水底呼声 -suitei kosei-

戻る | 続き | 目次

  洞くつのそばで(後編)  

セシリアは驚いて,振り返った.
森の木々にさえぎられて,誰の姿も見えない.
いったい兄は,誰と話している?
さきほどの声は,あせって,いらいらしたものだった.
セシリアがいつもの場所,――洞くつのそばにいなかったから,心配しているのだ.
そして,別の誰かがいた.
しかしこの不吉な森に,セシリア以外の人間が足を踏みいれることはない.
正確には,少女と少女を探すライクシード以外だが.
つまり,誰かがセシリアに会いに来たのか?
セシリアは,声のする方に向かって歩いた.
「駅のホームから,ここに来ました.」
若い女性の声が,耳に届く.
セシリアは思わず立ち止まった.
この目立つ気配は,巨大な存在感は何だ?
彼女は聖女か?
いや,サイザーやネリーとは何かがちがう.
「ここはどこですか? 私は駅にいたはずなのに,どうしてこんな場所にいるのでしょう!?」
彼女は異質であり,神から完全に独立している.
すなわち,この世界に属していない.
セシリアはぞっとした.
こんなとんでもない存在に会うのは,初めてだ.
「待ってくれ.失礼だが,君の言っていることが理解できない.」
女性に詰め寄られて,ライクシードは困っている.
「私には分かるわ,ライク兄さま.」
声をかけると,女性はセシリアを見た.
彼女の手にしているたいまつの炎が,彼女の姿を明るく照らす.
旅装に身を包んだ,ほっそりとした女性だ.
いにしえの聖女と同じ,見事な黒髪を持っている.
薄い眼鏡ごしに,これまた黒色の両目がある.
誰からも,何からも縛られない瞳が.
イーサだ,とセシリアは思った.
――もっともっと見てみたい,感じてみたい.
自由奔放だったという彼女の声が聞こえた.
結界の向こうへ,海の向こうへ,そして世界を飛び越えて.
「彼女は,この世界の人間じゃない.」
世界を飛び越えて,禁足の森にやってきた.
遠い世界に住むイーサが,セシリアのもとに舞い降りたのだ.
「ちがう世界から,今,ここに降りてきたの.」
暗い絶望しかない森の中で,彼女のかかげるたいまつの明かりはまさに希望だった.
神が神聖公国を守護するために,セシリアと彼女を引き合わせた.
だから,新しい聖女になるのは彼女だ.
彼女がいれば,セシリアに厳しい態度を取るサイザーも,安心して老いていける.
よってイーサを,けっして逃がしてはならない.
彼女はきっと,鳥のように飛び立ってしまう.
けれど今は少し驚いた顔をして,セシリアを見つめている.
自分を救ってくれる女性の登場に,少女は心から歓喜した.

