■ 着物に関するお知恵拝借・お役立ち情報 ■ ///////////////
着物をよく汚される方、雨を心配される方へ・・・ 安心着物にしませんか!
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羽 尺 7.500円 着 尺 8.000円 付 下 9.000円 訪問着(八掛付) 11.000円 振 袖 13.000円 留 袖 11.000円
紋 付(四丈) 9.000円 紋 付(三丈) 8.000円 長襦袢 6.000円 名古屋帯 7.000円 袋 帯 9.000円
夾纈染についてのお勉強です・・・ 古代のロマンに浸ってみませんか 世代を超えて楽しんで頂ける色合い柄です
お母様とお嬢様で2世代・3世代同時に着ていただけます
是非現物を見られることをお勧めします
着付け・手入れの知識・・・
<帯ときもののキホン知識>
◇ 帯にもっと強くなろう・帯をいつまでも美しく、等のテーマで色々お勉強できます。 西陣帯 へのリンク
<きもの寸法について>
◇ あなたの身長に対しての、着物の標準仕立て寸法を知りたい方は
<きもの類の着用季節と移り変わり>
<きものTPO>
結婚式・披露宴のきもの
☆仲人婦人(黒留袖)
五つ紋つきであれば、黒留袖でも色留袖でもかまいませんが、新婦を引き立たせる意味でも黒留袖を着用します。
☆親族のミセス(留袖)
式場に参列される方は黒留袖を着ます。家族でなければ色留袖でもかまいません。 若いミセスの場合は、訪問着や付下でもよいでしょう。
☆披露宴に出席のミセス(訪問着・付下・色無地(紋入りが良いでしょう。 展示場にある「麗涛」白生地がお勧めです!))
宴の第一礼装である訪問着・付下が良いでしょう。 色無地の場合は紋の入っているものが良いでしょう。
☆親族や招待客のミス(振袖・訪問着・付下)
振袖が華やかで最も良いでしょう。
帯は慶びごとが重なるという意味で袋帯を二重太鼓にして着用します。
パーティー・お祝いの席でのきもの
☆ミセス(訪問着・付下)
☆ミス(振袖・訪問着・付下)
パーティー・宴のTPOに応じて、きものをお選びください。
帯は袋帯を着用します。
お正月のきもの
☆ミセス(付下・小紋・紬・大島紬)
☆ミス(振袖・付下・小紋・紬)
新年を祝うきものです。 華やかな振袖から落ちついた紬までお楽しみください。
帯は振袖・付下の場合、袋帯を着用します。 小紋や紬の場合はしゃれ袋帯・名古屋帯を着用します。
入学式・卒業式でのきもの
☆訪問着・付下・色無地
お子様の大切な式典です。 礼装のきもので祝います。
帯は袋帯を着用します。
小旅行・街着のきもの
☆小紋・紬・大島紬
外出で活躍するきものです。 着やすさを考えて選びましょう。
帯はしゃれ袋帯又は八寸・九寸の織や染の名古屋帯でおしゃれを楽しみましょう。
<きもの着付け>
和服は未完成の衣服です。人の体に合わせて立体的に裁断し作られる洋服と違い、和服は直線デザインの衣服です。
着る時に人の体に合わせて纏う、「着付け」という行為を経て初めて完成された衣服となるのです。
したがって、「和服を着るという行為」は、和服という衣服のデザインの一部であるとも言えます。
洋服の場合は、仕立てる時点でデザインは完成されていますから、着ればそれまでです。ところが和服は衣服自体が
未完成デザインの状態ですから、「着付ける」という行為が非常に重要な役割を持つことになります。
和服は、着るごとに自由にその完成時のデザインを変えることさえ可能な、非常に柔軟性のある衣服なのです。
従って、着慣れないうちは、直線裁断の布を、曲線のある身体に纏う方法がわからず苦労しますが、着慣れて来ると、
同じ着物を「自在に着こなす面白さ」というものも味わえるようになります。
言い方を変えると、和服というのは、物理的なデザインの形状が、ほぼどれも同じであるにも関わらず、着方ひとつで苦しくもなり、
心地よくもなり、粋にも野暮にも見える衣服なのです。
