水底呼声 -suitei kosei-

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  王子の恋愛騒動1  

「会議まで,ひと寝いりする時間はあるか?」
背後から問われて,マリエは本棚に伸ばした手を止めた.
部屋の隅にある置き時計の,針の位置を確かめる.
「あります.」
「時間が来たら,起こしてくれ.」
疲れた様子でバウスは立ち上がり,机から離れた.
上衣の首もとを緩めて,ソファーに転がる.
マリエは,本棚の整理を再開した.
一区切りつくと,先ほどまで王子がいた机へ向かう.
散らかっている机の上を片付けて,会議に必要な資料を目立つ場所に置く.
そのとき,部屋の扉がたたかれた.
マリエは,ソファーで眠っている彼を横目で見ながら,扉へ歩く.
扉を開くと,廊下には一人のメイドが立っている.
彼女はセシリアのそば仕えで,名前は,――確か,ポーリンだ.
マリエは廊下に出てから,用件を聞き出した.
「セシリア様が,バウス殿下とお茶をしたいとおっしゃっているの.」
最愛の妹からの誘いは,優先順位が高い.
これは,今,眠っている王子を起こすべきかもしれない.
マリエがそう告げると,ポーリンは困ったように言った.
「姫様は,“兄さま”の働き過ぎを心配しているの.」
つまりセシリアは,バウスを休ませるために,お茶に誘いたいらしい.
ならば,疲れて眠っている彼を起こすことは,目的に反する.
マリエは頭の中で,今日の予定を確認した.
大臣たちとの会議の後は,親衛隊の隊長であるストーとの打ち合わせがある.
しかしその打ち合わせは急を要するものではなく,明日にずらすことは可能だ.
そしてセシリアの心配するとおり,最近の王子は働き過ぎている.
今,こんこんと眠っているのも,疲れている証拠だ.
「会議の後で,セシリア様の部屋へ行くようにお願いするわ.」
「うん,ありがとう.」
そして二,三のやり取りをした後で,ポーリンは立ち去った.
マリエは,ストーのところへ向かおうとする.
すると,そばにいた兵士のうちの一人が,彼への伝言を買ってくれた.
どうやら会話を聞いていたらしい.
「私も同じことを心配していますので.」
彼は,はにかんだように笑った.
マリエは礼を言って,彼の後姿を見送る.
そして静かに扉を開いて,部屋に戻った.
バウスが働き続けている理由には,心当たりがある.
いや,マリエだけでなく,城の者は皆気づいている.
彼の弟であるライクシードが,いなくなったのだ.
ライクシードの行っていた仕事はほぼすべて,バウスのものになった.
バウスはそれらをこなしつつ,後任の担当者を決めていった.
しかし今では,引きつぎは終わった.
だが,彼はいそがしいままだった.
特に何か,国がもめているわけではない.
みゆたちが去って一か月がたち,城は落ちつきを取り戻している.
だからバウスはのんびりできるはずなのに,なぜか,せかせかと動き回っている.
つまり彼は,積極的に仕事を増やしているのだ.
弟のいなくなった寂しさをまぎらわすために.
マリエは足音をしのばせて,ソファーに近づいた.
眠る王子の顔は,老けているように感じられる.
輝く銀の髪も,精彩がない.
無精ひげが,あごにちらほらとあった.
「お体を大事になさってください.」
小さな声で言う.
マリエが言うより,セシリアが言う方が効果があるだろう.
そう思うと,少しだけ切ない.
けれど,少女とのお茶の時間を確保できる自分がうれしかった.
マリエはメイドであって,メイドでない.
実質は,バウスの秘書官だった.
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