恋歌は風になった

第三章


       この世で最良の組み合わせは、力と慈悲
             最悪の組み合わせは、弱さと争いである

元英国首相 W・チャーチル

 ※

 マンスター城の現在の城主は、フリージ家の血を引くミュラー侯爵である。
 最近までは、彼がマンスターを支配していた。
 だが、突如と現れた緑石色の髪と瞳の若者が、市民を指導すると同時に、信じられぬ事が起きたのである。
 マンスター市民が、突如としてミュラー侯爵の支配を拒否し、その若者、セティを、自らの思考で指導者にしたのだ。
 貴族を一切無視したこの市民の行動に、ミュラー侯爵は、未だかつて経験のない事に驚き、騎士団を動かし、市民を強制的に支配下に置こうとした。だが、マンスターに置かれた騎士団の大半は、マンスター人である。
 この人員政策は、フリージ家の失態ではない。
 シレジアの独立に続いて、ヴェルダン、アグストリア、そしてこのレンスターでも、リーフ王子率いる王家の残党が反旗を翻した今、それらの場所に、兵力を分散させているのが実情で、兵力が減少している昨今、現地での徴兵しか、兵力を確保するしかなかったのだ。
 その結果が、彼等もフリージの旗を捨てレンスターの旗を掲げたのである。
 祖国を支配するミュラー侯爵よりも、祖国を良き方向に導くセティの方に、マンスターの人々が味方したのは当然であろう。
 「馬鹿な!セティと言う小僧は、どこの国の馬の骨かも分からぬ男だぞ。そんな男の言う事を聞くと言うのか?」
 ミュラーは叫ぶが、マンスターに戻った兵士の一人が答えた。
 「ああ、確かにセティ様は余所者だ。だが、あんたも所詮、我々からみれば余所者だよ」

 ミュラーは残った正規軍を動かそうとした。
 だが、冷静に考えれば、この土地は、トラキアの国境付近である。
 この状況をトラキアに知られたら、正規軍の力を弱まった隙を付いて、あのハイエナの様なトラキア軍は侵攻してくるに違いないのだ。
 (しまった!まさか、セティと言う小僧はここまで読んでいたのか?我々が手出しできない事を知ってて?)
 ここはもう、恥を晒すのを覚悟で、レンスター城にいるブルーム大公に助けを求めたのだ。
 だが、今、侯爵の前にいるのは、その大公の娘である、イシュタル公女であった。
 「…ああ、あの男ならそこまで読んでいるだろう」
 普段なら、自分が座る玉座に、イシュタルが脚を組んで座り、目の前で膝まつく侯爵を見下ろしている。
 侯爵は、身体の震えを止める事が出来ず、怯えている。
 仕方がない。支配する民衆に無視された貴族など、歴史上初めてのことである。この失態はとても許されるものではない。
 どの様な処罰が自分に掛けられるか、想像しただけでも冷汗が止まらない。
 しかも、目の前にいるのは、あのユリウス皇子の第一妃候補のイシュタルである。本来は厳しい面もあるが、根の優しい少女である。
 だが、ユリウス皇子の突如の暴君に変化した時に、彼女もそれに従っている。皇子の為なら、どんな事にも従う冷血公女…。
 恐ろしい…。自分にどんな御咎めを与えられるかを考えるだけでも…。
 「…ミュラー」
 「…は、はい」
 「お前に咎(とが)はない。あのセティと言う若者が、お前より何枚も上手だったのだ」
 意外な一言に、ミュラーは大きく安堵の息を付いた。
 「だが、誰も咎を背負わないのは、良くない。最高責任者が、その責任を背負わねばなるまい。責任を背負うのは、貴族の義務ゆえにな」
 その台詞に、再びミュラーは驚き、イシュタルの方に、憔悴した眼光を向けた。
 「貴公の領地を没収する。侯爵の称号も剥奪し、男爵だ。爵位があるだけでもありがたいと思え、分かったな」
 「…はい」
 ミュラーはうなだれた。だが、安堵もあった。
 侯爵は領地を持つ貴族だが、男爵は領地を持たない貴族である。
 つまり、降格であり、名前だけの爵位に落とされたのだ。
 「失せろ。護衛は付けてやるから、フリージヘ帰れ」
 イシュタルは突き放つようにいった。
 ミュラー侯爵…いや、男爵は平伏したが、心の隅ではホッとした。
 命が助かっただけでもよしとしよう。
 そう思ったのだ。
 …だが、最後までイシュタルは知る事はなかったが、ミュラー男爵は、フリージ家に戻ったと同時に、ユリウスに捕らえられ、火刑に処せられたのだ。

