恋歌は風になった

第四章


 お互いの本当の正体を自ら口にしてから、二人は、謁見の間からバルコニーの方に足を向けて、一緒にバルコニーに出る。
 マンスターの街が見渡せるほどの高さであり、城壁と街の間には、広大な農場が広がっている。
 その場所にある白いテーブルと椅子の方に、紅茶と菓子を移し、そちらの席に移り紅茶と菓子を口にしながら、優雅に二人は向かい合う。
 「…道理で、多くの民を指導出来ると思いました、セティ様」
 「マンスターの民の事かな?」
 「はい。まるで貴殿を王の如く崇拝しています。我がフリージのミュラーが無視され、貴殿を選んだ。…王が民を支配するのではなく、民が王を選ぶとは、正直驚いた」
 イシュタルは、心底感心している。
 「王、王足らずば、民、民である必要なしだな」
 イシュタルは、グランベルに伝わる格言を口にすると、セティも、
 「善政であれ、悪政であれ、支配は恐怖でしかない」
 優しげで、理知的な緑石色の瞳が、イシュタルを見ながら呟く。
 「…何かの格言ですか?」
 「祖国、シレジアの格言です。善悪関係なく、支配は恐怖を生み、何れ爆発するものである。だから、上に立つ者は、『支配』ではなく、『指導』を学ばねばならないと言う意味です」
 シレジアの哲学は、大陸でも特殊である。
 殆どの国は、支配者階級の人間が書いた哲学書なのだが、シレジアの哲学書は、一般人によって書かれた物である。
 それは、シレジアを建国した英雄、「風使いセティ」の影響であろう。
 彼はシレジア王国を再建するなり、教養ある一般人に哲学書を作るように依頼した。
 「財産は果てる。肉体も果てる。だが、叡智は果てる事はない」
 セティ・シレジア一世の言葉である。
 彼は、支配者階級の人より、平民階級の人々の知性を重んじた。
 それゆえに、シレジアの哲学書は、他国の支配者階級からは好まれていない。選ばれた支配者階級の叡智ではなく、ただ蟻の様に働くしか出来ない平民の知性など、取るに足らないものなのだ。
 他国の支配者階級はそう考えていた。
 だが、シレジア王国では、セティ・シレジア一世から、行方不明の現国王、レヴィン・シレジアに至るまで、その一般人の人の教養人達が作り上げた哲学書、「偉大なる叡智」を、シレジアの道徳価値観として定めてきた。
 そして、次期王位継承者、セティ・シレジア二世にも、その「偉大なる叡智」を道徳価値観として育ち、生きてきたのだ。
 イシュタルは、セティと違い、グランベルの道徳で生きてきた人間である。
 一七年前の内乱により、形式は変わったが、古くから伝わる「ブラキの書」が、グランベルの道徳価値観である。
 「セティ様。貴方の話では、王侯貴族の存在は軽い様に聞こえるのだが、そう思いなのであろうか?」
 すると、セティは即答した。
 「貴方達帝国貴族が思っているほど、重くはないし、また軽いものでもないでしょう」
 「…ほう、どれほどの重さだと思われるので?」
 「難しいですね。貴族にせよ、平民にせよ、その人の責任感の強さだけ重くなると私は思います」
 イシュタルは軽く息を吐き、その完璧なまで碧眼を、セティの緑石(エメラルド)の様な瞳を見つめる。
 「責任感。…セティ様はそのお言葉が好きなようで」
 「と、言うよりは、生きている人間の義務です。王には王の義務があり、貴族には貴族の義務があります。…でも、パン屋にもパン屋の責任と義務があります。…パン屋だけではありません。猟師、農民、大工、職人、商人等にも、それぞれの責任と義務があるのです」
 セティは物静かに喋る。
 だが、声は澄み切っており、聞き取りやすく、思わず聞き惚れてしまうほどである。
 「私は、王侯貴族と言う存在は、貴方達が思う程、選ばれた人間だとは思いません」
 その台詞に、イシュタルは反論する。
 「何?選ばれたからこそ貴族であろう。王族であろう。だからこそ我々が民を支配し、良い方向へ導かねばならないのだ」
 イシュタルはハッとした。
 セティが黙って聞いているのだ。
 反論はせず、自分が喋り終わるまでしっかりと聞いているのだ。
 (セティ…反論はしないのか?)
 拍子抜けかと思った瞬間、セティはイシュタルが喋り終わった事を確認してから、口を開いた。
 「イシュタル殿。我々は何に選ばれたのですか?」
 「支配者として、だ。人々を導く為にだ」
 「その導く方向が、戦争なのですか?」
 イシュタルは思わず声を呑み込んだ。その時、セティが続けて、
 「民は戦争を求めているのですか?それとも民を犠牲にしてまで平和を求めるのですか?どれくらいの犠牲を民に要求するのですか?」
 イシュタルは答えれない。セティもしばらく無言になる。  …長い沈黙が続く。  「もう、戦いはやめませんか?我々マンスターはおろか、シレジアだって戦いたくないのです。セリス王子率いる解放軍だって、本来は戦いたくないでしょう」
 「言い切れるのか?」
 「間違いなく。戦争に頼るのではなく、話し合いで解決しましょう。相手を見下すのではなく、尊重して」
 セティの顔は優しい顔であった。これほど熱弁をしながらも、瞳は優しげで、口元も物静かで優しい青年の口である。
 「マンスターに自治権を与えてください。マンスター代表としての言葉です。そしてシレジア王子としての言葉は、アルヴィス皇帝、もしくはユリウス皇子との交渉出来る様に、貴女の力を借して欲しいのです」

