水底呼声 -suitei kosei-

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  雨の夜に  

娼館ロードンの所有者であるツィーロは,変人だ.
彼の奇行を上げれば,きりがない.
夜中,王都の街を歩きながら歌ったり,十人以上の娼婦を連れて城へ行ったり,自身の描いた何十枚もの絵を娼館に飾ったり.
それらの奇矯な行いのひとつとして,エーヌは娼婦から雇われ店主になった.
エーヌの商才を見抜いて抜てきした,というわけではない.
事実,エーヌが上に立った最初の一年は,大混乱だった.
エーヌが女主人として認められるまで,三年ぐらいはかかった.
今ではエーヌは娼婦としては働いていないが,ひとり例外がいる.
カイルだ.
彼は,ツィーロが連れてきた客である.
ツィーロは彼を,酒も女もしない男だと紹介した.
カイルは,ツィーロ以上に何を考えているのか理解できない.
どんななぐさめも,彼の表情を和らげることはなかった.
そのカイルだが,近ごろ,めっきりエーヌのもとへ訪れない.
もともと娼館に寄り付かない男だから,気に病む必要はないが,エーヌは気にかけていた.
前回,娼館に訪れたときの様子が,いつもとちがったからだ.
思い返せば,前々回あたりから彼はおかしかった.
彼は,優しかったのだ.
口数も多かった.
エーヌは苦笑する.
男の機嫌がよくて,心配になるなんて.
エーヌは,二階にある自室の窓から,雨にぬれる街を眺めた.
娼館ロードンはツィーロの美学により,雨の日は営業しないことが多い.
今夜はエーヌも含めみんな,のんびりと過ごしていた.
「エーヌ.」
寝支度をしているとき,部屋にケイが顔を出した.
五十才を越える老齢の女性で,もとはツィーロの家の使用人だったらしい.
ここでは,店主であるエーヌの補佐をしている.
「誰かが裏口をたたいて,扉越しに話しかけてくるのだけど,」
ケイはうそ寒そうに,みずからの腕を抱いた.
「しわがれた声で,何を言っているのか分からないのよ.」
階下を気にして,視線を階段へやる.
「近所から,男たちを呼んだ方がよくないかい?」
娼館には女しかいない.
扉をたたいているのは,強盗か何かなのか.
「そうね,お願い.」
エーヌは頼んだ.
ケイはうなずいて,足早に廊下を進み,階段を降りていく.
エーヌはショールをはおって,部屋から出た.
夜遅いこともあり,廊下の明かりは半分以上は消えている.
エーヌは手燭にろうそくを立てて,廊下の明かりから火を取った.
薄暗い階段を降りて,食堂に入る.
表口の玄関から,ケイがそっと出て行くのが見えた.
エーヌはあちこちの明かりをともしつつ,調理場を目指す.
たどり着くと,確かに裏口の扉がたたかれている.
エーヌが近づくと,ひび割れた声がした.
よくよく聞くと,「エーヌさん.」と呼びかけている.
まさか,
「ウィル?」
カイルの言動から,王都に帰っていると推察していたが.
「ヴゥ,ン.」
「うん.」と肯定した.
エーヌは手燭を棚の上に置いて,扉を開く.
雨にぐっしょりとぬれた黒衣の男が立っていた.
「……カイル.」
つぶやいた後で,間違いだと気づく.
「ごめん,なさい.」
かぜでもひいているのか,ウィルの声はがらがらだ.
「カイル師匠が,死んだ.僕は,彼を,止められなかった.」
「ウィル,中に入って.あなたはびしょぬれよ.」
エーヌは腕を引いて,少年を館に入れる.
黒い前髪の下から,同じく黒い両目がのぞいた.
けれどその瞳は,エーヌの知っているものではない.
人殺しの技を教えられる,あわれな子ども.
やみしか知らず,おのれが不幸であると気づかない.
ウィルは無知で,幼子のように無邪気でもあった.
しかし今は――.
ウィルがエーヌの前から消えて,数か月がたっていた.