 ミュラー男爵が去った後、イシュタルは玉座の肘掛にもたれる様に座り、深い溜息を付いた。
 物思いに耽っているのだ。この時のイシュタルの顔は、無防備な少女そのものの顔であった。
 (…ユリウス様…たとえユリウス様がどの様な道を行かれようとも、このイシュタル。微力ながら最後までユリウス様の剣となり、楯となります)
 そう、あの優しかったユリウス様でなくても、ユリウスはユリウスなのだ。
 自分が幼い頃から淡い想いを抱いていたユリウスなのだ。
 …その時、イシュタルは気付いた。
 (何故、今更こんな事を考えるのだ?)
 姿勢を正し、首を大きく横に振り立ち上がった。
 (迷ってる…私は迷ってる)
 (…そんな馬鹿な!)
 (私は雷神イシュタル、迷いなどはない)
 (私は選ばれし者。選ばれし者は、強くなくてはいけないのだ)
 だが、時に兄のイシュトーが言ってくれた。
 「イシュタル。お前は無理している。身体を無理するのなら、俺は何も言わないが、心が無理している。ほんとうに、今のユリウス皇子でいいのか?」
 その言葉が再び頭の中で響く。
 (…いいのだ。いいのだ…)
 自分に言い聞かせるように心の中で呟くが、今度は従妹のティニーの声が頭の中で響いた。
 「お姉様。私達は正しいのでしょうか?私達は嘆願や慈悲を求めている人を不穏分子と決め付けているだけなのではないでしょうか?…それに、私、ユリウス様が怖いのです」
 (ティニー…)
 イシュタルは心の中の葛藤に苦しんでいた。

 

 