ではなぜ、和服は直線的なデザインなのでしょうか?日本の織物は構造的に平織り繊維なので、
曲線裁断には向いていなかったことがその主な理由のようです。しかし都合のいいことに、こうした形状の和服には、
あちこちに無駄な空間が自然とできること、重ね着が簡単なことなどから、熱や空気の出入り等を洋服よりも簡単に調節できるため、
結果的に非常に合理的に寒暖の調節が可能な機能的な衣服なのです。
これらのことが日本の風土に適したものだとは、よく言われる事実です。
このように、和服を着るという行為の意味を知り、和服での生活を始めると、日本の多くの習慣や礼儀作法のほとんどが
「和服を着ていること」を前提としたものだということが判ると思います。
<半衿の掛け方>
<浸み落とし>
きものの浸み落しは非常に微妙で難しい物です、出来れば専門店かお買い上げの呉服屋さんへご依頼下さい。
シミが付いた場合は、シミを擦らない(生地を痛める・毛羽立ってしまう)ように払い落とすか、
そっと押し当てて拭き取るか、軽く摘んで取り後は専門家へ依頼しましょう。
きもの・長襦袢などに汗が滲みた場合、汗抜きをしておかれることをお勧めします。一旦乾いても数年後には色物は黄変し
黒物は白く滲みになってしまい、そうなると浸み落しでは落ちなくなってしまいます。 (ご来店可能な方は当店へご持参下さい)
愛着のあるきもの丁寧に手入れをしておきましょう。 次にお召しになる時、慌てないためにも、脱いでたたむ時に汚れの確認を・・・
☆シミを知る為の勉強の参考にしてください・・・
(呉服は絹物ですから水を使うと縮みます、生地・染料の堅牢度も高くありませんので、特にご注意下さい!) 専門へご依頼下さい!
きものの歴史・・・
<太古は洋服風のスタイル>
縄文時代〜弥生時代〜大和時代
<貴族の優雅から武家の機能重視へ>
平安時代〜鎌倉時代〜安土桃山時代
<江戸時代にきもの文化が昇華>
江戸時代〜明治〜大正
紋の知識・・・
<日本の紋の歴史>
平安時代公家社会に起こり、武家社会に発生した紋様が、日本の紋章として今に伝わっています。
平安時代の貴族たちが好みの文様を牛車に描きました。
11世紀の前半(平安時代)ごろ、貴族たちが参賀、退下(たいげ)、物見の際に使用した牛車(ぎっしゃ)に
他の牛車と間違うことのないように好みの紋様を描きました。
それは目印としてはもちろん、持ち主の個人の優雅さをしめすものでもありました。
始めはその人個人の好みの紋様を用いて、その人一代限りのものでしたが、公家社会になって、家職も家格も世襲的に定着するようになって、
父祖の好んだものを子孫が踏襲するようになり、代々その家の紋章としてうけつがれていくようになりました。
<武家の紋章>
武家の紋章は、もともとは戦いのための軍旗そのものであり、大将の本営を示す陣幕の紋章でした。
室町時代後半になると、日常の衣服や什器にも紋章をつけて家を識別する習俗が成熟していきました。
徳川の時代になると家格を識別するしるしとしての役割をになうようになります。
江戸時代の太平の世の中になりますと、武家以外の一般のひとびとにも普及。
将軍家や領主の紋意外は自由に使うことができるようになって、家系や家格という意味からはなれて、
衣服や調度の装飾としても使用されるようになりました。
武家の間でも、公式の場合に用いる正式の紋(定紋・正紋)以外に非公式の場合に用いる替紋(裏紋・別紋・控紋)をもつことが盛んになりました。
<魅力ある文様として、現代でも図形としても高い評価>
昭和になって戦後、家族制度の廃止によって、また礼服も洋式のものに変わって、家の紋章に対する人々の意識は、
薄れて来ていますが、魅力ある紋様として装飾にも使われ、いろんな場面で目にすることができます。
日本の紋は身近にあるもの、花木、自然など非常に多くのものを、素材としています。
また着物の模様、工芸品、調度品の模様にも同じ図形が多くみられます。
日本の文様として、多くの人に大事にされてきものといえると思います。