 

 

 交渉…アルヴィス皇帝陛下と、ユリウス様との…  その時、イシュタルの心の中で何かが弾けた。
 それは、グランベル帝国の公女としての血であろう。そして、ユリウスと言う名前には、激しく反応する「女」としての魂であろう。
 「…それは、無理でしょう」
 冷静と言うよりは、冷ややかな態度であった。
 「どうしてですか?」
 「今のグランベル帝国の実権は、ユリウス皇子です」
 「それなら、ユリウス皇子と…」
 「駄目でしょう。ユリウス皇子は、話し合いに応じる御方ではありませぬ。それが、シレジアの王子と分かったら貴方様を殺しにかかるでしょう。ユリウス様は、そう言う御方なのです」
 冷めた…、冷めた声であるが、不思議な感情が篭っている。
 セティにはそう感じられた。
 「犬や猫ではないでしょう。人なら話し合いが可能です」
 「ユリウス様は…人ではありません…鬼神の力を持つ、赤子です」
 「赤子?」
 意外な言葉に、さすがのセティも驚きの表情を隠せない。
 そして、ユリウスの名前を語る時の、イシュタルの瞳に宿る哀しい彩の色にも気付いた。
 セティは、ぬるくなった紅茶をゆっくりと飲みほし、しばらくイシュタルの顔を観察する。
 色恋沙汰に疎いセティだが、イシュタルの美貌は非凡である事は間違いなく認めている。理知的であり、自立心と独立心に満ちた毅然とした態度を崩さない中にも、時折少女の儚げな顔を見せるのだが、その顔がセティには何か彼女が無理しているように思われるのだ。
 「イシュタル殿…。鬼神の力を持つ赤子とは、どう言う意味でしょうか?」
 「…その意味の通りです。鬼神の如く畏怖すべき力を持ち、恐怖で人を支配してます」
 「圧倒的な魔力を持つとは聞いた事がありますが」
 「…はい、でも、炎の紋章、ファラの力でもなく、光の守護神、ナーガの力でもありません…」
 おかしな話だ。セティは思う。
 ユリウス皇子は、二人の聖戦士の間で産まれた筈である。火のファラと、光のナーガの力を持っているはずである。
 それを聞こうとしたら、イシュタルはその前に答えた。
 「セティ様も、彼に近付いたら分かります。…暗黒神ロプトウスの禍々しき力を感じるはずです」