 セティが、『白狐の巣』の与えられた部屋で、ベッドの上で仮眠を取っていると、部屋をノックする音が聞こえた。
 セティはすぐに起き上がり、返答する。
 「リットリオか?」
 「はい」
 返事と同時に、細身の男が入って来た。
 動きが鈍くみえるが、力強そうに動き、その動作は、大蛇の動きを連想させる。
 普通の人間とは思えないが、実はその通りで、犯罪者であり、投獄二〇年の受刑を受けた盗賊である。
 マンスター城から宝石を盗もうとしたのだが、当時のミュラー侯爵の配下に見つかり、投獄されていた。
 だが、セティは何故か彼に目を付け、長老や警吏の人にお願いし、彼を仮釈放させていたのだ。
 そのリットリオが平伏し、セティに話し掛ける。
 「セティ様。只今、レンスターから帰ってきました」
 「ありがとう。まあ、報告を聞く前に、これを」
 そう言って、セティはグラスに冷えた白ワインを注ぎ、リットリオに渡した。
 リットリオは、またもや平伏し、恭しくグラスを受け取った。  そして、ワインを一気に飲み干し、咽喉を潤した。
 (美味い)
 そう思いながらも、盗賊であった自分にこれほどの気遣いをしてくれるセティに心酔している。
 まだ、リットリオは若い。22歳である。盗人は盗人でも、血を見るのを嫌っている。「金は奪っても、命と血を奪うのは外道」。
 それを信じ、盗みを働いていたのである。
 リットリオは一息付いてから、セティに目線を向け、話し出す。
 「セティ様。どうやら、イザークで旗揚げをした解放軍が、レンスターに向かっています」
 「戦力は?」
 「少数精鋭ですね。噂に聞いたイザークの『死神兄妹』の他にも、シャナン王子も合流したらしいです」
 「…そうか、フリージ家の動きは?」
 「こちらも精鋭を送ったようです。イシュトー王子の精鋭部隊を、メルゲン城に送り込みました」
 「そうか…。イシュトー王子を送り込んだと言う事は、帝国は我々より、解放軍迎撃を第一目的としたようだな」
 セティは両手を組み、その両手の上に顎を乗せて考え出す。
 妹のフィーなら、この姿勢の時の兄は、思考回路をフル回転させている時だと気付いたであろう。
 リットリオは、それを知らない。だが、セティの邪魔は決してしない男だ。
 政略や頭脳は、決してセティ様に勝てない。考えることはセティ様に任せ、自分は、セティ様の目となり、耳となり、情報を集めればいいのだ。
 盗人の時、盗みに入る家の情報や、家族や住んでいる人数を徹底的に調べた能力が、この人の役に立つかと思えば嬉しいのである。
 本来なら、後一九年も地下牢暮らしをしなければならない自分である。
 その自分の牢の前に突然現れ、蒸留酒の差し入れを持ってきてくれた不思議な御仁。
 牢越しに酒を酌み交わしながら、自分の潜入能力や盗賊としての能力を貸して欲しいと言って来た男。
 (不思議な人だ。…盗賊の俺に頭を下げるとは…。しかも、シレジア王子である御人が…)
 情報収集能力の高いリットリオは既に、セティの正体を知っている。
 (…王子が、盗賊に頭を下げるなんて…信じられない)
 はみ出し者とは言え、封建社会で育ってきた彼である。王族は神聖不可侵の存在であり、特別な存在で、高貴な人なのだ。
 …そんな王子が、頭を下げ、命令ではなく、頼んできたのだ。
 (王族にも、こんな人がいたなんて)
 ショックでもあり、世の中捨てた物じゃないなとも思った。
 「ああ、そうだ、リットリオ」
 「はい、何でしょうかセティ様」
 「イシュタルって名前のフリージ家の貴族はいるのか?」
 その名前に、リットリオは驚いた。
 「…イシュタルと言えば、『雷神イシュタル』の事でしょう。フリージ家ブルーム大公の娘です」
 それを聞くとセティは静かに笑う。
 「そうか、やはりそう言う人物であったか」  
 彼女と出会う前、強力な雷の魔力を感じた。
 魔法使いの気配は独特である。気配を消すことは不可能だが、どこにいるのかを知ることは出来ない。
 だから、近くに魔法使いがいれば、気配は感じてもどこにいるかを知る事は出来ないのだ。
 「雷騎士、トードの『トールハンマー』は、嫡男のイシュトーではなく、妹のイシュタルが正統継承者です、セティ様」
 「…そうか、だったら、取るべき道はひとつ」
 セティは彼の方に目線を向け、立ち上がる。
 「彼女に、徹底的に共生の道を説こう」
 「え?」
 「…リットリオ。争いと慈悲。どっちが良い?」
 「…それは、慈悲です」
 「そうだ、先程の交渉で、イシュタルと言う女性には、優しさを感じた。…何か無理して、悪漢ぶっているように思えたのだ。…彼女は慈悲と力がある。彼女なら、話も通じるだろう」
 セティは、説明しながら服装を整える。
 「今度はこっちから、交渉に行こう。その間、トラキアの動きも見てきてくれるか?」
 「御意に」
 リットリオは深々と頭を下げ、立ち上がった。
 力と慈悲…。全く別物だと思っていたが、それを両方持つ人間が、目の前にいる。力と慈悲の支配者。
 リットリオは、この様な王子を持つシレジア人に嫉妬した。

 

 