呪われた王国へ続く洞くつは,セシリアに運命の出会いをもたらした.
だが実際には,少女よりもライクシードにとって,意味のあるめぐり合わせだった.
思い返せば,最初にみゆに会ったのはライクシードだった.
彼女のそばにいて,彼女を見つめていたのも.
みゆを愛したライクシードは,故郷に背を向けてカリヴァニア王国へ旅立った.
そしてカリヴァニア王国からやって来たスミは,神聖公国に残った.
洞くつをくぐって王国へ帰るウィルたちを見送って,スミは泣いていた.
セシリアは黙って,少年をなぐさめた.
けれど内心では,どうか私を置いていかないで,王国へ帰らないでとさけんでいた.
そして今は,みゆを見ないで,私を愛してと,わがままな感情が吹き荒れている.
それが嫉妬だと分かったのはつい最近で,スミが恋人になったのもつい最近だ.
「暗くなるまでには帰ってくるんだよ.」
キースの呼びかけに,みゆは洞くつの中からほほ笑んだ.
「はい.いってきます!」
いってらっしゃい,とセシリアはスミの隣で手を振る.
みゆの表情は光り輝いていた.
今から,恋人のウィルに会いに行くからだろう.
こういうとき,彼女は本当にきれいだ.
美しい光の翼が,背中に見えるのだ.
みゆの後姿が洞くつの奥に消えると,スミは友人のトティとおしゃべりを始めた.
「ミユさん,ほとんど走っていますよね.」
「あの人の恋人って怖い人だと,言ってなかったっけ?」
「えぇ,ものすごく嫉妬深いです.」
「あんなににこにこしている女性の恋人が,むすっとしていて怖いのか.」
想像がつかないな,とトティはつぶやく.
「いえ,ウィル先輩は愛想がいいですよ.たいてい笑顔ですし.」
「え? こわもてのいかつい人だと考えていたけど.」
「逆です.かわいらしい雰囲気で,女装もうまかったです.」
「どんな人なんだ…….」
一方、マージとキースは,
「時間があれば,洋ナシのタルトも用意したのだけど.」
「いや,多すぎだよ.いくらウィルが食べ盛りでも,食べきれないよ.」
「ラート・リアンは,私の作ったタルトが一番おいしいとおっしゃっていたわ.」
マージは力説する.
「妊娠中も食べられていたから,ラート・ウィルは味を覚えてくださっているはずよ.」
「はいはい.次にミユがウィルに会いに行くときに,作ればいいから.」
セシリアはのんびりと会話を聞いていたが,ふいにぞくりとした.
「どうした?」
スミがまゆをひそめて,問いかける.
「結界に力が加えられている.」
洞くつの奥から目が離せない.
「ミユが洞くつの中から,結界を壊そうとしている.」
「まさか! 俺たちに相談もしないで,そんなことをするわけがないだろ.」
「うん.だけど,」
ならば誰が,洞くつにいる?
こんな強い力は,異世界の人間しか,
「ユリ!?」
セシリアは立ちすくんだ.
「彼女が,カリヴァニア王国側から入ったのだわ.」
しかし,何のために結界をつぶそうとするのか.
百合自身は自由に行き来できるのに.
「なんて大きな力だ.結界に,亀裂が入る.」
神の一族であるキースが,顔を真っ青にしている.
「ユリを止めなくちゃ,」
ところが,セシリアの足は動かない.
洞くつに入れば,二度と神聖公国に戻れないのだ.
バウスやマリエ,友人たちの姿が脳裏に浮かぶ.
「彼女は,歴代最高の力を持つ聖女ですよ.」
キースはろうばいしている.
「止めるのは無理です.」
それどころか百合の勘気に触れて,――最悪,殺されるかもしれない.
「でも,このままでは洞くつの結界が壊される.」
セシリアのせりふに,スミもトティもほかの兵士たちも凍りついた.
バウスの受け売りだが,結界がなくなれば戦争が起こる可能性がある.
安全な土地がほしいカリヴァニア王国と,豊かな土地を奪われまいとする神聖公国の間で.
ドナート国王は争いを望まないらしいが,国民全員が彼に従うとは思えない.
なので最低でも,局地的な殺し合いは起こる.
流血の舞台は禁足の森であり,剣を取って戦うのは,トティを含め今ここにいる兵士たちだ.
「バウス殿下に報告して,指示をあおごう.」
トティがあせって言う.
「待って.結界に関しては,兄さまもマリエ姉さまも無力よ.」
セシリアは反対した.
「ならば,聖女であるラート・サイザーに相談しましょう.」
マージが涙目でおろおろしている.
「多分,もう異変に気づいているよ.そして祈り始めている.」
キースのせりふに,セシリアは同意した.
「あるいは,馬車でここに向かっているのかもしれないわ.ただし,今,」
言葉の途中で,少女の体は恐怖で震えた.
逃げ出したい,自分より力や知恵のある人を頼りたい.
殺されるかもしれない,確実に故郷に戻れない.
でも,
「今,一番,ユリの近くにいる聖女は私.にせものだけど.」
震える両手を握りしめた.
セシリアなら,今すぐ百合のもとへ行ける.
彼女を制止できるかいなかは不明だが.
いや,
「ミユと力を合わせれば…….」
セシリアは,スミに視線をやった.
恋人は力強く,うなずく.
「絶対に離れない.俺はセシリアを守り抜く.」
その瞬間,セシリアは駆け出せた.
スミとともに,洞くつに飛びこめた.
何度も入ろうとして,入れなかった洞くつだ.
非力な存在だけど,本当の聖女ではないけれど,がんばってみせる.
セシリアは,神聖公国から逃げるためではなく守るために,洞くつに足を踏み入れた.
戻る | 続き | 目次
Copyright (c) 2013-2014 Mayuri Senyoshi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-