◇ 紋付の着物をお誂えの時、お役に立ちます。 おしゃれなサイト
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きもの生産地と生地の知識・・・
少し堅い話ですが、きものにより愛着が湧いてくると思います・・・
<西陣織> ☆ ご存知ですか? 亀倉雄策氏のデザインによる伝統工芸マーク
日本最大の和装産地京都は、歴史と伝統に支えられた衣服文化のメッカです。そしてその一角を担うのが西陣。
西陣の名の起こりは500年余の昔、応仁元年足利将軍の相続問題で細川勝元と山名宗全の両武将が対立し、11年間戦乱が続いた。
これが世にいう「応仁の乱(1467)」であるが、この時山名氏が西軍方として陣を構えたのが現在の西陣にあたり、
いつしか西陣の呼称がついたと言われているが、織物の中心となったのはさらに古い時代にさかのぼる。
文献によれば、4世紀初めの統一国家誕生の頃、中国絹帛の織法が秦人によってもたらされ、仁徳天皇は京都の山瀬の地を選び、
これら旗人に養蚕機織を営ませた。その後、雄略天皇は各地の秦人を招集し機織振興の労をねぎらう。これに感激し各地の機織はさらに盛んとなていく。
このため天皇は献上される絹帛を収める大蔵を建立、酒公をその長官に任命、禹豆満佐(うずまさ)の号を賜った。
現在の京都の太秦(うずまさ)はそのゆかりの地だ。
6世紀中期の大化の改新によって大蔵省管轄の織部司が設置されるに及んで、各地の機織や工人は統括された。
織部司は官営のハシリであり、長官の下に佑、令史、挑文師の職を置いて諸国の織部を直轄した。
延暦13年(794)、平安京遷都、すなわち京都に都が移されたことで名実共に機織の中心となった。
武家の台頭により官延を中心とした公家貴族の勢力が衰えるにしたがい、織部司の機能も薄れ、逆に私営(荘園制度)の機織が各地で隆盛となり、
保元の平治の乱(1157−1159)以後織部司は解体され大舎人(おおとねり)や大宮に供する綾や絹は民営の形で残された。
300年後の応仁の乱で京都は灰塵に帰したが、泉州は堺に難を逃れていた多くの工人が新しい技法を身につけて戻り、
東陣後に「練貫方」という座が作られて、羽二重や練貫を織り始め、西陣跡にも綾を織る大舎人座が誕生した。この座こそが西陣機業の基礎である。
永生10年(1513)に大舎人座は綾織の権利で練絹座と争い、翌年に公家の美濃の守・藤原朝臣が古来からの伝統を尊重して
「大舎人座だけが綾織物類の由緒を守るべし」と判定を下す。そしてそのお墨付きの下付により、以後は、大舎人座に属する31家によって
製織が続けられる結果となった。このような形で根を下ろした西陣機業は、天皇家や幕府の手厚い保護と助成を受け、目覚しい発展を遂げていった。
江戸時代の宝永3年(1706)の記録では、機屋の数2000軒以上、また元禄年間(1688−1703)で周辺160余ヶ町という大機業地であったという。
享保17年(1732)には西陣大火に見舞われ、7千余台の織機が全滅に帰したが、50年後の天明5年(1785)には、2120軒、2580台の紋織を
生業とする高機屋と、紋織以外の機屋420軒が立ち直った。
現在の産地は、帯地、着尺を主力としているが、燃糸業、染色整理業、意匠紋紙など、織物に関するあらゆる業種が集まって、
そのスケールの大きさはマンモス産地そのものです。
<京友禅>
我が国における模様染めの代名詞として使われるほど、世界的にもよく知られています。
多彩で絵画調の模様をきものに染め表す友禅染めは、 町人文化の栄えた江戸時代の元禄期(1688〜1704)に開花しました。
この頃京都の洛東、東山・知恩院の門前町に居を構えていた扇絵師“宮崎友禅斎”の描く扇絵が人の人気を集め、
井原西鶴の浮世草子『好色一代男』(貞亨3年)にもその様子をうかがうことができます。
そこで、人気絵師友禅斎(幽禅・祐禅・由禅)の描く画風をきものの意匠に取り入れ模様染めの分野に生かされたのが“友禅染め”の誕生となりました。
