水底呼声 -suitei kosei-

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  洞くつのそばで(前編)  

セシリアが初めて,カリヴァニア王国へ続く洞くつのそばまでやってきたのは,十二才のときだった.
人のいない場所に行きたくて,首都神殿からも城下街からも出ていった.
馬に乗って,ふらふらと禁足の森まで流れ着いたのだ.
当時は,森の警備はいい加減なもので,兵士たちの目をかいくぐるのは簡単だった.
森に足を踏み入れたときの開放感は,よく覚えている.
自分以外,誰もいない.
誰からも見られないし,何も要求されないし,がっかりされることもない.
神の目さえ,この森には届かない.
神聖公国であって,神聖公国ではない場所だ.
けれどここは,呪われた王国へ通じる恐ろしい森でもある.
しかしセシリアには,伝説の魔物たちより,首都神殿の巫女や神官たちの方がゆううつだった.
少女は馬を木につないで,好奇心から洞くつへ足を向けた.
ライクシードから聞いたことだが,禁足の森はおもしろい地形をしている.
森の西から入り奥へ向かって歩けば,緩やかに下っていく.
逆に,森の東から入り奥へ向かって歩けば,緩やかに上っていく.
つまり森の中央に,南北に伸びる断崖があるのだ.
その断崖の真ん中に,洞くつはある.
なので首都の方角,――森の北西から入ったセシリアは,坂を降りていけばいい.
とはいっても,意識しないと分からない程度の下り坂だが.
下草を踏みしめ道なき道を苦労して進んでいくと,崖にたどり着いた.
高さは,セシリア三人分くらいか,もしくはバウスとライクシードを足したくらいか.
土がむき出しになっている.
少女は左右に首を振って,右,――南の方に洞くつの入り口を見つける.
てくてくと歩いていくと,
「うえっ!?」
入り口のそばに,魔物が二匹いた!
真昼のしらじらとした光を浴びて,四本足の獣が,大きな爪のついた前足を高々とかかげている.
ぎょろりとした目がセシリアをにらみ,今にも飛びかかろうとしている.
「た,助けて,バウス兄さま,ライク兄さま.」
逃げようとするが,恐怖で足が動かない.
がくがくと震え,泣き出しそうになってから気づいた.
石像だ.
洞くつの入り口の両脇に,化けものの像が建っているだけだ.
動くわけがないし,人を襲うわけもない.
セシリアは安心して,へなへなと座りこんだ.
それから,やっと思い出す.
これらの石像は,バウスが触るなと注意していたものだ.
そのときは,自分が禁足の森に入ることはないので,関係のないことだと聞き流していた.
少女は立ち上がって,石像には触れないように注意しながら洞くつの入り口に近づく.
案外,中は明るく,気軽に入れそうな雰囲気だ.
だが実際に入れば,今度こそ本物の魔物たちによってセシリアは殺される.
なぜなら少女は,聖女ではない.
石像の怪物たちと同じ,まがいものだ.
本当の聖女ならば,魔物たちに襲われても奇跡の力で追い払う.
セシリアはたやすく殺されて,神殿の者たちはこう嘆くにちがいない.
あぁ,やっぱりセシリアは,ラートという敬称に値しないにせものだったと.
少女は,ぐっとこぶしを握りしめた.
それならそれで,いいではないか.
洞くつに入ろう.
それで,すべてが終わる.
ところがセシリアの足は動かない.
殺されるのが怖くて,進めない.
セシリアはにせもので,なおかつ意気地なしだった.
少女は唇を引き結んで,きびすを返す.
でも,首都神殿に帰ろうとは思わない.
三年前に,聖女ネリーが老齢のためになくなった.
今,聖女は,これまた老人のサイザーしかいない.
彼女が死亡すれば,神聖公国はどうなるのか.
神殿の者たちはそういった不安やいらだちを,セシリアにぶつけてくる.
この子さえ,聖女として十分な力を持っていればと.
セシリアは,森を散策した.
いつまで森にいるのか,首都神殿に帰らずにどうするのか,何も考えていなかった.
ただの逃避だった.
いったいどれほどの時間が流れたのか.
太陽の位置が低くなり,森は暗く,寒くなってきた.
おなかはぐーぐー鳴り,のどもかわいている.
足も疲れた.
たったひとりで森にいるのは,心細い.
コウモリやオオカミが,セシリアをねらっているのかもしれない.
少女は,馬をつないだ場所に戻った.
しかし馬は逃げていた.
少女は無感動に立ちつくす.
こんなとき,母と父が迎えに来てくれたら…….
うつむいていると,
「セシリア!」
ライクシードの声が飛んできた.
顔を上げると,兄が長い銀髪を揺らして走ってくる.
彼はものすごい勢いで突進してきて,少女の体をぎゅっと抱きしめた.
「まさか禁足の森にいるなんて.……馬に感謝だな.妙な馬を見たという報告がなければ,私はこの森を探さなかった.」
ライクシードはほっと息を吐いて,少女の体を離す.
腰を落として目の高さを合わせてから,ほほ笑んだ.
「おなかがすいているだろう? ひとまず城へ帰ろう.」
彼は汗くさく,ズボンや靴は汚れている.
とても心配して,セシリアを探したのだ.
もしも少女が洞くつに入って魔物たちに殺されたら,バウスとライクシードは悲しむ.
絶対に,悲しむ.
「ごめんなさい.」
涙があふれた.
「いいんだ.日が落ちる前に,森を出よう.私はあわてていたから,何も明かりを持っていない.」
セシリアは泣きながら,うなずいた.
ライクシードは少女を抱き上げて,森の外へ向かって歩く.
こんなにも愛してくれているのに,何も返せない.
どれだけがんばっても,聖女にはなれない.
本音を言えば,ライクシードたちの妹として産まれたかった.
四年前になくなった,あの優しい王妃様が母親だったらよかった.
首都神殿の中で,分不相応な聖女のふりはしたくない.
神をあざむき続けるのは,もう嫌なのだ.