 ……暗黒神ロプトウス…。
 その名前は、セティの精神を遅効性の猛毒に犯されたような効果を与えた。
 セティの精神はおろか、神経も麻痺した様に動かない。
 「ユリウス皇子が、暗黒神だと?」
 「…間違いないです。…ある日を境に…」
 イシュタルは忘れている。…目の前にいる相手は、シレジア皇子であり、帝国軍でも、最大の敵であるセティである事を。
 だが、イシュタルは既に、セティの人柄に知らず知らずに惹かれ、心の底を話してもいいと思うようになっていたのだ。
 これは、セティの策略でも何でもない。彼の生まれ付いての王族としての気品と、カリスマ。そして、その血に恥じぬ教育と人格から生まれたカリスマ性である。
 後に、「賢聖王」と呼ばれるセティの、帝国の幹部ですら魅了させる、彼のカリスマ性を証明する事実だと、後の歴史書に書かれている。
 だが、事実は二人が知っている。
 事実は、セティが「男」であり、イシュタルが「女」で会った事である…。
 「その日までは、ユリウス様は優しくて、多少、意固地な処もありましたが、次期皇帝候補に相応しい器でした」
 セティは黙って聞いている。
 「でも、マンフロイ宰相が、ユリウス様に漆黒の本を渡してから、…あの優しかったユリウス様は…」

 

 

 (これが、父上の言っていたマンフロイの陰謀か)
 セティはそう思い、背中に背負っている聖戦士の魔道書、『フォルセティ』を思う。
 暗黒神ロプトウス。
 厄介な敵だ。
 セティは、そう思わずにいられない。
 マンスター城を出ながら、セティはそう考える。
 城門から出る時、門兵数人が彼に敬礼し、セティを見送る。
 話し合うタイミングではなかった。
 イシュタルが、突然黙り込み、声を発さなくなった。
 数分の沈黙の後、イシュタルは礼節正しい姿勢と口調で、
 「…セティ様。申し訳ない…ちょっと、考える時間をくれないのか?」
 「…はい」
 セティは頷き、立ち上がった。
 その後、イシュタルは謁見の間から出て行き、しばらくしてから小間使いの少女が、セティに紅茶の葉が入った瓶を渡しながら、
 「申し訳ございません。イシュタル様は少しご気分が悪くなったそうです。何れ、イシュタル様の方からセティ様に会いに行くと伝えておくように言われました」
 「…分かりました。では何れ」
 紅茶の葉が入った瓶を快く受け取り、セティはマンスター城から出て行った。
 マンスター城の王室で、イシュタルは天蓋ベッドの上に、その身を沈めていた。
 うつ伏せになり、柔らかいベッドの上に微動すらせず、眠りもせずに物思いに耽っている。
 一四歳の頃、ユリウスは優しい思いやりのある少年であった。
 父は、皇帝アルヴィス。
 厳格だが、皇帝として有能であり、グランベル帝国の重みを背負っても、決して疲れるそぶりも見せない男である。
 多少窮屈だが、帝民達にとっては理想の皇帝である。
 全ての責任を背負い、決して帝民達を疎かにしない男。
 その皇帝の継承者に相応しい少年として、ユリウスは成長していった。
 薔薇の花の様に情熱的な赤い髪の少年は、ヴェルトマー城の書斎で、歴史書を手にして、黙読している。
 長時間に渡って、読む彼に、同じく一四歳の頃のイシュタルが、地下水で冷やした葡萄水を持ってきてやる。
 「ユリウス様?」
 彼女は、この頃からユリウスに淡い恋心を抱いていた。
 面長の自信に満ちた顔のユリウスは、イシュタルから葡萄水を受け取り、一息吐く。
 「イシュタル、ロプト教を知っているか?」
 「はい、何でも邪教を信仰する教団だと」
 「違うな。多分彼等は、普通の教団だったんだ。長い年月の迫害と弾圧で、人々を憎むようになり、狂気へと走らせたのだ」
 ユリウスは本を閉じて、イシュタルに呟く。
 「父上が言っておられた。最下層の人々が安心出来る世界こそ、真の平和だと。理想かも知れないが、理想を現実に変えてみる事にする。シレジアの格言で、『昨日の理想は、今日の希望であり、明日は現実となる』との言葉があるそうだ」
 自信に満ちたユリウスの顔は、イシュタルにとってまぶしく、帝国の誇りとなる筈であった。
 …それから一年後に、ユリウスはマンフロイの手によって、暗黒神の力を目覚めさせられるのだが。
 ……あの時のユリウス様が、まだユリウスの心に眠っていると信じたいイシュタルである。
 (…疲れている…寝よう。眠れば少し落ち着くだろう)
 イシュタルは、息を整え、目を閉じて、睡眠に入った。