 街の中央広場で、イシュタルはベンチに座り、考えていた。
 イシュタルは、考え事を始めると、外に出る癖がある。あまりにも静寂な場所より、にぎやかな場所の方が、彼女にとって考えやすい場所らしいのだ。
 だが、今回はなかなか答えが出そうにもなかった。
 (世界に天と地があるように、人間にも天に立つ人と、地に伏せる人がいるのだ。それが入れ替わる事は、天地がひっくり返るのと同じ事では…)
 グランベルの昔からの帝王学の本にはそう書かれている。
 王族にこそ、正しい知識と力を備え、力なき民衆を支配し、平和に導かねばならないとも書かれている。
 (だが、セティと言う男。民衆にも正しい知識と力を与えるだと?)
 不思議な発想である。
 世の中には支配者と、支配される側がいて当然だと考えていたイシュタルにとって、知識は、支配者の特権でもあるのだ。
 それを、民衆にも与えるとは、信じられぬ事であった。
 (奴はグランベル人ではない。…?)
 その時、彼女は気付いた。
 (…緑石色の髪…瞳…)
 (…知識を尊ぶ姿勢)
 (…そして温かくなってきたとは言え、結構汗を拭う回数が多かったな)
 (…暑がりだとしたら、寒い地方の人間だな)
 そこまで考えた時、答えが出た。
 (…そうだ、間違いない。私がこのマンスターに来た時、『風』を強く感じた事といい、『セティ』と言う名前といい、…セティはシレジア人だ!)
 そのイシュタルを、広場にいる人達は、悪意や畏怖の感情を込めた瞳で見ているのが、イシュタルには分かる。
 銀髪と完璧に近い碧眼の瞳の人間など、フリージ人しかいない。フリージ人は、マンスターの人々にとっては、支配者でしか過ぎないのだ。
 そんな目には慣れているイシュタルだが、
 (私は支配者階級だぞ…。何故、そんな瞳で見る?支配者が支配して悪いとでも言うのか?)
 そう思いながらも、先程の考えに戻す。
 (…シレジアは帝国から独立したと言う。シレジアの王子の手によって…。戦乱の中で、シレジア王子の名前と顔は、知られていない…だが、まさか、あのセティが…)
 あの、落ち着き。姿勢。気品。そして、このマンスターの人々をまとめた統制力。…ありえる事だ。
 イシュタルは一度、城に戻る事にした。宮廷内の書庫なら、何か分かるかも知れないと考えたのである。

 

 

 城に戻ったと同時に、セティが誰も連れずに、一人でやって来たことを、マフティから聞いた。
 イシュタルは、コートを脱ぎ、正装に着替えながら、
 「で、奴はどこにいる?」
 「はい、謁見の間に通しました」
 これだ…。民間人の代表者に過ぎぬ男を、ごく自然に謁見の間に通してしまう。
 それだけの風格と貫禄を自然に備えている男である。
 (間違いない、奴はシレジア王子だ!)
 それは、同じ王族に生まれた人間にしか分からぬ『勘』である。
 (王族に生まれなければ、あれほどの人々をまとめれるものではない!)
 「私も話をしたいと思っていた。奴との話の間、誰も近づけるな、いいな」
 「はい」

