨ててマギ団に身を投じた女です。貴方の世話にはなれない」
「そんなふうに俯いて話されても、聞こえない。とにかく、騎士として病人の面倒は見させてもらう。リーナ、
悪いが逃げ出さないように見張っていてくれ」
「はい」
「他の者はいつもの生活に戻ってくれ。私は街に行って、情報を仕入れてくる」
そう言って出て行ったブライトンの背中をようやく視線で追ったマチュアに、リーナは小粥を差し出した。
「食べて、マチュアちゃん。あ、もう”ちゃん”じゃおかしいかな」
「いえ……リーナさん、でしたね」
「リーナでいいわ。なるべく、元気にならないでね」
そう言って微笑むリーナを見て、マチュアの表情がわずかに揺れた。
街へ出たブライトンが戻って来たのは、その日の夜が深まった頃だった。
出迎えたメイドに土産を渡し、彼はすぐさまマチュアのいる部屋に入った。
「マチュア、具合はどうだ?」
「……リーナさんに、よくなるなと言われました」
そう答えたマチュアの表情を見て、ブライトンは側に控えているリーナを小突いた。
「相変わらず、お節介なメイドだ」
「堅物のご主人様には丁度いいんじゃないかしら」
「バカ言ってないで、さっさと仕事に戻れ」
「マチュア様のお世話だけが仕事ですから。それとも、着替えさせましょうか? もちろん、出てもらいますが」
「……わかったよ」
主人の言葉に、リーナは花瓶の水を変えると言って出て行った。
その仕草は、完全に主を馬鹿にしていた。
出て行くメイドを睨み付けておいて、ブライトンはまだ寝た状態のマチュアに話を切り出した。
「今日、一日かけてマギ団の情報を集めてきた」
布団の中で、マチュアが体を硬くしたのが、ブライトンの目にもわかった。
「壊滅したようだ。少なくとも、この街では君しかいない」
「……そう」
ブライトンから視線を外して、マチュアは反対側の壁を見つめた。
「しばらくなりを潜めていれば、必ず脱出の機会はある。それまで、ここで療養してくれないか?」
「迷惑になる。あの日、ここを捨てたも同然のあたしに……できない」
「迷惑なものか。今の君を放り出せば、一生後悔する。今度はもう、泣き寝入りはしないつもりだ」
その時、マチュアがブライトンの顔を見ていれば、二人の夜はどうなったかはわからない。
だが、彼女は瞼をしっかりと閉じ、じっと壁の方を向き続けた。
「ダメよ……あの時、気付いた……貴方は騎士だって。優しく……しないで」
「それは逃げね」
二人の会話に、戻って来たばかりのリーナが遠慮なく割り込む。
「そんな理屈、単なる誤魔化し、言い訳よ。女って、そんなもんじゃないでしょ」
「リーナ、やめなさい」
「惚れてんなら、相手を罠に嵌めてでも奪うのよ。折角落ちてる男を捨てるなんて真似、していいの?」
「おい」
「言っちゃ悪いけど、マギ団、続けられるわけないじゃない。いくら剣の腕が立っても、誰かに守ってもらわなきゃ、
人間って生きてけないのよ。それに、連戦連敗で貴方をスパイに使うような団体が、この先、生き残れるとは
思わない」
辛辣なリーナの言葉に、それまで堪えていたマチュアが目を見開いて上体を起こした。
睨み合うような二人の間で、ブライトンは口を閉ざすことにした。
「あたしは、志願したのよッ。マギ団は絶対、この世の中を変えてみせるッ」
「変えてどうなるのッ? 変えたから、それでいいわけッ? 先が見えないのよ、それじゃ!」
「子供狩りを無くさせて、暖かい家庭を取り戻すのに、何の不満があるのッ」
「家庭をもったことのない貴方が言う理想なんて、ただの空想よッ。甘ったれないで!」
「……ッ!」
言葉に詰まったマチュアと同時に息を整えて、リーナは穏やかな口調に戻した。
「貴方の背中を守れるのはマギ団じゃない。ましてや民衆なんて、守ってもくれないわ」
「あたしには……マギ団が」
「守れない。現に守れてないもの。今、貴方を守っているのは私たちよ。しがない騎士の屋敷に住む全員だけ」
それまではリーナを睨んでいた瞳が力を失い、首をうなだれる。
「ブライトン様は、貴方の人質なんかじゃない。たとえ人質でなくても、貴方を助けたわ。もちろん、私たちもね。
それは、貴方が可哀想だからなんかじゃない。貴方が好きだから、忘れられないから。マチュアが大好きで、
家族だと思っているから。もう一つ言うなら、あの悲しみは、二度と味わいたくないから」
「リーナ……もう、いい」
「でもッ」
「お前が泣いても、仕方のないことだ。縛ることはない。マチュアを縛る権利はないんだ」
リーナが、イスに腰掛けているブライトンの肩に泣き付く。彼女を受けとめて、ブライトンは背中をさすった。
「マチュア、残って欲しい。焦ることはないんだ。焦る必要は、絶対にない」
「……ブライトン」
「リーナも、旦那が心配するだろう? 赤い目をした妻を見て、アイツが驚かないと思うか?」
「申し訳ありません……」
落ち着きを取り戻した二人の肩に手を置いて、ブライトンは微笑んだ。
「世の中を変えるには必要なものがある。指導者となるカリスマと、民衆のうねり。それから、優秀な戦士だ」
不安げに彼を見上げたマチュアに軽く頷いて、ブライトンは先を続けた。
「マギ団に足りないのはリーダーだろう。君をここに送り込んだ判断からして、間違っているからな。
優秀な戦士だって不足しているんじゃないのか?」
「……その通りよ」
「だったら、君がその一人になればいい。その為には汚れる覚悟が必要だけどね」
「そんな覚悟、出来ないはずがないわ……」
「リーナ、後は頼めるか?」
リーナを故意に見なかった主に、リーナは吐息をついてから答えた。
「ハァ……数人、ついてくでしょうね。旦那様が好きな連中だから」
「だ、そうだ。マチュア、私たちを受け入れてくれるか?」
「えッ?」
「共に被ろう……汚れた血を」