 イシュタルは夢を見た。
 あの優しかった頃のユリウスが、イシュタルに手を伸ばしている。
 (イシュタル、私はやってみる。最下層の人々が、豊かに安心して暮らせる世界にするために)
 (はい。このイシュタル。微力ながらユリウス様に尽くします)
 イシュタルは深々と頭を下げた時に、ユリウスが、
 (皇帝は絶大な権力を持つより、皇帝に反論出来る人材も必要だ。権力者が暴走した時の為にも)
 ユリウスは少し考えてから言う。
 (…ダナン大公の次男と三男や、お前の兄にもその役目を任せたいと思う。もし、私が皇帝になって、間違った道を進んでしまった時に、止めれる役目を)
 (ユリウス様…ユリウス様がその様な過ちをするとは思えません)
 (いや、時に私は怖い夢を見る。目の前に大勢の人々が死んでおり、気付くと私の手が血に染まった夢だ…。生々しくて、恐ろしい)
 それはあくまでも夢です。イシュタルがそう言おうとすると、何の間にか、ユリウスは消えているのに気付いた。
 驚き、周囲を見渡しながら、イシュタルはユリウスを呼ぶ。
 だが、ユリウスはいない。完全に消え去ったのだ。
 (ユリウス様?)
 ふと、背後に気配を感じ、振り向くと、そこにユリウスがいた。
 だが、瞳は異様な輝きを放ち、気品の中に、残忍性を秘めた笑みを浮かべている。
 子供の様な無邪気な笑みだが、残虐性を秘めた笑みでもあり、異様な笑みがイシュタルを怯えさせる。
 (イシュタル。敵だ。お前の心を迷わせる敵が来たぞ!)
 ユリウスが指を向けた方向を見ると、そこにセティがいた。
 (セティ…)
 セティは真剣な表情で、ユリウスを直視している。
 (やれ、イシュタル。我が忠実なる配下なら、奴を倒せ!)
 その一言に、イシュタルは思わず迷う。
 (…何故迷う?私はユリウス様の敵を倒せばいいのだ!)
 (迷うのは、自分が正しいと思っていないからだ)
 セティが叫ぶ。それに反応し、彼の瞳を見るイシュタル。
 (…セティ…)
 再び、ユリウスが叫ぶ。笑っているが、反論を許さない口調であった。
 (惑わされるな、奴は敵だ!)
 だが、セティも負けずに叫んだ。
 (イシュタル!今のままでいいのか?私にはそうは思えない!君は間違っていると自分でも気付いている筈だ)
 (セティ……)
 (違う、私はセティではない!)
 セティは、優しげな笑みを浮かべ、両手で自分の顔を隠し、呟きだす。その声は女の声に変わっていた。
 (…私は……)
 両手を下げる。すると、その顔は女の顔に変わっていた。その顔はイシュタルは見知った顔だ!
 特に鏡のある部屋なら、その顔を見る事が出来る。
 (イシュタル。君の良心だ!)