 そのままイシュタルは謁見の間へ向かう。
 王侯貴族専用の部屋で、レンスター地方特有の、前衛的な芸術品や、陶磁器等が多いが、家具はシレジア製が多い。
 謁見の間に単身、イシュタルが入る。
 広く、中央に大きな円卓と、それを囲む椅子が八つあり、その落ち着いた重厚な椅子と円卓をセティが品定めするように見ていた。
 そのセティが、イシュタルに気付き、片膝をついて、恭しく頭を下げる。
 完璧なまでの作法で、その仕草には卑屈さを全く感じさせない。
 「突然の訪問。申し訳ございません」
 「いや、私も貴公と、もう少し話したい事があってな」
 そう言うなり、円卓の席のひとつに礼節正しい動きで座ると、セティも許可を頂いてから座る。
 「家具には興味があるのか、セティ殿は?」
 「ええ、シレジア産の家具だと思いまして。シレジアは一年の半分は冬ですから、室内の家具には凝った趣向を好む傾向があります。なかなか素晴らしい彫刻が彫ってあるなと思いまして…」
 「祖国の物は懐かしいだろう、セティ殿」
 セティは、一瞬言葉を詰まらせた。だが、気付かぬ程度である。だが、注意深く聞いていたイシュタルには、充分過ぎるほど気付いた。
 「はい、その通りです。私はシレジア人です。よくお分かりで」
 イシュタルは微笑する。理知的だが、隙のない冷徹な笑みである。
 「緑石色の髪と瞳。普通の人より薄着をしているところをみると、暑がりと見てね」
 そう話してから、指を鳴らす。
 すると、侍女が部屋に入ってきて、二人の前に、紅茶を置いていく。
 「シレジア人なら、紅茶が好きだろうと思ってね」
 「ありがとうございます、イシュタル様」
 セティは丁重に頭を下げた。
 イシュタルは微笑したまま、一口紅茶を飲んでから、独り言の様に呟く。
 「シレジア王国は、半年前我が帝国から、解放戦争で力ずくで独立した。ヴェルトマー軍は、補給路を絶たれ、兵糧を失い、餓えた状態の時に襲撃され、僅か五日で、シレジアから撤退したそうだ」
 セティは顔色ひとつ変えずに聞いている。
 「その、シレジアからセティ殿は、何をしにこのマンスターまで?」
 セティも、紅茶を一口飲んでから、静かに答えた。
 「父上を探しにです。父が行方不明でして」
 「…まあ、帝国にとっての敵は、シレジア正規軍。シレジアの民間人は、関係ないので、貴公は捕獲しません。…貴公が民間人ならね」
 イシュタルは、セティの顔を覗き込むが、セティの顔に変化はない。
 知性と教養。自尊心と自制心。それらを見事に融合させた男の顔が、そのセティの顔である。
 …だが、そのセティの顔が静かに笑った。
 イシュタルは一瞬、その笑顔に惹かれた。異性に惹かれると言うような感情ではなく、もっと人間としての懐に惹かれていく。そう、セティとしての人間としての懐の部分に惹かれた様な気がした。
 笑ったと同時に立ち上がり、深々と頭を下げた。
 「失礼しました、イシュタル様。やはり貴女を騙せそうにもありません」
 そう言って、再びイシュタルの方に、その緑石(エメラルド)をはめ込んだような瞳を、イシュタルに向け、作法と教養を重ねた見事な礼節を持って、口を開いた。
 「私の本当の名前は、セティそのままです。しかし、名前の全てを語ると、セティ・シレジア二世。『風使いセティ』の血を受け継ぐシレジアの王子です」

 …敵である。
 グランベル帝国にとって、セリス公子、シャナン王子に匹敵する、いや、現在の所、最も帝国に反抗した最大の敵と言っても過言ではない。
 この目の前にいる若者こそ、ヴェルトマー軍を手玉に取り、シレジアから叩きだした策略と知略の天才、シレジア王家の正統血統者であった。
 なるほど、そうでなくては、これほど人を束ねれるものではないし、人々を魅了し、団結させれるものではない。
 放っておけば、シレジアに続いて、このマンスターも独立させるであろう。
 間違いなく、帝国の最大の宿敵。捕らえるか、殺すかだ。
 …だが、堂に入った礼節の姿勢と、決して卑屈にならずに、物腰上品な表情と口調は、イシュタルの王族としての血の誇りを擽った。
 イシュタルも立ち上がり、礼節正しい姿勢で頭を下げたのだ。
 「これは失礼した。敵国とはいえ、一国の王子に頭を下げさせ、私如きに、『様』を付けさせた非礼。心から詫びましょう」
 そう言ってから、その完璧なまでの碧眼を、セティに向け、
 「私の名前は、イシュタル・フリージ。フリージ公国、ブルーム大公の娘で、『雷騎士トード』の魔法、『トールハンマー』の正統継承者です」
 二人は、もう一度頭を下げあい、再び視線を合わせた。

 

 

 これが、セティとイシュタルが初めて相手の素性を知った日である。
 だが、これから二人の哀しい悲劇の幕開けでもあった。

(続く)


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