水底呼声 -suitei kosei-

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  エール  

夜,宿屋の一室で,翔は自分の持ちものをひとつひとつ確かめていた.
携帯電話,財布,予備校のテキスト,英和辞典,着ていた服など.
うまくいけば明日,故郷の日本へ帰るのだ.
カリヴァニア王国の王都から.
ふいに,この世界であった,いろいろなことがよみがえった.
まるでゲームみたいに国王から国を救ってくれと頼まれたこと,情けない男だとバウスからバカにされたこと,貧民街の男たちにリンチにされて逃げ回ったこと.
初めて酒を飲んで吐いたこと,髪を遠慮なく切られたこと,小さな子どもたちに囲まれて眠ったこと,馬の出産に立ち会ったこと.
すべてが,すばらしい思い出だった.
異世界での滞在は結局,一か月程度で幕を下ろそうとしている.
長かったのか短かったのか,自分では判断がつかない.
今日は,日本では十月十八日だ.
来年の一月に行われるセンター試験までには帰ると息巻いていたが,そもそもすでに願書の受付は終わっているだろう.
だが,悔しいとも悲しいとも思わない.
もの思いにふけっていると,こんこんと扉がノックされた.
「柏原君.今,いい?」
同じ日本人である,みゆの声だ.
「いいよ.どうした?」
翔は扉を開いて,彼女を招き入れる.
「ペンと紙をありがとう.」
みゆは,筆箱とA4のレポート用紙を返した.
彼女は地球のものは全部捨てたので,翔が貸していたのだ.
それらを受け取ると,彼女は何とも複雑な顔を作る.
「……よろしく.」
きれいに四つ折りにされた,一枚の紙を差し出す.
たったの一枚だった.
その潔さは,みゆの性格を表していた.
「必ず,君の家族に手渡すよ.」
翔は決意とともに,手紙をもらい受ける.
「手渡すのは,やめて.」
彼女は首を振った.
「私の両親は柏原君を責めるから,手紙はポストに入れて.」
「責められてもいいよ.」
一人で帰るのだから,それは覚悟の上だった.
そして,甘んじて受けるつもりだった.
特に,みゆと百合の家族からは.
百合のことを思い返すと,翔の心は苦くなる.
大神殿で,「これ以上,妊婦を興奮させないでくれ.」と言われ,翔は彼女から引き離された.
確かに翔は彼女を救うことができず,いたずらに動揺させたり期待させたりするのみだった.
神官たちから,もう会わないでほしいと告げられて,何も反論できなかった.
「私の両親は,」
みゆの声に,翔は我に返る.
「あなたが一人で生きて帰ってきたら,」
彼女の両手は,固く組まれている.
「なぜ一人だけ助かったとか,そういう……,」
歯切れの悪い話し方だった.
事情を感じて,翔は引き下がることにする.
「ポストに入れるよ.」
みゆは,ほっとした.
「ウィルは?」
話題を変えるために,翔はたずねる.
「名なしの人と,明日の相談をしている.」
明日の王都入りの相談を.
過去に,みゆとウィルは城から逃げたらしい.
よって暗号の本を持ち帰っても,もろ手を上げて歓迎されるとはかぎらない.
けれど,彼女の顔に不安はない.
恋人であるウィルに対する信頼だけがあった.
「うまくいけばいいな.」
みゆはうなずく.
「あなたはちゃんと,日本へ帰してもらうから.」
かみあわなかった会話に,翔は苦笑した.
「俺のことじゃなくて,古藤さんのことだよ.」
四年後に海の底に沈む国に,彼女は残る.
しかし,悲壮さはみじんもない.
つまり彼女は未来をあきらめておらず,カリヴァニア王国を救うつもりなのだ.
まさに,RPGの勇者のように.
ふいに翔の中に,尊敬に似た気持ちが生まれた.
滅亡する世界に留まり戦える者は,ゲームの中では多いが,現実では少ないだろう.
翔は微笑して,手を差し出した.
「がんばって.」
みゆも,口もとをほころばせる.
「柏原君も,がんばってね.」
固く握手を交わした.
彼女は照れたように,ふふふと笑う.
翔も,笑い声を漏らした.
「俺たち,予備校でほとんどしゃべったことがなかったのに.」
翔はみゆを,同じクラスの成績上位者として意識していたが,彼女はどうだったのか.
「そうだね.」
今,ここで友人として別れを惜しむとは,予想だにしなかった.
「ごめんな,古藤さんを責めて.」
翔は召喚されてからずっと,彼女を責めていた.
輝かしい未来へ続く階段から落ちたと考えていた.
だが,それは間違いだった.
「俺は,地球でやり直すよ.」
自分の人生を.
自分のやりたいこと,――夢やこころざしを探して,本当の意味での“勉強”をする.
家族とのきずなをたぐり寄せ,みずからの力で強くする.
彼らが,エリートコースを踏み外した翔を受け入れてくれるか,悩むのはやめた.
自分から愛情を与えずに期待ばかりするのは,やめたのだ.
「私は,この世界で生きてゆく.」
みゆは,そっと手をほどく.
二人の道は今,分かれた.
最後に彼女は,にこりと柔らかく笑んだ.
そのほほ笑みは,何よりも清らかで美しい.
予備校という閉塞された空間では,咲かない花だった.
俺たちはこの世界に連れられて,悪い夢から覚めたのかもしれない.
ふいに,そう感じた.
「さようなら.」
たがいにエールを送りあい,翔はみゆと別れた.
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