 「!!」
 夢から覚めた。
 白皙の額に大粒の汗を滲ませ、その汗を片手で拭い、イシュタルは息を整える。
 (…私の…良心だと?)
 頭を抱え、苦しそうに呟く。
 「何故、悩んでいる…私は…何に悩んでいる。助けて、ユリウス様…」
 ユリウスの名前を呟いたものの、心の中では、別の人物に助けを求めようとしていた。 
 (セティ。…貴公なら、私の苦しみを分かってくれるだろうか?)
 イシュタルはまだ気付いていなかった。
 自分も何時の間にか、セティの人柄に心服し、何時の間にか助けを求めるまでになっていた事を…。

 

 

 セティは、「白狐の巣」の近くにある中央広場にいた。
 朝には市が立つ広場で、周囲の人々が野菜や果物、穀物などを買いに来る。
 当然、その様な中央広場は、普段でも人通りが激しく、活気に満ちている。
 セティは、傍の果物屋から林檎をふたつ買い、広場の噴水場の壁に腰を降ろし、林檎を齧りだす。
 セティは林檎が好物である。その林檎を食べる時のセティは、本当に安堵感に支配される。
 だが、そのセティの元に、一三歳くらいの少年がやってくる。
 おかっぱの髪の小柄だが、少年らしい生き生きとした躍動感に溢れている。
 少年は、パンを手にして、セティの前に立つ。
 「セティ様。僕が初めて焼いたパンです」
 「ほう、上手に焼けたね、ウイロ」
 ウイロと呼ばれた少年は紅潮しながらも、セティにパンを渡した。
 「…これで、僕も皆の役に立てるんですね?」
 その少年に暖かい笑みを向けながら、
 「ああ、しっかりとパンを焼いていれば、皆の役に立つ」
 その言葉に、ウイロは嬉しそうに破顔した。
 「そのパン、食べてください。僕はこれからちゃんと、パン焼きの勉強を続けます」
 「ああ、がんばるんだ」
 セティの励ましに、嬉しそうにウイロは去っていった。
 受け取ったパンは、まだ焼きたての香ばしい匂いがする。
 セティは、一口サイズにちぎって、口にする。
 なかなか美味しく焼けていると思った時、強力な、「雷」の気配を感じ、セティは周囲を見渡す。
 すると、「白狐の巣」から、イシュタルがやってくるのが分かった。
 「…ここに、いましたか、セティ様」
 「気分は良くなりましたか、イシュタル殿?」
 「…まあ、まあだ」
 「パンを少し食べますか?」
 「はい、少し」
 そう言うと、セティは一口サイズにちぎり、彼女に渡す。イシュタルはそのパンを口に入れると、香ばしい匂いとまだ暖かく、口の中で溶けるようなパンの食感に驚いた。
 「これは?」
 「この街で、一番のパン焼き名人の息子が作ったパンです」
 「…こんな美味しいパンは、久しぶりだ」
 その台詞に、セティも頷く。
 「どうです、一般市民の責任感は?」
 「え?」
 意外な質問に、イシュタルは首を傾げた。質問が的を得ていない様な気がしたのだ。
 「私は、その様な美味しいパンを焼ける自信はありません。貴女はどうですか?」
 「…無理だと思う…私はパンを焼いた事がない」
 「誰よりも美味しいパンを焼き、忙しい人達の為にパンを焼く。それがパン屋の責任だと思いませんか?」
 優しく問うセティに、イシュタルは思わず頷いた。
 「王侯貴族だけでは、パンは食べれません。農民が小麦を作り、パン屋が焼いて初めてパンが食べれるのです。…一般市民の力も凄いと思いませんか?」
 「ああ、確かに」
 「我が名の由来となった、『風使いセティ』は、民衆を愛しました。私には、それが分かります」
 淋しげな瞳で、公園内の人々を見守るセティ。その姿にイシュタルは見惚れる。
 二人の目の前を、金髪の髪の、ちょっと頼りなさそうだが、優しげな青年が、赤い髪のロングストレートの、綺麗な女性と腕を組んで歩いているのが見える。
 二人はセティに気付くと、会釈する。セティもそれに手を振って答えた。
 「…知り合いなのですか?」
 「…ああ、ベルナルドとクレスティオンヌだ。…ベルナルドがトラキア人で、クレスティオンヌがレンスター人だ」
 「…ほう、敵同士…」
 「ああ、国の間ではね。でも、民間人には関係ない。我々王族から見れば敵かも知れないが、民間人からすれば、旅の楽師の青年と、子供に学問を教える女性にしか過ぎない」
 セティは、温かな瞳で、歩き去っていく二人を見ている。
 「…敵国同士でも、恋人となる。…羨ましい事だ。…民間人が羨ましいと思う時がある」
 「…どんな時?」
  セティは立ち上がり、ウイロ少年からもらったパンを大切そうに持ちながら、
 「精神的に自由な事です」
 先ほどのベルナルドが、クレスティオンヌが持っていた楽器を手にして、公園の中央に立つ。
 クレスティオンヌが、その傍で、興味深げに、そして愛情豊かな瞳で見ている。
 ベルナルドがリュートを奏で始めた。
 彼は、決して美男子ではないが、好感の持てる顔をしている。顔は、悪くはないが、美男子と言う程の者でもない程度の顔である。だが、不思議と人々が安堵する顔であろう。
 だが、この街でも有名な美少女であるクレスティオンヌにしてみれば、「美男子」に見えるのかも知れない。

