水底呼声 -suitei kosei-

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  砂漠の歌姫1  

その男は唐突に現れた.
メイシーが自室でウィッヂ,――バンゴール自治区の伝統的な弦楽器を弾いて歌っていると,いきなり扉を開けて入ってきたのだ.
メイシーは驚いて,両目を丸くする.
悲鳴を上げても,よかったのかもしれない.
十八才の女性であるメイシーの部屋に,見知らぬ若い男が乱入したのだから.
しかし,銀髪碧眼をした薄汚れた旅装の男は,悲しい顔をしてメイシーを見ている.
まるで後悔して,自分を責めている表情だ.
肌の色が白いことから,自治区の人間ではなく外国人だ.
メイシーたち自治区の人間は,もっと日焼けしている.
「あなたは誰ですか? 私に何の用ですか?」
メイシーはウィッヂを円卓の上に置いて,いすから立ち上がった.
ウィッヂの形を簡単に説明すると,半球の平らな面に弦(げん)が張ってあり,半球から弦とともに棒が伸びている.
十本ある弦を右手で押さえて,左手で弦を弾いて音を出し,半球の部分で響かせるのだ.
「私は,ライクシードと言う.」
男は答える.
すると彼の背後の扉から,とんとんとノックする音がした.
「失礼します.」
邸の使用人のひとりであるニアスが,困惑した風情で入ってくる.
彼は,勤めの長い初老の男だ.
「ライクシード様,なぜ突然走っていったのですか? 確かにここが,メイシー様のお部屋ですが.」
「すまない.」
ライクシードは謝る.
ニアスはまだ不安そうだったが,メイシーに彼を紹介した.
「このお方は,神聖公国ラート・リナーゼの王弟であるライクシード様です.」
神聖公国は,数か月前まで結界に閉ざされていた神秘の国だ.
その国の王族が,どうして自治区にあるメイシーの部屋に来るのか.
「初めまして,私はヘキ族長の娘のひとりであるメイシーです.」
メイシーは片手を胸に当てて,もう片方の手でスカートをつまみ,頭を下げる.
「……初めまして.」
ライクシードはメイシーに近づいた.
メイシーはびくりと震えて,後退する.
彼は足を止めて,心底,同情している様子で聞いた.
「その顔の傷も,君の婚約者がやったのか?」
「はい.」
つい半月ほど前にメイシーと婚約したカーロは,最低な男だ.
メイシーは何度も,彼に暴力を振るわれた.
体には,あざや傷がいくつも残っている.
さらにカーロは,女性に手を上げることを恥と思うどころか,周囲に自慢している.
酒をぶっかけた,顔をなぐった,足でけったなどと言いふらしているそうだ.
なのでメイシーは,父に婚約の解消を頼んだ.
ところが父は,
「カーロは粗暴だが,戦場では役に立つ男だ.お前には,彼のなぐさめとなってもらいたい.」
メイシーは,目の前が真っ暗になった.
このままでは,カーロに殺される.
いや,殺されるまではいかなくても,毎日暴行を受ける.
婚姻後は,ベッドの上でもなぶられる.
もしも子どもが産まれたら,赤ん坊にも暴力を振るうのかもしれない.
ならば,ウィッヂだけを持って邸から逃げ出し,日銭を稼ぐ旅芸人にでもなった方がいい.
邸の使用人たちは,――特にニアスは,メイシーが家出するなら協力すると言っている.
「私はライクシード様に,メイシー様を助けてくださるようにお願いしました.」
ニアスはしゃべった.
つまり,メイシーの境遇を話したらしい.
だからライクシードは,最初からメイシーをあわれんでいるのだ.
どんな手段にせよ,彼がメイシーを救ってくれたらありがたい.
しかし,
「ニアス,あなたはどこで彼と知り合ったの?」
ただの使用人であるニアスが,どのようにして外国の王族と面識を得たのか?
これには,ニアスではなくライクシードが返答した.
「私は事情があって,自治区を旅している.そして君に会いに,この邸に来た.」
そしたらニアスが案内役を買って出て,案内の道すがらメイシーを助けてくれと懇願したと言う.
「どのような事情ですか?」
メイシーはたずねた.
神聖公国と自治区の各部族は,友好条約が結ばれたばかりだ.
王弟がわざわざ自治区に来るということは,その条約に関係しているのか?
「今は話せない.大勢の人の命がかかっているから.」
「では,私に何の用があって,会いに来たのですか?」
「これも今は…….」
何とも秘密の多い男だ.
「隠しごとばかりで,すまない.」
彼は苦笑する.
「けれど私は,君を助けることができる.――メイシー,私と結婚して,神聖公国へ来ないか?」
意外な申し出に,メイシーは驚いた.
「私が君の父親にメイシー姫と結婚したいと言えば,君はすぐにカーロから解放される.」
確かに,そのとおりだ.
裕福な神聖公国の王弟からの申しこみならば,父は喜んで受ける.
そしてカーロとの婚約を破棄するだろう.
だが…….
メイシーはライクシードをじっと観察した.
カーロと同じく,体格のいい男だ.
年のころも同じくらいで,二十代前半だろう.
腰に剣を下げているから,これまたカーロと同じく軍人にちがいない.
比較的長身で,力もありそうだ.
ライクシードがメイシーを虐待しない保証はない.
さらに,今なら邸の使用人たちができるだけメイシーを守ってくれるが,外国へ嫁げばそれもなくなる.
ニアスに視線をやると,ライクシードからの提案に,彼もとまどっていた.
メイシーたちが迷っていると,ライクシードは腰の剣をさやごと取る.
メイシーがおびえないように,一歩ずつゆっくりと近づいて,剣を差し出した.
「この剣は君に預ける.私は,君をけっして傷つけないと約束する.」
真剣な青の瞳に,どきりとした.
「君が約束を忘れても,私は忘れない.必ず約束を守る.」
メイシーは剣を受け取る.
剣の善し悪しは分からないが,この剣が相当使いこまれていることは見て取れた.
ちゃんと手入れして,何年も使っているものだ.
そんな大事な剣を預けた.
メイシーは決意した.
剣を円卓の上に置いて,ウィッヂを取る.
ウィッヂはメイシーにとって,大切なわが身の一部だ.
たいていの場合,さきほどまでのメイシーみたいにいすに座って,腹に抱えて演奏する.
大きさは,片手で持ち運べるほどだ.
自治区ではありふれた弦楽器で,演奏者も多い.
だがメイシーのウィッヂは値打ちもので,母の形見でもある.
信頼の置けない人間に触らせていいものではない.
メイシーはごくりとつばをのみこんでから,ウィッヂを差し出した.
「あなたの妻として,神聖公国へ参ります.」
「ありがとう.」
ライクシードは両目を細めて受け取った.
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