水底呼声 -suitei kosei-

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  14−2  

昼食を取った後で,みゆはウィルとともに百合に会いに行った.
話に聞いたとおり,百合は部屋に監禁されている.
ただし彼女は,逃げようとはしていない.
彼女は昨日,すべての結界を破壊した.
力を使いすぎたために,まだ体調が悪いのだ.
そしてこの世界でのことを忘れたので,ここがどこか分からずにとまどい,家へ帰してと訴えている.
みゆとウィルが部屋に入ると,百合はベッドに横たわっていた.
ドアの開閉音を耳にして,ゆっくりと起き上がる.
「こんにちは,白井さん.」
みゆは近づいて,声をかけた.
百合はちょっとの間,みゆを観察する.
「あなたは日本人?」
「そうよ.私は古藤みゆ.あなたのクラスメイトの.」
彼女は目を丸くした.
「ずいぶん雰囲気が変わったのね.髪を切った?」
「うん.」
「長かったのに,もったいない.……って,それより,あなたは家出したと聞いたけど?」
「家出ではないの.」
みゆの返答に,百合は首をかしげる.
「ここは病院? 私は隔離されているの?」
「いいえ.」
「なら,私も古藤さんも,外国に誘拐されているの?」
確かに,誘拐のようなものだ.
みゆも百合も翔も,こちらの都合お構いなしで強引に召還された.
みゆは答えずに,話題を変える.
「日本へ帰りたい?」
「もちろん!」
百合は身を乗り出した.
それから不安そうに言う.
「家にも帰りたいけれど,病院にも行きたい.体がすごくしんどいの.記憶もあやふやで,今も頭がぼんやりするし.」
みゆの背後に立つウィルを見る.
「変な薬を打ったんじゃないでしょうね?」
彼女は疑い,おびえていた.
「誰もあなたに危害を加えていないわ.それで話は戻るけれど,私はあなたを故郷へ送ることができるの.」
百合はぽかんと口を開けてから,いきなりベッドから飛び降りる.
「ミユちゃん,下がって!」
ウィルが警戒して,みゆと百合の間に入る.
「私を家に帰して!」
だが予想外なことに,百合はじゅうたんの上で土下座していた.
「あんな両親だけど,私がいなくなったら多分悲しむ.友だちだって,絶対に泣いている.美沙(みさ)とかスウとか,必死になって私を探している.」
みゆは彼女の行動にびっくりしたが,ややあって納得した.
もしも自分が召還された直後に,家に帰れるとささやかれたら,同じ反応をしただろう.
ましてや百合は体の具合が悪く,記憶を失っている.
二年前のみゆよりも,不安が大きいにちがいない.
むしろ,さきほどのみゆのせりふが軽率だった.
みゆはウィルの後ろから出ていき,百合のそばでひざをついた.
「頭を下げないで.すぐにあなたを帰すから.」
百合は顔を上げる.
表情から,みゆにすがっていることが感じ取れた.
「お願い,今すぐに.」
みゆはうなずく.
「まずはベッドに座って.次に,日本のことを思い浮かべてちょうだい.」
百合は立ち上がろうとしたが,力が入らずにへなへなと座りこんだ.
ウィルが手助けをして,彼女をベッドに腰かけさせる.
「ありがとう.」
「どういたしまして.」
ウィルはそっけなく答える.
百合は瞳を閉じて,日本,日本……,とつぶやいた.
ところが一分もしないうちに,両目を開いた.
「古藤さんは帰らないの?」
「帰らないわ.」
百合はウィルに視線を移す.
「彼がいるから,帰らないの?」
「えぇ.」
ウィルのほかにも,たくさんの大切な人たちがいる.
みゆは透を帰したくせに,自分は帰らない.
世界のゆがみを考えると,みゆと百合だけでも帰るべきだが.
「ストックホルム症候群になっちゃったの?」
ストックホルム症候群とは,――うろ覚えだが,人質が誘拐犯を好きになる現象だ.
みゆは苦笑した.
「ちがうと思う.私は帰りたいと願えば,いつでも帰れるから.」
ゆがみを直すだけなので,容易に日本へ戻れる.
ただ,再びこの大陸に来るのは難しい.
それは,ゆがみを作る行為だからだ.
「じゃあ,私も簡単に帰れるの?」
「うん.」
百合はほっとして息を吐いた.
それから,
「あなたは京大をあきらめたの? 友だちすら作らずに,勉強ばかりしていたじゃない.」
「私は京大には行かない.」
彼女は少し寂しげに,両目を細める.
「そっか.そっちの方がいいよ.今の古藤さんの方が,気持ちが楽そうだから.」
「ありがとう.」
みゆはほほ笑んだ.
百合の背後に,日本の風景が映る.
ファーストフード店の中で,二十歳前後の女性たちが深刻な顔つきで話し合っている.