その間に,どれだけのことを経験したのか.
瞳の奥は複雑で,エーヌには読み取れないほどに深い.
「エーヌ,知り合いかい?」
振り返ると,ケイが近所の男たちを連れて戻ってきている.
「ウィルよ.」
ケイは目を大きく開き,「坊や!?」とさけんだ.
男たちは,顔見知りらしいぞと安堵した表情になる.
「こんなにぬれて,かわいそうに.」
少年が何事かをしゃべると,ケイはからからと笑う.
「やっと声変わりかい! 遅かったねぇ.」
エーヌは,どきっとした.
ウィルの声は高かった.
見た目も雰囲気も中性的で,男を感じさせる要素はとぼしかった.
「俺たちは帰るよ.」
わざわざ来てくれた男たちに,エーヌは礼を述べるとともに頭を下げた.
「礼ならいいよ.それより安くしてくれよ.」
にやける男たちに,エーヌはあいまいな笑みを保つ.
返事はせずに,表口の玄関から丁重に送り出した.
食堂を経由して調理場に戻ると,ウィルが綿布で髪をふいている.
ケイは,替えの服を探しに行ったのだろう.
だがここには,女性の服しかない.
以前のウィルならともかく,今のウィルには似合わない.
そう思うと,切ないようで,うれしくも誇らしいようで.
少年期の終わりに恋を覚えて,エーヌの前からいなくなった少年.
このような暗い場所には,二度と来てほしくなかった.
カイルともエーヌとも離れて,日の当たる場所にいてほしかったのに.
少年が,口を開く.
「言わないで.」
エーヌは先に,言葉を飛ばした.
そして自分のせりふに,――聞きたくないという自分の気持ちに驚く.
ウィルは,途方に暮れていた.
「カイルは悪い男よ.あなたにひどいことをたくさんしたわ.」
エーヌは早口で話す.
「だから,あなたが悲しむことはない.」
「僕は,悲しいよ.」
とぎれとぎれに,少年は答えた.
「エーヌさんも,つらそうだ.」
何ということだろう.
ウィルは相当に変わったようだ.
こんな風に,人をいたわれる子どもではなかったのに.
「ごめん,なさい.」
少年のかすれた声が,雨のように,しとしととエーヌの心をぬらした.
「あなたの,愛する人を,守れなかった.」
愛する?
そんなわけはない.
カイルは,金払いのいい客だ.
ウィルに謝ってもらう必要はない.
ケイが着替えを持って,戻ってきた.
「どうしたんだい?」
けげんそうに,エーヌたちを見比べる.
エーヌは多少ぎこちなくなったが,ほほ笑んだ.
「ウィル,着替えなさい.かぜをひくわ.」
ウィルは首を縦に振って,ケイから服を受け取った.
「新しい服を着たら,食堂に来て.暖かい飲みものを用意するわ.」
エーヌは食堂へ向かう.
一人になりたかった.
ウィルが着替える間だけでも.
けれどきっと,少年はゆっくりと着替えてくれる.
エーヌは扉を閉めて,息を吐いた.
カイルがなくなった,とウィルは告げた.
ウィルが,こんなうそをつくわけがない.
しかし,いきなり命を落としたと言われて,信じられるわけがなかった.
広いがらんとした食堂で,エーヌは立ち尽くす.
ろうそくの炎が明るく室内を照らしても,夜のやみが部屋の隅から染みこんでくる.
もしも死んだとしたら,カイルは孤独のまま息を引き取ったのだろう.
彼は自分に与えられる愛情を,受け入れないようにしていた.
自身がうわつかないように,常に戒めていた.
本当は,私のこともウィルのことも,愛していたのでしょう?
笑おうとして,エーヌは泣いた.
カイルが優しかったのは,もう会うつもりはなかったからだ.
そんな気づかいはいらなかった.
また来てくれれば,それでよかった.
金目当ての娼婦と肉欲を満たしたい客という茶番劇を,永遠に演じたかった.
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