 

 

 イシュタルは沈黙した。  セティも、穏やかな笑みを浮かべたまま沈黙している。
 公園の周囲の人々も、足を止め、時の刻みが止まった。
 人々が、一点の方を見つめ、「ある音」以外の音が沈黙した。
 爽やかな音である。そして声も爽やかである。
 決して美声ではなく、素朴な歌声だが、それが返って心地良く人々の耳を刺激している。
 クレスティオンヌは、瞳を閉じ、旅をやめ、自分と暮らす事を約束してくれた若者の歌声に耳を傾けている。
 それは、彼女だけではない。
 周囲の人間も、ベルナルドのリュートの演奏と彼の声に聞きほれている。
 風の様に流れる曲に、イシュタルも不思議と魅入られた。
 ベルナルドの歌は、恋歌であった。
 
セティは、イシュタルの耳元で、彼女の魅入っているのを邪魔しない程度に囁いた。
 「素晴らしい声でしょう。これが楽師と言うものです」  
 ベルナルドの演奏が終ると、周囲から拍手喝采が起こり、彼の足元に置いてある小さな瓶の中に、硬貨が放り込まれる。あっという間に、硬貨が溢れ出す
 ベルナルドは頭を下げて、それを受け取る。
 その彼が瓶を持ち上げた時、その上に一枚の金貨が乗った。
 ベルナルドは驚き、金貨を置いてくれた人物を見た。
 イシュタルであった。
 「…これは、多すぎます」
 イシュタルは照れくさそうに呟く。
 「出してしまったんだ。快く受け取ってくれないか…」 
 自分より困った顔をするイシュタルに、ベルナルドは素朴な笑みを浮かべ、
 「はい。ありがたく頂きますよ。ありがとうございました」
 丁重に頭を下げて、金貨をクレスティアンヌに渡した。
 彼女もイシュタルに頭を下げ、二人は去っていく。
 「金貨とは気前がいいですね」
 「…セティ。私は貴方の言う事を少し理解しました」
 「何をでしょうか?」
 「民間人の力は偉大だって事です。あの様な心に染みる歌は、今まで聞いたことがない」
 セティは笑う。
 「ええ、良い歌でしょう。『風になりたい』と言う歌です」
 すると、イシュタルもセティの方に首を曲げ笑った。セティの前で初めて見せる笑顔だ。
 何時もの知的で、冷酷に近い冷静な笑みではなく、少女の様な無防備な笑みであった。
 セティは驚いた。この様な笑みが、彼女に出来るとは思わなかったので、その笑みを見て驚いた。
 あが、次に意外と似合っている事に気付き、セティも微笑した。
 (雷神イシュタルも、この様な少女らしい優しい笑みが出来るのだな)
 「…宮廷で行われる詩の朗読会や、退屈なだけの音楽祭とは違う魅力がある…」
 そう、言いながら、彼女はベルナルドの歌っていた歌を少し口ずさんだ。
 「…生まれてきた事を 幸せに感じる…」
 その後にセティも歌い出した。
 「格好悪くても良い あなたと 風になりたい」
 緑石色の瞳と、碧眼の瞳が重なり、二人は笑いあった。
 そう、イシュタルは笑った。
 何年ぶりかで、心の底から笑っている自分に、幸せを感じた。
 「パン焼き少年のウイロも、楽師のベルナルドも、学問所で、子供達に学問を教えるクレスティアンヌ…」