友禅染めは、江戸時代にさまざまな技術の集約をし、ほぼ完成したものであります。
衣類の染色を施すことが始まって以来、墨または青花で構図を描くこと、糊置きをして色の堰止めを行なうこと、筆で色を挿す、刺繍を施す、
金銀砂粉・箔などを施すなどの技術の完成は、みな時代が異なっているようであります。
こうした技術を集約して完成させたのが江戸時代の宮崎友禅斎であると伝えられており、今日の「手描友禅」の基をなしています。
一方、この方法とは別に、伊勢の白子町では早い時代から和紙を2枚〜3枚柿渋で貼り合わせた型紙の材料が作られ、
この型紙に模様を彫刻したものを用いた小紋染などの模様染が行われており、江戸時代には武士の裃・袴などの染色に用いられていました。
時代が下って明治時代を迎えると、文明開化とともに化学染料が染色に導入されるようになりました。
化学染料と糊で色糊を作り、型紙によって友禅模様を写し染める写し友禅染めが、友禅染めの中興の祖と称えられる“廣瀬治助翁”によって発明され、
「型友禅」として発展を遂げました。
それまでの模様の輪郭を筒糊や楊子で糸目状に糊置き、手描き彩色する糸目友禅染めが主流だった友禅に写し友禅染めが加わり
量産が可能になったため、友禅きものは一気に普及して、人々のきものは華やいだ彩りに溢れました。
その後も新しい技法が今日まで次々と工夫され、京の友禅染めは飛躍的な発展を遂げることになりました。
なお、京友禅・京小紋は、昭和51年6月に通商産業大臣(現、経済産業大臣)から「伝統的工芸品」として指定を受けています。
<濱ちりめん>
日本の最大湖・琵琶より発する軟質の良水を利用した水撚八丁 撚糸にこだわり、一越や古代ちりめんといった平織を中心に、
日本でも珠玉の高級ちりめんを織り成す長浜産地。
光孝天皇の仁和3年(857)の絹布重宝記に「浜羽二重(浜絹)は江州長浜より織り出す絹なり加賀絹よりは格別糸性良し、
惣て長浜より織り出す類、何によらず上品なり、丈は長く染付けは羽二重同様つやのあるものなり」とあり、長浜がいにしえより織物が盛んであったこと、
しかも優良な生糸を使用し、その品質が、他産地のものより異彩を放っていたということを物語っている。 このことが後のちりめん技術に活かされている。
<その工程を簡単に説明しておこう>
まずカセになっている原糸をボービンに巻き取る「糸繰り」を行い、ここから緯糸、縦糸に分けられる。次いで各種織物の用途におうじて
8−20本の生糸を「合絲」する。そして浜ちりめんの最大の特長となるシボを出すため、各種の「撚糸加工」をほどこす。
燃糸にも水式による1bあたり3000〜4000回も撚る八丁撚糸、乾式八丁より弱い撚りのイタリー撚糸、合絲をしながら糸を撚る合撚などがある。
各撚糸加工が終った緯糸は、「管巻」といってタグに巻き取られる。
いよいよここから機にかけられるが、説明してきた工程の中には糸の「節取り」とか、強撚をかけた糸には、糸の持つセリシンを活かす「緯煮(ぬきたき)」、
あるいは「乾燥」といった工程がまだあるが、これらは各機業場の特徴を出すためのノウハウとなっている。
これらの技術が、ちりめん界の最高峰として、振袖、訪問着、黒留袖などの、いわゆるフォーマルにはかかせない織物となっている。
<丹後ちりめん>
幕藩体制が確立された3代将軍家光の時代に遡る。「郷村の百姓は死なぬように生きぬようにと、合点致し、収納申付様に」というのが、
幕府の農民政策の基本であった。丹後においても例外ではなく、厳しい年貢の取り立て、相次ぐ凶作、加え手副業の織物も
「当処精好之儀ハ下々不用之物故捌モ悪敷次第ニ絹紬ニ跡々相続致し候」(宮津機方丈)とあり高級品がゆえに販路がせばめられていったという。
このような八方ふさがりの時代に丹後のちりめんは誕生したのです。
峰山藩の絹屋佐平治は、このような事態を憂いて「宜敷商売ニ相成ベキ品ヲ織出タキ願心ニヨッテ」(丹後縮緬初之由来)禅定寺の観音に
