馬鹿と呼べる男


3

「……イヤァッ!」

 突然悲鳴を上げて、マチュアは跳ね起きた。
 辛うじてマチュアの不意打ちをかわしたブライトンは、それまで握っていた手を離し、マチュアの肩に手を置いた。

「落ち着け。もう大丈夫だ」

「……イヤッ、来ないで!」

「マチュア!」

 ブライトンが大声を上げると、錯乱状態になりかかっていたマチュアの瞳が、ゆっくりと動き出した。
 視界の角に彼を捉えたマチュアの肩から、少しずつ力が抜けていく。

「……ブライトン?」

「あぁ、俺だ。この部屋には俺しかいない。この屋敷には、仲間しかいない」

 力の抜けていくマチュアに相反するように、ブライトンは肩をつかむ手に力を込めていく。
 無気力な状態に向かっていたマチュアの体に、抵抗する為の力が戻り始めた。

「よし、もう大丈夫だな」

「えぇ。ごめんなさい」

 下半身をベットの上にだらしなく伸ばして、マチュアは上半身だけをたたせた状態で、目の前のブライトンに儚い表情を見せた。

「弱気になるな。キズはいつか癒えるものだ」

「貴方が助けてくれたのよね」

「マギ団の仲間を放っておけるほど、私は薄情ではないつもりだ」

 いつまでも自分の肩を離そうとしないブライトンの手の上から手を握り、マチュアはそっと目を閉じた。

「ありがとう、ブライトン」

「ようやく落ち着いたか。現状は、次の目的地に向けて休養の最中だ。君が眠っていた時間は……」

「いいわ、聞かなくて。まだ、戦闘は始まる気配がないのなら」

 ブライトンの言葉を遮るように首を横に振り、マチュアはゆっくりと体をベットに戻した。
 ブライトンの手がマチュアの体から離れ、ブライトンは上から彼女を見つめる形になった。

「そうだな。もう少し眠った方がいい。君は大事な体なんだから」

「ふふっ、それじゃまるで、妊娠してるみたいな言い方ね」

 口許で笑ったマチュアに、ブライトンは少しだけ照れた表情を浮かべ、水差しのありかをマチュアに示して、
心地よい足音を響かせて部屋を出て行った。

 

 

 一人、部屋に残されたマチュアは、布団を自力で整えると、天井を見つめた。

「はぁ……無理してるのかしらね」

 そう言って、何の模様も浮かばないはずの天井に、人の顔を描いた。

 少しくたびれた感じのするその顔は、彼女にとって掛けがえのない存在であり、手に入れる寸前で躊躇って
しまっている存在であった。

「素直に言えればいいのに……あの人しか、私を守れはしないのに。何でだろ……言えないのよね」

 体力が落ちている証拠なのか、彼女は隣に誰かが言えば聞こえてしまう程の独り言を漏らしていた。

 脳裏に浮かぶのは、気を失う前の光景。

 敵の表情、敵の刃、敵の死顔。
 味方の苦悶の表情、味方の刃、そして、彼女を担ぐ、唯一の人物の愛馬と、その人の腕。

 どれ一つとっても、彼女を休ませることは出来ない。
 だからこそ、彼女は呟くのだ。

「ブライトン……」

 

 


 マチュアの部屋を出たブライトンは、その足で、現在のリーダーであるリーフの部屋に報告に訪れた。

 ブライトンの報告を受けたリーフは安堵の表情を浮かべ、傍らにいるフィンも表情を和らげた。

「よかった……もうダメかと思ったよ」

「まぁ、強運の持ち主ですから。たとえどんなことがあろうと、彼女は生き抜くでしょう」

「そうかもしれないね」

 ブライトンは、目前のリーダーのことを頼りないと思っていた。
 彼が信頼するのは、リーダーの隣に常に立っているフィンの方だった。

 リーフも自分の不甲斐なさに気付いているのか、常に独断専行はしない。
 フィンと言う良き部下を使い、レンスターへの忠誠心や人の心をくすぐるようにして、この軍を取り仕切っている。

 

 

「次の作戦まではあと三日。間に合いそうですか?」

「間に合わないでしょう」

 フィンの質問に、ブライトンは即座に答えた。

「間に合わないですか」

「ここまでの疲労が溜まっています。今、彼女を戦場に向かわせることは、後の兵士を殺すようなものです」

「それは、私情を抜きにして、ですか?」

 ブライトンは、フィンのこの視線で、彼を信用すると決めていた。

「……私情を挟むほどの仲ではありませんが、抜きにしていると答えましょう」

「わかりました。今回の作戦では、貴方にも外れていただきます。彼女を頼みます」

「作戦内容は?」

「他言無用ゆえ、お話するわけにはまいりません。貴方の穴は、私たちが埋めます」

「フィン殿の考えに従いましょう。ですが、無意味な遠慮は無用に願います」

「もちろん。そこまで私はお人好しではありませんよ」

 軽く一礼し、ブライトンは二人に背を向けた。

 フィンの作戦が何かに心当たりはついたが、それを考えはしない。
 ブライトンにとって、前線から外れることは不安要素ではない。
 むしろ、自身が前線にいることによって、マチュアが監視の目を潜り抜ける方が怖かったのだ。

「ブライトン、騎士とて人間です。守りたい者は、側にいてやらなければなりません」

 ブライトンの背を追いかけるようなフィンの言葉に、ブライトンは背中越しに答えた。

「忠告、承りました」

 何か言いたげなリーフを目で抑え、フィンは部屋を去ってゆく男を見つめていた。

 ほんの数年前までの彼によく似た、不器用な男の背中を。

 

 

 


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