僕が変わらない理由
月が真上に上がった頃、炎が風も吹いていないのにぐらりと揺れた。
慌てて腰を浮かせかけた僕を、メルヴィルが静かに制してくる。「落ち着け、リッツ兄」
そういう彼女の視線は、一定の方向に向けられていた。
いつでも動き出せるように重心を変えつつ、僕もその方角を振り返る。月の光が届いていないのか、闇が蠢いているような錯覚を感じる。
いや、実際に何かが動いているようだ。「姿を現したらどうだ。それとも、その身を映せないほど醜いのか」
相手を揶揄するようなメルヴィルの言葉に、闇がはっきりとざわつきだした。
『ふふ……活きのよい女よ』
月の光をはっきりと遮った闇に、メルヴィルが炎のついた枯れ木を投げつける。
僕がまったく気付けなかった彼女の動きで、魔物の姿が炎に浮かび上がった。「うわっ」
その形を一言で表せば、ただ異形。
闇に爛れきった顔に、滴を垂らして溶けている腕が数本。
禍々しいというよりは、何もかもを取り込んだ、キメラに近いかもしれない。「純粋な魔ではないな」
『そうよ……これは与えられた力ではない』
「取り込まれたか」
『さて……取り込んだのはどちらかな』
魔の声は妙に粘っこく、聞いているだけで不快になる声だった。
メルヴィルを盗み見ると、彼女も眉をひそめて嫌悪感を表していた。「最近の失踪事件、貴様の仕業か」
『だとしたら……どうする』
改めて訊くまでもない。こいつが犯人だ。
懐に手を入れて、メルヴィルから渡されたカードを探る。「迷惑だ。消えてもらおうか」
『やれるものならな』
「うわっ」
魔物が吼えると同時に、月の光が完全に閉ざされた。
圧倒的な闇の中で、照らす範囲が小さくなった焚火だけが浮かび上がる。
僕は座っていられずに、焚火の奥へと隠れた。「それほど光を忌み嫌うか」
『光など不要。人は……闇にこそ真の姿を映す』
「確かに、貴様の姿は醜い」
メルヴィルの言葉に、闇が動いた。
僕にはまったく見えなかったにもかかわらず、メルヴィルにはしっかりと相手が見えているようだ。メルヴィルが伸ばされてきた触手をあっさりとかわし、素早く呪文を唱え始める。
こっちがまだ安全圏に逃れる前に、いきなり戦闘を始めないでくれ。「その身に棲まう火の精霊よ、我が魔力を糧としてその本性を示せッ」
彼女の呪文に応え、闇の先端が歪み始める。
だが、闇の先端は歪んだままで、メルヴィルを追った。『無駄だ』
「ちッ」
舌打ちをしながら、メルヴィルが袖からカードを引き抜く。
「STRENGTH」
彼女が掲げたカードが彼女の魔力を受けて、壁となって闇の触手を阻む。
それにもかかわらず、闇の触手は次々と彼女を包み込んでいく。『口ほどにも……ない』
「メルヴィルッ」
助けに行くこともできずに、僕はただ叫び声を上げた。
しかし、僕の声が届いていたのか、返されたメルヴィルの声は落ち着いていた。「大丈夫だ。この程度の闇に飲み込まれるほど、私は弱くない」
『さて……どうかな』
突然、木々のざわめきが音を増した。
慌てて周囲を見回すと、闇の中で何かが動き始めて……いや、闇が広がっていた。「空がッ」
これは僕にもはっきりと見える。
闇が信じられない速度で、幾重にも重なり合いながら空を覆い始めていた。「嘘だろ」
『貴様もすぐに……後を追える』
「冗談じゃないよッ」
僕の足元にも、触手が土の中から僕を捕らえようと土を盛り上げていた。
冗談にもほどがある。捕まってたまるかよ。「燃えてしまえッ」
焚火の中から火のついた棒を抜き出して、土から伸び上がってきた触手を焼き払う。
触手の進行が一瞬だけ止まり、炎を突き破って新しい触手が飛び出してくる。「間に合わないのかッ」
悪態をついている暇はない。
勘だけを頼りに、下から襲ってくる影をかわす。
焼き切れないと解れば、もう火は必要ない。「メルヴィル、何とかならないのかッ」
『無駄だ……女は既に闇の中だ』
そんなに簡単にやられるとは思わないけど、すぐに助けに来てくれるとも思えない。
このままじゃ、いつか捕まってしまうだろう。その時が最後だ。「あぁッ、もうッ」
目の前にありそうな触手の輪を大きく跳び越えて、懐からカードを取り出す。
手にしたカードが、己を使えと騒ぎ出す。「エイト・オブ・ワンズ!」
僕がそう叫ぶと、“速度”を示すカードから、魔力が僕に流れ込んでくる。
「追いつけるものなら、追いついてみろよッ」
魔力の加護を受けた足が軽くなり、急激な切り返しを可能にする。