 セティはその三人の名前を出しながら、話を続ける。
 「彼等を戦火に巻き込む真似だけは、私はしたくない…」
 その台詞に、イシュタルは反応した。
 「…確かに」
 「だから、お願いです。この国に自治権を認めてやってください。そうすれば、帝国の為にもなります。もし、力押しの戦争になれば、ベルナルドや他の皆はおろか、帝国内のベルナルドやクレスティオンヌ、ウイロの様な人々も苦しむ事になります。彼等を、一般市民を守るのが王侯貴族の義務ならば、その義務を果たしましょう」
 セティの優しげで、知性と教養を完璧に融合させた表情が、イシュタルの心に素直に入っていく。
 「若者に希望を与え、老人に保障を与えるのが王侯貴族の義務ですから」
 …敵国とは言え、セティは王子であり、イシュタルは、帝国領土内の公国の子女である。つまり、身分的には、セティの方が上なのだが、それでも、優しげに相手を思いやるように語るセティの笑顔は、イシュタルの心を溶かしていく。
 (…ユリウス様…。もし、セティなら、…この優しい風の王子なら、ユリウス様の心を再び、戻してくれるかも知れない…。そう、セティなら、ユリウス様を元の優しいユリウス様に!)
 だが、自分の心の中に入り込んだセティの優しさは、ある意味、自分の心の中にいるユリウスに匹敵した。
 それは人間としての尊敬の念ではなく、女としての想いであった。
 だから、セティに声をかけられた時、思わず紅潮してしまった。
 「どうです、ここで話すのも何ですから、『白狐の巣』で、話でも…」
 「あ、…はい…」
 
少し、しおらしくなった彼女に驚きながらも、セティは彼女をエスコートする。
 これは、王族に生まれたセティが、教育として受けた貴婦人への礼儀作法であり、別に下心があったわけではないが、イシュタルの手を恭しく握り、彼女を誘う。
 (苦しい…)
 (息が苦しい…)
 (…声が出ない…)
 (…私は、どうしたのだ?)
 心の中で自答する自分に、答えは直ぐに見つかった。
 そう、この息も出来ない苦しさは一度味わっている。
 …ユリウス様と初めて会った日の事だ。
 (…セティ…さま…)
 イシュタル本人は気付かなかった。本当は、ユリウスの名前を出したかったのに、セティの名前が出た事に。

 

 

 その頃、コノート城では、凶報が届いた。
 その凶報は、ブルームを顔面蒼白にさせ、冷静な彼が一瞬取り乱したと言われている。
 それは、メルゲン城で反乱軍を迎え撃ったイシュトーが、反乱軍の黒衣の騎士、アレスと死闘の果てに、戦死したとの情報であった。

 その一方で、トラキアからマンスターへ向かって疾走する馬が一頭いる。
 その馬を走らせるのは、マンスターの囚人、リットリオであった。
 彼は馬を走らせながら、独り言を呟いていた。
 一年の囚人生活が、彼に独り言を言う癖を付けたのだが、彼の表情は真剣だった。
 「セティ様!セティ様!…トラキアが…トラキアが!」

(続く)

 


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