17日間の断食祈願を行い、単身西陣へ赴き機屋に奉公する。時は享保4年(1719)3月のことであった。
しかし当時の西陣では地方織物の勃興に不安を抱き、その技法を極秘にして地位を守っていた。
いうまでもなく佐平治は、シボをうまく織りなすことはできなかった。
同じ年の9月、佐平治は、再び断食祈願に入りその足で西陣へ出向いたのです。
新しい奉公先で佐平治は、糸撚り車の仕掛けのある土蔵造りの密室へ偲び入り、暗闇の中手探りで仕掛けやシボの様子を確かめた。
その年も暮れようとするある夜のことである。粘り強い努力によって亨保5年3月、丹後ちりめんは、峰山において産声をあげたのです。
一方宮津藩でも三河内村の山本屋佐兵衛、加屋町の手米屋小右衛門が佐平治同様に流行のちりめんに目をつけ、西陣の機屋に奉公に入った。
志を同じくする後野村の木綿屋六右衛門のカゲになりヒナタになりの援助があって、峰山に遅れること2年、享保7年(1722)峰山に持ち帰った。
280年の歳月を織りなしてきたちりめんロードの歴史は、時々の政策天変地異、景気動向等々数々の障害を乗りこえてきた先人たちの
まさに苦闘の歴史といっても過言ではないのです。
<十日町>
いまから1500年以上も昔の飛鳥・天平のころより「越後布(えちごふ)」「越後縮(ちぢみ)」の産地として発展してきました。
繊細な美しさをたえる麻布は鎌倉・室町時代には最高級品として将軍や公家に珍重されました。
江戸時代には絹織物の生産へと転向し、現在の紬(つむぎ)絣(かすり)の基礎を築きました。
明治から大正末期には工場生産が行われるようになり「冬物お召し」、「意匠白生地」が開発されました。
昭和34年には「マショリカお召」が開発されました。無地や縞から総模様の
絣へ技術の進歩とともに時代のセンスを取り入れながら、美しい洗練された紬(つむぎ)絣(かすり)を生産しています。
現在、紬絣は3割、友禅は7割と生産のほとんどが友禅です。高度な技術を駆使して
華麗に、繊細に自然美を彩る十日町の友禅は、京友禅、加賀友禅と並び全国で高い評価を受けています。
<塩 沢>
一千年の時を経て研ぎ澄まされた塩沢絣。新潟県塩沢で手織り機で織られている塩沢絣。塩沢絣の歴史は古くそのルーツは一千年も昔に遡ります。
発祥当時は雪晒しで作った白地の素朴な上布で、これが寛文年間、機神が住むと言われた伝説の山、巻機山の麓に住む掘次郎将俊と妻と二人の娘が、
従来の上布を改良し糸に撚りをかけ、花鳥山水や縞模様を工夫し、それが本日の洗練された塩沢絣につながったと言われています。
『家人が着て誇りとするもの』。塩沢絣の発祥は営利を目的としたものではありませんでした。塩沢絣が丈夫で実用的ながらも、
さりげなくオシャレなのは、本来販売目的ではなく、子孫の代まで着られるようにと、愛情を込めて作られてきたからです。
ちなみに、昭和50年通産省第1回伝統的工芸産地に指定を受けています。
<結 城>
東京から80キロほど北上した地域に「結城紬」の産地があります。大通りには蔵造りが残り、裏通りには寺が多く、緑豊かな城下町です。
元禄時代には蚕種の産地として全国に名を博し、現在も鬼怒川(絹川)・小貝川(蚕飼川)・桑原神社など、養蚕や織物に関した名前が残っています。
結城紬は「あしぎぬ」という絹織物が原形で(「常陸風土記」967年に記)、
その風合いは鎌倉時代に武士から大変に好まれ「常陸紬」の名で広く知れ渡ったそうです。
その後、室町時代に結城家から幕府に献上されたのを機に「結城紬」と呼称されるようになり、色や織の技法を改良しながら今日まで愛されてきたのです。
シャキッと張りのある大島紬と比べ、結城紬はやわらかでほっこりとした風合いが特徴です。
撚りのない糸から出た毛羽(けば)同士が絡み合い、着るほどに生地目が蜜になっていきます。真綿のもつ軽さとあたたかさは肌寒い季節にもピッタリです。
本場結城紬とは 結城紬の特質は糸質強固、染色堅牢、その製法においては精緻で雅趣に富む。
そんな結城紬も最初から現在のようにカラフルではなかった。