おそらく百合の友人たちだ.
2006年の日本で,百合を懸命に捜索している.
「今から,あなたを故郷へ帰すわ.」
みゆのせりふに,百合は首を縦に振った.
「さようなら,白井さん.」
「さようなら,優等生だった古藤さん.」
ほほ笑んだ百合の両肩を,みゆは両手で押す.
百合は驚いた表情で後方へ倒れていき,姿がすぅっと薄くなった.
彼女と日本の景色は,煙のように消える.
「また会いましょう.」
みゆはつぶやく.
「二年後に戻ってくるのかな?」
ウィルが聞いた.
「うん.」
みゆは彼の方を振り返って,笑う.
驚くことに,地球にいる二年後の翔から手紙が届いたのだ.
時空を越えた手紙は,みゆの部屋の前の廊下に落ちていた.
昼食後の片付けをしていたマージが発見して,ウィルに相談した.
ウィルは日本語で書かれていることに気づいて,みゆに渡した.
「記憶を消してまでして日本に帰ったのに,大神殿に戻ってくるの?」
ウィルはあきれている.
「一度帰郷することが,白井さんには必要だったのかもしれない.」
みゆが地球の持ちものをほぼすべて捨てて,両親への手紙を翔にたくしたように.
故郷への未練は,たやすく断ち切れるものではないのだ.
「二年後,白井さんと桜ちゃんは再会して,ルアンさんとウィルみたいな心の通い合う親子にきっとなれる.」
ウィルとルアンだって,最初は仲が悪かった.
ルアンはウィルを眠らせて自由を奪ったし,ウィルはルアンを殺そうとした.
そんなふたりに比べれば,百合たちはだいぶマシな気がする.
「ラート・サイザーは,未来の白井さんが作ったぬいぐるみを,すでに桜ちゃんに渡しているし.」
そして,母親は二年後に戻ってくると伝えている.
まだ一才の幼子が,どれだけ理解しているのか分からないが.
さらに,神聖公国の置かれた状況は大きく変わった.
これからのバウスやライクシードたち次第だが,二年後はもっと変化している.
百合が結界を壊した罪人として責められる可能性は,低いだろう.
「白井さんは大神殿に戻るまで,日本でぬいぐるみを作り続ける.そのぬいぐるみとともに,透君と絵里子ちゃんがこの世界にやってくる.」
透たちは十日間滞在した後で,――どの国にいたのか不明だが,過去へ飛ぶ.
「神聖公国ができて,聖女が作られて,ルアンさんとリアンさんが愛し合って,ウィルが誕生する.」
もしも百合を日本へ帰さなかったら,歴史が変わった.
過去を変えることも考えたが,みゆは現状維持を望んだ.
今まで経験したことすべて,失敗や遠回りも含めて,無駄なものはなかったから.
そして何よりも,
「私が白井さんを日本に帰したから,ウィルが産まれた.」
たとえ二年後に透と絵里子に会っても,みゆは別人のふりをする.
あるいは彼らを避けて,見つからないようにする.
二年前のみゆが,ウィルに出会うために.
「だから私が,あなたを呼んだの.」
暗い水底で,息をのまれながら生きていた.
そんなみゆを変えたのは,闇から現れた黒猫の少年.
「カリヴァニア王国の王城の中庭で,私があなたを呼び寄せた.」
世界を越えて,時間さえも越えて,ふたりが出会うように.
愛していると,寄せては返す波のように声を上げ続ける.
ウィルは微笑した.
「君の声は,僕に届いた.確かに聞こえた.君に出会えて,うれしかったよ.」
ウィルの本名と絵里子のハンドルネームが同じなのは,偶然なのか意味があるのか.
ウィルは絵里子の生まれ変わりなのか?
みゆは絵里子の写真を見たが,ウィルに似ていなかった.
それに透はウィルに,絵里子と顔がちがうと告げた.
ならば,指輪の中にいた絵里子の幽霊が,一瞬だけウィルに乗り移ったのか?
そして日本語をしゃべり,結婚指輪のことを教えたのか.
みゆはウィルを質問攻めにしたが,よく分からなかった.
けれどウィルは,まるで自分が見たかのように忠告する.
「神様として君臨して,世界を思いのままに操っちゃ駄目だよ.トールみたいに恨まれて,やいばを向けられるから.」
しかしもう日本語はしゃべれない.
いずれにせよみゆは,絵里子はウィルの中で生きていると,翔と透に手紙を書くつもりだ.
多分に,なぐさめに満ちた言葉だけれど.
そして百合が大神殿に帰ってきた後に,手紙を送る.
翔と同じく,できるだけ念をこめて空に放ってみよう.
月さえない闇夜の出会いから,みゆとウィルの物語は始まった.
人が人を愛するかぎり,新しい物語は生まれていく.
みゆはウィルと手をつないで,部屋から,――表舞台から立ち去った.
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