あれから何度,禁足の森に家出をしたのか.
首都神殿を出奔して森へ行くのは,セシリアの悪いくせになっていた.
ライクシードの迷惑になるからやめようと思いつつも,やめられない.
今日は廊下で,セシリアをラートと呼びたくないと不満を漏らしている人たちの会話を耳にした.
セシリアは彼らの前に姿を現して,怒るべきだった.
だができずに,森へ逃げ出した.
呪われた王国へ続く洞くつは,セシリアをひどく誘惑する.
洞くつの中に入れば,神聖公国から逃げられるのだ.
しかしセシリアには,すべてを捨てて故郷を立ち去る度胸はない.
魔物と戦う勇気も,力およばず殺される覚悟もない.
今から百年ほど前に,聖女イーサは神聖公国を出ていったという.
当然,次代の聖女を産んだ後のことであり,その子孫がセシリアたちだ.
とは言っても,やはりイーサは変わり者だったらしい.
しょっちゅう大神殿を脱走しては,近くにある林や高台にある草原で遊びまわった.
彼女が容易に抜け出すので,大神殿には外に通じる隠し通路があると,うわさされたほどだ.
そんな彼女だから,神の塔に入り出産を終えると,あっという間に大神殿を後にした.
友人たちと国中を旅して回り,さまざまな奇跡を起こした.
彼女の活躍は今でも,図書館や神殿の本で知れるし,多くの村や町に伝説が残っている.
セシリアは首都神殿の本を読んで,すっかりとイーサが好きになった.
ところでイーサは,旅の間に結婚した.
そして夫とともに,結界の外へ出ていった.
「もっと遠くへ,あの雲に手が届くくらい遠くへ.知らない世界を見てみたい.」
彼女は快活に笑った.
「私は海を目指すわ,海の向こうへ行きたいの.」
けれどほどなくして,バンゴール自治区の者たちが彼女の死を伝えてきた.
自治区を旅していたイーサは,ラセンブラ帝国の権力者に連れさらわれた.
婚姻を強要された彼女は,貞節を守るために自死した.
夫は,イーサが死ぬよりもさきに殺された.
イーサたちの旅の終わりは,悲しいものだった.
洞くつをぼんやりと眺めて,セシリアは考える.
自分にも夫がいれば,神聖公国を出ていけるのか.
死ぬかもしれない危険な場所,――洞くつの中に飛びこむことができるのか.
セシリアは聖女になれないし,聖女を拒否して神聖公国を離れ去ることもできない.
すべてにおいて,本物の聖女にかなわない.
そして,にせものなら,にせものなりの意地を持てばいいのに,それさえも持てない.
陰口をたたかれても,
「私を聖女として祭り上げているのは,あなたたちよ.ならば,にせものでも,ラートと呼んでちょうだい.」
と言い返せばよかったのだ.
少女は落胆して,洞くつから離れた.
すでに日が暮れている.
今日はライクシードを待たずに,首都神殿に帰った方がいいのかもしれない.
森の外へ向かって歩いていると,
「なぜ黙っている,答えろ!」
背後から,ライクシードの鋭い声が聞こえてきた.
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