江戸時代までは無地が多く、その後、信州上田から柳條(しま)の技術が導入され縞全盛の時代がしばらく続く。
そして、19世紀後半になると琉球絣に昭和に入ってより斬新な絣模様が普及していく。
同時に柄も多色になり、本来藍を旨とする結城紬も、現在では、部分的に染料を刷り込んだり、化学染料を用いて対応しているが、
意匠の改善以外は頑なに伝統の技を続けている。
1反の製作日数は、普通のもので6ヶ月、絣柄の複雑な高級品となると1年以上の時間を要するという。
それもそのはず、その製作工程が40にも及んでいるからだ。
着るほどに、洗うほどにその風合いを増していく結城紬。
どれをとっても一見同じように見えるが、その数多くの工程の一つ一つに携わる手の温もりが、紬への愛情となり、機械にはない異なりを見せてくれる。
昭和51年に伝統的工芸品に指定された結城紬、その工程の中にも国の重要無形文化財となっている三つの技法がある。
手つむぎ、手くくり、居座機による平織がそれだ。
《紡 ぐ》 お湯で煮て柔らかくした繭を、指先で穴をあけ裏返しにして洗う。同じように4〜5個重ねると袋状の真綿ができる。
これに適度な湿り気を与えながら細く均等に糸を引かなければならない。大変な熟練が要することはいうまでもない。
きものに必要な糸量は、経緯合わせて30`bを紡ぐ必要があり、約2ヶ月かかるという。
《括 る》 できあがった糸を絣柄付けのため木綿糸で括っていくが、染料をつけた時に木綿は締まり、絹は膨張するという性質を利用したものだ。
これは歯と指先を使うが、かなりの力を要するため男の仕事となっており、約13万ヶ所括るのでこれも何ヶ月もかかる工程だ。
《居座機》 この機は経糸を織子の腰にあて紐で結び付けて織っていくが、織子が絣を合わすために前にかがむと経糸も弛み、
緯糸を打ち込む時には体を後に倒して経糸をピンと張る。
織子が休む時は糸も休む、ということは「真綿から紡いだ糸に合った織り方になっている」ということだ。
これも2〜4ヶ月かかる仕事だ。これらのことが日本最古の紬をして人を魅せる所以なのです・・・。
<能 登>
江戸時代の始め頃までは近江上布の原料として供給されていた能登の麻。
元禄時代に入り近江から技術を導入し本格的に織られるようになったのが今の能登上布の始まりです。
その後、改良を重ね「能登上布」という名が誕生したのは明治時代の後半になります。多くの農家が能登上布に関っていたため、
雪に閉ざされた冬の羽咋地方は機織りの音が響いていたことでしょう。その後、昭和初期に最盛期をむかえた能登上布は年間生産量40万反
、織元が140軒を数え、全国でトップの麻織物生産量を極め、昭和53年に石川県の無形文化財に指定されました。
時代の流れとともに、昭和63年には織元が7軒までに衰退し「能登麻織物協同組合」も解散してしまいます。
現在は1軒になってしまった織元が技術を守り続けています。
『蝉の羽のよう』と形容されるほどの美しさをもったこの能登上布に魅せられた若者達が、店もないという集落でその技術を継承しつつあります。
苧麻(ちょま)という細い上質の麻に摺り込むようにして捺染する「櫛押捺染(くしおしなっせん)」は能登上布のみに見られる特徴です。
機の長さを短くして織り上げるため、織がくずれにくく細かい模様を表現することができます。
緻密に織り上げられた経緯(たてよこ)絣の模様は能登上布の身上とも言え、薄く・軽く・張りがあり蝋引きしたようなテカリは
「蝉の羽」と言われるのもうなずける高級感漂う絣です。
また暑い盛りのほんの短い時期にしか纏(まと)うことができない上質で清涼感あふれる麻はなんとも贅沢な一品です。
<加 賀>
友禅というのはよく水を使う。生地に附着している糊や余分な染料を洗い流し、色止めするためだ。
春まだ浅い3月犀川、浅野川の冷たい流れの中で行われる友禅流しは、今なお春を呼ぶ風物詩だ。
石川県の伝統工芸にあって一際華やぐ加賀友禅は、今から500年あまり前(寛政年間)、梅染と呼ばれる無地染に端を発し、