手応えの限りじゃ、影の伸びる速度よりもこちらのほうが速い。『ほぅ……使い魔かと思っていたが』
使い魔なら、あっさりとご主人様を捕えられたりしないだろうけどッ。
闇の意識が僕に向いたのか、今度は上からも闇が襲ってくる。「こなッ」
真横から伸びてきた影に、身体を前方へと投げ出す。
走り高跳びのバーに、正面から突っ込んでいくような形だ。
上下から挟まれれば、こうする以外に逃れる手段がない。
それでも着地の瞬間に足を掬われたのか、受身すら取れずに転がる。「ごッ……こっ」
背中から木の幹にぶつかったらしい。
肺から強引に押し出された空気が、僕から呼吸を奪った。『さぁ……我になれ』
闇が迫ってくる。
何とか呼吸はできるようになったが、上下左右に逃げ場がない。
いくら魔力で動きを早めていても、逃げる隙間がなければ逃げられない。「ファイブ・オブ・ワンズ!」
懐からこぼれ出た“闘争”のカードをつかみ、自分自身に押し付けた。
カードから流れ込んでくる魔力を信じて、渾身の力で闇を払う。「のけぇッ」
真横に薙ごうとした両腕に、とてつもない重みがかかる。
まるで壁を相手に押しているようだ。「負けるかぁッ」
そう、こんなところで負けられない。
まだまだ、やりたいことだって残ってるんだ。「死にたくないんだよッ」
闇を打ち返し、すぐにその場から跳ぶ。
僕のいた場所を叩いた闇が四散して、なおも僕に向かってきたそのうちの一つを叩き落す。『やるな……男』
「だから、死にたくないんだよ」
こっちだって必死なんだ。
メルヴィルの助けが期待できないのなら、何としても逃げるぐらいはやってやる。『だが……そこまでだ』
最初は見えなかった闇の触手が、今ははっきりと見えている。
はっきりと見えさえすれば、今の僕にかわせないものでもない。「見えさえすれば、何とかなるさ」
『ほざくな』
感覚が鋭敏になっているせいか、背後から伸ばされてきた影でさえ、はっきりと認識することができた。
振り返りざまに殴りつけようとすると、寸前で二手に分かれてくる。「甘い」
後ろへ退かず、前へと突き進む。
分裂している陰を突き破ると、闇の触手がへなへなと落下した。「そういうことか」
わざわざ月の光を遮ったわけは、触手の正体を隠すためだったのか。
正体さえ解らなければ、有効な反撃手段も思いつかなくなる。「その正体、見破った」
僕の言葉に、闇がまた一段と濃くなったのが判る。
「触手の正体は木の根だ。お前は、植物の細胞分裂を操作しているだけなんだ」
返事はない。
でも、僕の言葉が届いていたのは、闇だけではなかった。「なるほど。さすがはリッツ兄だな」
「メルヴィル、生きてるのか」
「愚問だ。この程度のことで、この私が止められるとでも思っているのか」
メルヴィルの声と同時に、闇の一部が切り裂かれていく。
闇から割って出てきたのは、魔力で宙に浮かんだメルヴィルだった。「ふふっ、正体さえ判ってしまえば、子供の手品だな」
『ほざくな……女ァ』
闇が吼えた。
だけど、伸ばされた触手は彼女の前で動きを止めた。
闇がうろたえたのか、影が揺らぐ。「何を停止させればよいかさえわかれば、この私に止められぬものはない」
そう言ったメルヴィルが手にしていたのは、“不妊”を表す、クイーン・オブ・ソード。
「植物の根の先端……オーキシンと呼ばれる成長物質だな」
『わかったところで……何故だ』
闇から完全に姿を現したメルヴィルは、いつもの笑みを浮かべていた。
「何に作用させればよいかさえわかれば、私にはそれを可能にする力がある」
『バカな……女ごときに』
「言い訳は後で聞いてやろう」
そう言ってメルヴィルが取り出したのは、何も描かれていないタロットカードだった。
久しぶりに見る、メルヴィルだけが行使できる特別なカード。「そろそろ、この茶番も終わらせてもらおうか」
『何を……する気だ』
新しく伸びてきた木の根が、今はもう月の明かりに浮かんでいた。
「リッツ兄」
メルヴィルに言われるまでもない。
僕は勢いのなくなった木の根を叩きつけ、彼女を守る。「古より懐かしきもの、現よりも実りあるもの
永き眠りより、誕しく生をうけ
今ここに、我の魔力の礎とならん」メルヴィルに集められていく魔力が、まぶしい光を放ち始めた。
「今、ライダー・メルヴィルの名の下に、白きカンパスにその身を納めるがよい」
メルヴィルの掲げた無地のカードに、闇が吸い込まれていく。
激しい断末魔と嵐のような風が収まったとき、メルヴィルだけが優しく微笑んでいた。