17世紀から18世紀初頭になると、兼房染(黒染)や色絵、色絵紋(加賀紋)が始まる。いわゆるお国染と呼ばれるものだ。
この頃から色絵の防染に、一陳糊(小麦粉をベースにしたもの)が使われるようになりこれが加賀友禅の土台となった。
正徳2年(1712)にはすでに200軒ちかくあった紺屋の頭取太郎田屋に宮崎友禅斎が訪れた。友禅斎60才の時である。
既に傑出した画工であった友禅斎は、これを機に加賀友禅の興隆に一役買っていく。伝統への第一歩は今から300年余り前のことである。
一般的に加賀友禅といえば狩野派の流れをくみ、写実的な草花模様を中心にした絵柄が多い。
また、色合いにおいても多彩で3色ぼかしこみ(1枚の葉や花ビラを3段にわけ、それぞれ違う色でぼかす)という高度な技法や、
虫喰い(木の葉のところどころに虫が喰った跡を描く)等のアクセンチャルな表現で、自然美をより巧に描きだすことにより
リァリティを強調するといったふうに実に手がこんでいる。
加賀友禅の特徴を一言でいうなら、加賀5彩を基調とした古典調ということになるのだが、作家個人が製作するため、考え方によって様々であり、
そこには時代というものも加味されるが、いずれにせよその底流に流れているのは、この地に息づく伝統を基調とした加賀調だ。
この道30年を超えるベテラン作家は「下絵と糊置きは一体のものであり、心が通いあわなければうまくいかない。
加賀友禅は糸目糊に糯(モチ)糊を使うが、私はその糊自体の調合にもこだわります。糊質によりぼかしが左右されるからです」
また、その作風については「配色、特に中間色うまく使うよう気を配っています」続けて「加賀友禅は外から内へぼかすのが特徴ですが、
作品の美しさがほぼ決定するので、地色を頭に置きながら、白生地に描いていきます」と話している。
加賀友禅と称されるものに、もう一つ板場友禅がある。
これは、模様を彫った型紙を板張りした白生地の上に型付けして捺染していくのだが、18世紀末頃金沢に生まれたといわれている。
そしてこの技法は白生地にのる小紋柄の切れ味をだすため、型紙への執着はすごい。こうしてでき上がった作品は、加賀小紋と呼ばれている。
<奄美大島>
「絣」の技術は、今から400年前、東南アジアから島々を渡って伝えられました。
日本へは、琉球から本土へと伝わり、奄美大島と鹿児島で花開いた織物が「大島紬」で現在もなお愛されている憧れの織物です。
大島紬は泥染という独特の方法で染色を施しますが、その泥染にはこんなエピソードがあります。
テーチ木染めの茶褐色の紬を着たご婦人が田に入った時、きものの裾に泥がつき、その部分がねずみ色に変色し、洗っても落ちないことで、
泥が発色させることを発見。以来、テーチ木染めと泥田で糸染が行われることになったそうです。
山地に桑の木があり、亜熱帯の鹿児島地方は、年に何回も蚕を飼うことができ、繭から真綿にし、古くから無地や縞を織って日常着にしていたそうです。
幾度の改良を加え、現在のような上質の絹糸を使って織り上げる大島紬となったのは明治に入ってからになります。
絹100%の糸で織られていること、先染めであること、平織りであることに加え、手作業により締機で絣糸の加工をしたもの、
手機で絣合わせして織り上げることが大島紬の定義です。
軽くてしなやか、着る人に寄り添うようにフィットする着心地は、着るほどに体に馴染み、
親子三代にわたって受け継がれるほどの丈夫さを兼ね備えています。
それは、60〜120回も繰り返される染めや絣締などの、長い工程にも耐えられる上質な絹糸を使って織り上げられているからなのです。
繊細巧緻な布面の美しさは織の最高峰と言われるのも納得ができます。
軽くてしなやかで、シワにもなりにくい大島紬は、着崩れしなく水に強いなどの利点もありますが
酸類、特に果汁などの有機酸には弱いので、汚れたら素早くふき取りましょう。
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